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人生とは何か、と悩む若い人へ
内山興正著
人生とは何か・・・これは誰でもない私自身が若い頃から求め続けた問題です。そして現 在でもなお求め続けている問題です。ただ今の私として一応分かってきたことは、人生は 深さであって、その真実はこの小さな自分の思枠(ふつう思惑と書くわけですが、ここで は敢えて思いの枠、囲いという意味で思枠と書きます)の中には、入り切るものではない ということだけは間違いないと思うようになっています。そしてこのような人生に対し、 何処までもその真実を問い続ける姿勢態度こそが、そのまま人生の真実なのだとして歩み 続けています。
これに反し、人生とは何か浅い処で簡単に結論を下したり、あるいはサトッタつも りになって、この問い続け求め続ける態度をやめてしまったら、いずれそんな中途半端な 結論や悟りは奪り上げられてしまう時は来るでしょう。そしてその時、簡単 な結論や悟りで傲慢に生きて来た人は大慌てに慌て、たた怯えたり怖れたりするより他は ないでしょう。
「一神は何事もなし能う」とは聖書にある言葉ですが、確かに人間の簡単な結論や悟りを 奪り上げてしまうことぐらい、神様(神という言葉に低抗を感じるなら大自然と言っても いい)にとつて、いとも容易いことに違いありませんから、われわれ人間は神あるいは大 自然に対しては、何処までも謙虚でなければならないということだけは先ず知っておくべ きです。
その点、何処までも謙虚にいのちの深さを求め続ける態度であればこそ、われわれの思 いもよらぬ、つまり自分の思いの枠からはみ出した不幸不運な事態や大疑問、さらにある いは自分自身のジレンマのどん底に陥った時にでも、さらに大勇猛心をもってマッサラな いのちから出直し出直し、より深い人生を発見していくことも出来ます。だから人生とは 何より自己自身の修行の道場と心得て、自己自身のいのちの深さに向かって何処までも開 拓開墾していく態度をもちましよう。しかし、そのためには今あなたが学生であったとし たら、学校の勉強に身を入れて学ぶことも大切です。というのは例えば碁や将棋にも定石(定跡)というものがあるように、人生追求の道にもそれなりの定石があります。
つまり人生とは何かということについて、昔から先人達も精一杯の努力をし、それなり の業績を残してきているはずです。そういう業績を学ぶことなしに、人生とは何かと幼稚 な自分のアタマだけで考えても、どうせ本当の道が歩めるはずはありません。本当に人生 とは何か少しでも深い処で問い続けたいと思うのなら、そういう先人達の業績を充分学び とることが出来るほどに、こちらのアタマも高められていなければならないわけです。東 洋の先哲、あるいは西洋の先哲の言葉一つを学びとるためには、その背景にある歴史や文 化、またそのための語学力や論理的思考力などを身につけていなければならず、結局今の 学校の勉強ぐらいは常識として学んでおくべきです。
人生とは何かと問うような若人達は、それこそ受験のため、就職のため、エリートコー スを進むためというように堕落してしまっている今の学校教育に対し、全く反感をもたず にはいられない気持はよく分かります。本来の勉強は今も言うように、世の中の各方面に 向かう人それぞれの定石を学ぶための基礎知識としての勉強でありました。ところが今の 学校教育はその点全く堕落しているわけですが、それが堕落しているからといって自分も 堕落しなければならぬわけてはなし、また、だから自分は学校で勉強する気になれないと いうのでも、あなたのように人生は何かと間う若人の取る道ではありません。
そういう今の学校の趨勢とは関わりなく、ただ自分自身の人生とは何かと間う定石を学 ぶための基礎知識の勉強として、志を立てて学んでいかれることをお勧めします。そして 学校を出られたら、さらに人生とは何かをそれこそ本格的に学ばれつつ、そしてある時、 この人についてこそ学ぼうという人に出会ったら、その人を師としてより深く学びつつ、 何処までも自己の人生を深めていかれることを期待しています。
これに反し、「自分は今人生を悩んでいるために、今せねばならない勉強も仕事も手に つかないのだ。だからオレは勉強も仕事もやりはしないのだ」と、まるで「人生とは何か」 という悩みを楯として、自分の怠惰を弁護している人がいます。あるいはただ傲慢たる趣 味として「自分は人生を悩んでいる」と耽溺しつつ、人生に対して、なあに愚図っている のでしかない人達も、掃いて捨てるほど沢山います。
こんな人達は初めから「人生とは何か」など問う資格はない人達です。以上の答えは、 もちろんこんな人達への答えではありません。