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老師は何を求めて生きてこられたのかと言う人へ
内山興正著
私は若い頃から「進みと安らい」ということを自らの課題として生きてきました。ゲー テの『ファウスト』の中に「人間は進むかぎり迷う」というような言葉があったと記憶し ていますが、進みながら迷わず安らうような生き方が人間として必ずなければならぬとい うのが、若い頃からの根本確信であり、私はそれを求めて一生を生きてきました。
進みとは何処までも生き甲斐をもって目差す処に向かって歩みを進めることであり、こ れに反し安らいとは、どうしなくてもいいのだ、このまま此処こそ落ち着き場所だと安住す ることです。この矛盾した二つを同時に受け入れるような生き方こそが、真実のいのちだ と思い、このような生き方を私は私の中に住まう一切衆生のために開示したかったのです。 そして五十歳代の頃ようやく書けると思い、『進みと安らい』という本を書き刊行まで 致しましたが、数年経つうちにやはりこれはまだ未熟だと思うようになり、これを絶版に致しました。そしてさらに追求しつつ、ようやく『御いのち抄』という本を 書き、この中に絶対間違いのない一事を載せました。ご参考までにそれを再録します。
進みとは
見渡すかぎり自己である自己が
見渡すかぎり自己である自己に安らう
いのち落ち着きの深さ
安らいとは
見渡すかぎり自己である自己が
見渡すかぎり自己である自己に進む
いのち生き甲斐の深さ
これを書いてからまた数年、今や八十歳の高齢となり、もはや自分より外部に向かって 何かを求めつつ生き甲斐を感じるような力はなくなりました。「よりよい生活を求める欲」 も、色気も、権力欲も、名声欲も・・・大体もはや世間の誰もが相手にしてくれなくなった ばかりではなく、私自身もそれを追求するだけの体力、気力がなくなってきた第三期老人 です。
しかし幸い、私は一生にわたってこの進みと安らいの問題を追求しつつ、結局「自己の 依り処は自己のみなり。よく調えられし自己こそ真の依り処なり」と言われる釈尊、そし てそれを引き継いで自受用三昧を教えられた道元禅師、さらにこれを「自分が自分を自分 する坐禅」として解説して下さった沢木老師の教えに従って、長年坐禅を修行してきまし た。今や高齢でもはや坐禅は出来なくなりましたが、しかしすべて「見渡す限りが自己ぎ りの自己」であることだげは、信じて疑わなくなりました。たとえそれを疑い、また否定 しても、それぐるみ「自己ぎりの自己」の一コマでしかないのだからです。それでこの 「自己ぎりの自己」に坐る深さの中に、いよいよ落ち着いていく安らいを見出すのであり、またこの安らいの深さを見出していくことこそを、今の私の生き甲斐ある進みとしています。
その点、もし若 い頃からただ自己より外の何かのアテ・・・例えば色気とか生活向上欲、権力欲などだけを 追求し、これだけを生き甲斐としてきていれば、もはや第三期老人ともなると、幾らこち らがそれを求めても誰も相手になってくれるものではなく、しかも実際としては自分自身 もそれを追求する体力や気力が段々なくなっていくのですから、結局あとはただ呆けるの を待つより他はなくなるでしょう。
現代の人々は今いう色気や、金、金、金という生活向上欲や権力欲だけで生きてきてい ますが、このような生きる姿勢、生き方のいきつく処は、ただ呆け老人となるだけのこと です。つまり今は呆けベルトに乗ったまま、みんな運ばれていっているような時代なので、 やがて呆け老人の大量生産時代に入ることは間違いないでしょう。
今私は自分の一生を振り返り、良かったと思う一事があるとすれば、この「自己ぎりの 自己」の深さの道を、仏道を通して教えて頂いたということではなかったかと思います。