安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2010年 1・2月号

黙って十年



安泰寺へのこす言葉


 二〇〇一年一月の下旬、身を切るほど寒い朝のことです。
 「ちょっと方丈まで来い」
 久しぶりに師匠の面接に呼ばれました。方丈の窓には花模様の氷が一面につき、その向こうには雪が高さ三メートルあろう壁を作ったので昼間でも室内は薄暗いです。そして、ストーブも火鉢も入っていないため、やはり寒いです。いつも以上に寒く感じているには、気のせいだろうか。しかし、寒そうにしている場合ではないらしいです。師匠のテンションはいつもと違います。
 「お前も、安泰寺に来てから十年以上は経ったなぁ。どうするつもりだ、これからは?」
 「いいえ、特に何も決めておりません。」
 六代目の住職内山興正老師が引退の際に提唱した「安泰寺へのこす言葉」を入門志願者は皆が叩き込まれるのです。
 (一)人情世情でなく、ただ仏法のために仏法を学し、
 仏法のために仏法を修すべきこと
 (二)坐禅こそ本尊であり、正師である
 (三)坐禅は具体的に「得は迷い、損は悟り」を実行し、二行(誓願行、懺悔行)三心(喜心、老心、大心)として、生活のなかに働く坐禅でなければならない
 (四)誓願をわが生命とし、深くその根を養うこと
 (五)向上するのも堕落するのも、自分持ちであることを自覚して、修行向上に励むこと
 (六)黙って十年坐ること。さらに十年坐ること。その上十年坐ること
 (七)真面目な修行者たちが悩まないでいいような修行道場であることを目指し、互いに協力すべきこと
 ですから、修行期間に関して私は当然「まず十年、さらに十年・・・」でなくてはならないと思いました。師匠は何が言いたいのでしょうか。
 「安泰寺の堂頭になるという可能性なんか、考えていないのか」
 禅で「青天白日、一声の雷」とはこのことです。この数ヶ月、いや数年間、私は師匠から突き放されているばかりという、表現のしようのない疎外感を味わっていました。まさか、師匠はこの私に寺を譲ろうというのでしょうか。今まで師匠の期待を託されていた先輩は何人かいましたが、結局皆飛び出してしまいました。私にまで師匠がそんな期待をしてくれているのでしょうか。
 「いいえ、自分にはとてもそんな力量はないと思います。安泰寺での修行が終われば、いずれ小さな禅道場を持って、若い人と一緒に坐りたいとは思うのですが、この安泰寺は・・・」
 「うん。実は、ワシも無理だと思う。ちょっと確かめたかっただけだ」
 なんだ、それを言うために師匠に呼び出されたのか。ところが、まだ続きがありました。
 「先日、大藪先生から手紙が来てな、ワシに引退しろというのだ。」
 「え!?そうなんですか。どうしてです?」
 「ワシも知らん。十五年前に『オレの跡継ぎはお前しかいないんだ、初相見でそれが分かったよ』といっておきながら寺を渡したのに、今さら何が引退だ。お前だって、本当はその引退の話を聞いているのだろう!」
 「いいえ、まったく初耳です。」
 「この間も、お前宛に大藪先生から手紙が来ていたはずだが。」
 「そうですけれども、そんな話は何も書いていませんでした。」
 「本当かい?そのお前の話を本当に信じていいのかい?」
 「本当です。」
 つい先まで師匠からすごく期待されているのだと勘違いしていたら、今度はとんでもなく疑われています。大藪先生とつるんで、私が師匠を安泰寺から追い出そうとしているというのです。
 「本当に知らないというのなら、信じておこう。だが、お前のために言っておく。大藪先生には気をつけろ。いづれお前自身の身動きが取れなくなるぞ。」
 「今後、私はどうしたらよろしいでしょうか。先輩たちは皆、七、八年でこの僧堂を離れています。そして、ほとんど音沙汰ないではありませんか。私はそんな出方はなるべくしたくありません。かといって、このままで居続けるのも・・・師匠のお気持ち、教えてください。」
 「ワシはどちらでもいい。お前自身の道だから、自分で決めればよい。ここで修行をしばらく続けるのもいいし、出たけりゃ出ればいいし、お前の自由さ。」
 この日から半年後、私は大阪城公園でホームレスになりました。

