頭では分かるのだが、身で分かりたいと言う人へ
内山興正著
自動車運転を教習所でならう人は、先ず自動車の運転の仕方を学ぶでしょう。運転の仕 方さえも知らないのでは、初めから到底運転は出来ませんから。しかし一応運転の仕方が 分かったからといって、それでいいというものではありません。何処までもそれをならっ ていくべきです。
道元禅師も「仏道をならふといふは自己をならふなり」(正法眼蔵・現成公案)と言われます が、この「ならふ」の日本語の意味は「成り合う」という意味です。乗馬の場合は人馬一 体「鞍上人なく、鞍下馬なし」というように、今は人車一体にまで合体し「成り合う」の が大切です。
人生運転の場合でも、一応の運転方法がどういうことであるかだけは人に伝えることが 出来るはずなので、そういう話だけを私はしてきているのです。だから私の本を読んでそれを一応学ばれたら、それからそれを心として「ならう」べきです。この「ならう」は全 く当の本人がやる以外にはありません。当の本人が実際に修証し修証していく処に、当の 本人の「身にツク」ということはあるはずです。
しかし、いかにその運転技術が身についても、運転の実際はいわば生ものであって、刻 刻その時その時のものです。一瞬の油断がどんな大事故でも惹き起こしてしまう危機は、 いつもはらんでいます。
例えば自動車運転でも、何十年無事故ということで緑十字章を授けられたベテランの人 もおられるわけですが、緑十字章をクルマに飾って運転している人をいまだ見たことはあ りません。それというのも、たとえ何十年無事故のベテラン運転者といえども、事故は一 瞬のうちにどんな時にでも起こり得るのであり、それが「生(ナマ)のいのち」というものです。 そんな事故を起こした時に、もしそのクルマに緑十字章が飾ってあったというのでは、引 っ込みがつかないであろうことぐらい、そういうベテラン運転者ともなれば「生(ナマ)のいのち の恐ろしさ」と共に先刻ご承知だからではないでしょうか。
それと同じく、仏教においてサトリはないわけではないでしょうが、これを改めて意職 すべきではないでしょう。「オレはサトリを開いてすっかり人生運転の技術を身につけた」 と、緑サトリ章を飾るような人は、どうせ危いサトリでしかありません。
人生運転の話が分かったら、いよいよ慎重に初心をもって、さらになお発心し、発心し、 刻々に生のいのちで生のいのちを狙いつつ生きることだけを心掛け、無限に一歩でも神の 国に近づいていく深さこそを、われわれの自己の宗教生活としたいと思います。