仙人ごっこ


 話は前後しますが、西福寺の門を出てから、私はまず一人になりたかったのです。都会でパーッと開放感を味わうのではなく、しばらく山間で静かにのんびりとしたいと思いました。師匠に挨拶だけをし、次の日にリュックに登山用のテントと乾麺を10キロ詰めて、自転車で安泰寺から三、四時間離れている氷山(註:ひょうのせん、標高約一五〇〇b)に向かいました。兵庫県内では最高峰であるこの山の中腹に五週間過ごしました。近くの小川で水を汲み体を洗い、山を散策したりキノコを採ったり、朝晩はテントの中で坐禅でもしようという軽い気持ちで「仙人ごっこ」がはじまりました。当初は西福寺の差定通り、朝の三時起きを決めていたのです。テントの周りから聞こえてくる、「ちゅんちゅん」やら「キーキー」やら「ぶーぶー」やら、様々な鳴き声も手伝って、初日の夜はテンションをあげて遅くまで坐禅をしたまでは良かったのですが、二日目の朝に目覚まし時計が鳴った時「本格的な仙人修行は明日からでも遅くない、今日は寝ておこう。坐禅は逃げたりしないから。」と思い、数日間は寝袋から出なかった覚えがあります。この堕落を引き留めてくれた小さなもの達がいました。ある時真っ暗い中、目が覚めました。テントの中には、私の他に「なにものか」の気配をハッキリと分かっていたからです。しばらくじーっとしていて、なにも聞こえませんでしたが、「こそこそ」と枕元に「なにものか」が再び動き出しました。びっくりして飛び上がりましたが、どうやら野ネズミが丈夫なテントの壁を破って乾麺を狙って来たのです。残りの一ヶ月強は山嵐に悩まされたり孤独感に堪えたりするよりも、このネズミたちとのエサの奪い合いで必死になって終始しました。やがて安泰寺に戻ったころには十キロ痩せていましたし「十年老けた」と言われるくらいつかれた顔をしていたようです。

仏心寺に再安居


 戻ったら、今度こそ身をも心をも投げ出さなければと思いました。そうなったら一生出家の道を貫くしかない。それなら今の内に曹洞宗の教師資格(註:出家得度すれば修行中の身になるが、寺の住職になったり広く布教するためには何年間修行して資格を取らなければならない。この資格があれば、はじめて出家得度式を行い自分で弟子を持つこともできる)を取得した方がいい。ですから、あと一年曹洞宗の認可僧堂に身をおいてから師匠の許に帰ろうと考えました。行く先は若狭湾に面している仏心寺に決めていました。偶然にも安泰寺の兄弟子、琢磨さんは一緒に掛塔することになりました。彼は私より一才年上、その当時二十九才でした。十九才の時に九州から家出をして、自転車を三日間こいで安泰寺に飛び込んできた男です。しかし、私が入門する時にはもはや安泰寺をも飛び出し、宗門の駒沢大学で仏教学を専攻しました。二人で仏心寺の門前で「たのみましょう」を掛けた時、彼は「正法眼蔵と法華経」という論文で修士課程を得たばかりの秀才雲水でした。
 臨済宗と曹洞宗のそれぞれの家風が比較される時によく使われる例えは「。。。」と「春の風」。たしかに仏心寺の待遇は違いました。
 「どうして仏心寺の僧堂を選んだのですか?」
 「先輩から色々と話を聞いてこちらに決めました。」
 実は玄覚さんも恵海さんも以前、こちらで安居していたのです。
 「そうでしたか、それではお上がり下さい。」
 仏心寺で特殊だったのが、臨済式の独参があったことです。西福寺で公案を百数十則通った私は、独参だけにはある程度自信がありました。いや、自信がありすぎて、仏心寺ではもう行かないで於こうと思っていたほどです。ところが、最初の一回だけは先輩に独参の室まで連れられました。入るなり
 「仏道とは何ですか?」と老師の一言。
 今までの公案では、「水の上で山が歩く」と言ったような、具体的な指示がありましたが、「仏道」ではあまりにも抽象的すぎます。どうやら、臨済式とはひと味違います。ここは率直に答えるしかありません。
 「分かりません」
 「分からない?分からなくてもいいというのですか?」
 「いいえ、決してよくありません。」
 「今のその『分からない』、それこそそのまま仏道ではないか!」
 あっちゃっちゃ、うっかり罠にはまってしまいました。今ここ、この自分、そうだったのです。
 「ところで、あなたは何か聞きたいことがあって独参に来たのではありませんか?」
 「いいえ、特に質問はありません。」
 「それなら、何を求めて坐禅しているのですか?」
 「特に坐禅から求めるものもありません。」
 「そんな坐禅、つまらなくありませんか?本当に『ただ坐る』で落ち着いていいものですか?釈尊は解脱してはじめて安心を得られたが、あなたもそこまで出来ているというの?」
 「いいえ、そんなことはないです。」
 「よく聞いてください。一回見性(註:けんしょう。達磨さんの「見性成仏」という言葉に由来する。悟り体験のこと。釈尊は菩提樹の下で坐禅を組んだ時、明けの明星を見て見性(解脱)したという説もある)しなければ、何十年坐っても意味がありません。見性は一回でいいの。一回見性すれば、それで終わり。いいですか?」
 「その見性を求めて坐る、というのですか。」
 「いくら見性を求めて坐っても、見性はできないの。今、この自分を離れて見性はないですから。かといって見性を求めなければ、いつまで経っても見性はやってこない。ただ坐ってもだめなの。こうして自分で自分をすりつぶして、自分になりきるの。そしたら、その『自分』はなくなるの。あなたはまだ『自分』が残っているようです。」
 「自分」が残っていると言われてみれば、確かにその通りです。それでは、老師ははたして見性しているのか、「自分」をすりつぶしているのか?そうだというのなら、それこそ「自分」が残っている証拠ではありませんか。しかし、もし老師もまだ見性していないというのなら、人には説教できないはずだ。私のこういう邪念を見抜いたのか、老師は留めを刺しました。
 「それは他でもなく、あなた自身の問題です。」
 なるほど、巧みに編み上げられていた理屈でした。

見性って何だろう?


 仏心寺には私の他にも欧米人が何人かいました。中には、二十年間以上安居している雲水が三人いました。その内の一人のアメリカ人は私と同室でした。どうしてそんなに長く仏心寺に居続けているのか、その理由を聞いていたらこう答えました。
 「僕はまだ見性していないからだ。いつするかは分からないけど、見性するまでは老師の独参に通い続けるつもりだよ。」
 もう一人のドイツ人はそれほど謙虚ではありませんでした。
 「オレだってそろそろ国に帰りたいよ。見性なんか、もう特の昔にしているよ。でも、老師はなぜかそれを未だに認めようとしない。弟子の見性を認めれば、老師の株が下がるとでも思っているのか。呆れたやつだ。」
 三人目はカナダ人、仏心寺の僧堂の中でも最古参の雲水でした。安居歴二十五年間。しかし精神はノイローゼを患い、他人の目が気になるのか人を直視できませんし、あまり人と話もしません。一日中部屋に篭もって仏英辞書をめくり、呪文のような独り言を言っていました。二十五年間も日本に住んでいる割りに決して上手と言えない日本語だったので、どうして日英辞書ではなく、仏英なのかと琢磨さんは不思議そうに私に聞いたことがありました。
 「さぁ、見性してから国に帰って、両国語で説法をするつもりじゃないの?」
 確かにフランス語しか話せないカナダ人もいますから。
 仏心寺の差定は決して厳しくありませんでした。建前としては夏期四時起き、冬季五時起きですが、
 「夜坐放参、六時振玲」という日は多かったのです。夜の坐禅はなく、朝は六寺まで寝れます。日中の作務と言えば老師の犬の散歩くらいでしたから、西福寺から来た私には信じられないくらいリラックスした雰囲気でした。それぞれの雲水がそれぞれのペースで見性を求めるということが方針らしかったです。私自身は見性に全く興味がなかったといえばウソです。十七才の時にはじめて禅について本を手にした時には、見性こそ魅力的に見えたのです。しかし安泰寺に来て「アタマを手放しにして、ただ坐る」ことを教わりました。そして臨済宗の西福寺では公案こそ使用されましたが、「見性」や「悟り」という言葉は一切使われません。最初の公案を通った時、リュっさんに聞いてみました。
 「公案を通るって、見性ではないですか?」
 「見性?ようわからんけど、その『オレは見性した』というのと『オレはバカだ』というのと、同義だと思う。本物のバカは『オレはバカだ』といわんだろ。どうせなら、もっと徹底したバカになれ!」
 その見性を敢えて問題にしない態度は私に非常に健全に見えました。見性を求めることなく、分からないままでただやることをやる。安泰寺でも西福寺でも、目はいつも現前するものに向いていました。

飯汁寮


 仏心寺でもがっかりするようなことばかりではありませんでした。入門して半年、飯汁寮に入れられました。飯汁寮といえば、典座のことです。安泰寺の典座当番と違い三日交代ではなく、三ヶ月間ぶっ続けてやらなければなりません。寮のメンバーは寮長と二人のアシスタントです。安泰寺では「自分で舐めて分からないやつに味を教えてもムダだ」というのが基本方針でしたが、ここでは寮長さんに丁寧にうどんの汁とそばつゆの違いや、高野豆腐は薄醤油・シイタケは濃い醤油・人参は甘い出汁で別々に煮るという日本料理なら基盤常識から教えてくれました。そこには安泰寺では買えない料理酒やミリンなど、調味料も揃っていました。とにかく味がよくなければならない。それから見た目も大事だというのです。
 「これを読んで見ろ、オレの正法眼蔵だ」といわれて、「おいしんぼう」というマンガ本を何冊か渡されました。
 飯汁寮に入って、他にも得することがありました。仏心寺の食材は基本的にスーパーで買いますが、これも飯汁寮の仕事です。皆が昼寝している午後の時間帯にしなければならないので、進んでする人はあまりいません。私はこの時間帯で他にもやりたいことがありましたのでよく寮長さんに頼みました。
 「明日のみそ汁に入れるネギがありません。今から買ってきてもよろしいでしょうか。」
 「おぉ、悪いなぁ、頼むよ」
 と、眠ったそうな声で寮長さんは決まって答えます。そしてまず向かったのは、自転車で十分ほどの距離にある自動車学校です。ドイツにいる間、一生アウトバーンに乗ることはないだろう思い、免許を取らず日本に来ました。ところが、安泰寺ではトラックもトラクターもブルドーザーも操作しなければなりません。放参の日には十六キロ離れている街に行くためには、ぼろい自転車の他には永心のバイクがあります。それらを運転できないのが私だけでした。しかし安泰寺にいても自動車学校までは通えません。それなら、今がチャンス。学校の帰りにネギを買って、寮に戻った時には他の二人はたいがい昼寝からまだ目を覚ましていませんでした。
 お盆過ぎに仏心寺を後にしました。そろそろ安泰寺に帰らねばという思いは強かったです。なぜなら、「安泰寺をオマエが作る」という師匠から与えられた課題はそのまま残っていたからです。安泰寺を作れず、自分に何ができるのか?やはり私の修行の原点がここにあったのです。

(ネルケ無方)

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