安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2010年
 5・6月号

師匠との別れ



安泰寺の経済基盤を考える

 私が始めて安泰寺に来ていた一九九〇年の秋、寺の境内すでにバブル崩壊語の閑寂なテーマパークのごとく寂れ始めました。かつてのテニスコートは松林に、野球場は草刈り場に。「馬地公園」というのは名称だけが残っている荒地でした。台風十九号が田圃を全滅させ、山道を流してしまった時、師匠をはじめ雲水は迷っていたはずです。
 「金もない、道もない、田圃もない、この状況でどうやって自給自足ができるのか。」
 当時は傍観者に過ぎなかった私が今初めてその現実問題の大きさを覚りました。
 考えてみれば、あの百丈禅師の「一日為さざれば、一日食らわず」を本人が実践した可能性は低く、唐代の禅僧を主人公にしている公案のほとんどがそうであるように、後の宋代の禅僧たちが作成した神話に過ぎないと最近の歴史学者たちは言っています。それもそのはず、唐・宋代を問わず、中国の僧侶は貴族階級の出身者ばかり、あのお役人の姿のような長袖の衣で労働をするわけがありません。当時の「自給自足」というのは、大寺院が多くの土地を所有し、僧侶は日本の代官様のような顔をしながらそこに奴卑(注:ぬび、奴隷のこと)を住まわし労働をさせただけです。昔の禅林の規則にハッキリと明記されていますから、、彼ら僧侶が奴卑を使って事業をしたことはあって、自ら手ずから田畑を耕し汗をかいたことはまずなかったようです。ただ、後に「一日為さざれば、一日食らわず」という自己イメージをアピールしたに過ぎません。ですから、あの高尚な理想を僧侶が自ら実現しようという安泰寺の試みは史上初であったかもしれません。
 安泰寺が京都から兵庫に移転してからすぐに二十年。「どうして今さら?」という疑問を持つ雲水も中にいたはずです。何しろ、雲水も大勢いてお金もたくさんあった当初のころですら、自給自足はできなかったですから。しかし、師匠から「各自で考慮・提案し、皆で決定・実行すること」と言われた以上、何かのアイデアを見つけなければなりません。
 「山の水を瓶詰めして売ろう」
 「原子力発電所のごみ処理場に土地を提供すれば?何もせず金が入る!」
 「草ぼうぼうのテニスコートを再整備して、ペンションを造って女子大生を呼ぼう」
 かなり間抜けな提案のうち、琢磨さんのアイデアはかなり現実的でした。
 「今の一頭じゃぁ、会計は支えられないけど、思い切って牛を十頭も飼おうじゃないか。毎年子牛を十頭もせりに出せば、かなりの額になるよ」
 しかしそれに反対したのはなんと新米の牛係のマイク。
 「ボクはいやだよ。今の親、メグちゃんだって可愛そうでしょう。今年の春に太郎君をせりに出した後でも、悲しそうなあの目でいつも訴えかけてきた。『ドウシテ?』って。・・・。ボクだって、泣きそうだったよ。殺生の手伝いなんて、もうコリゴリだ。」
 そういうマイクに十頭の肉牛の世話をしろと誰も言えませんでした。結局、私が提案していた野菜の販売で落ち着きました。畑の係りだった私はその後、どうやって野菜を販売ルートと模索と肝心な野菜の栽培で奮闘することになりました。年の末には寺の関係者に「無農薬で無化学肥料の有機栽培。お経の声を聞いて育ってきた安泰寺の野菜たちを買いませんか」という案内を出したら、後で大藪先生に大いに怒られました。
 「何だ、それは。押し売りじゃないか。釣り堀でしか魚がつれない、つまらん奴だ。」
 翌年、琢磨さんは炭焼きで生計を立てることを提案しました。安泰寺がこの山に移転する前にここにあった小さな村も炭焼きをしていたそうです。今でもふもとの部落では老人会が炭を焼いていました。それを地元のスーパーで売っているらしくて、それなら僕たちにはできないはずがないということになりました。玄覚さんもこの話を聞き、元金として数十万円を寄付しました。ところが、釜一つを作るにしても、私たちにないいろいろなノーハウが必要であることに気づきました。そしてただでさえ田んぼや畑、そして山仕事で忙しい日にちが春から続くのですから、「炭焼き」の提案はいつの間にか実行されずじまいになりました。それ師匠が見逃すはずもありませんでした。
 「炭焼きはどうなっとる!?玄覚さんが心配してあれだけ金をくれたんだから、釜はちゃんと立つんだろな。」
 それは期待の星であった琢磨さんが山を降りる一つのきっかけにもなってしまいました。しばらくは炭焼きの研修という名目で日本中を飛び回りましたが、冬が近づき雪が降りそうになったある日、
 「明日の朝一番のバスで下山いたしました。堂頭様を始め皆様、ありがとうございました。」
 とティミーティングの席で発言する琢磨さんでした。その後方丈に呼びつけられ、師匠から言われました。
 「一人で歩め、二十年間は連絡をよこすな」
 仏心寺にいる間も安泰寺に帰っていた間も、実は琢磨さんを待っていた彼女がいたのです。こっそりと文通を続けていましたが、皆には彼女の話を一切しませんでしたから、彼がまもなく結婚して彼女の実家の近くの小さな檀家寺に入ったときには、かなりびっくりしました。


どろどろ、へろへろ

 そのときはマイクがもうすでに帰国していました。彼はいづれ彼女と結婚する約束で修行のタイムをもらっていたのですが、いざ彼女の元に戻っていくと、価値観のずれが生じてしまったのか、二週間のうちに分かれてしまいました。彼に二年後、大阪の西成区で鉢合わせになったのが再会です。どうしても日本への憧れが捨てきれず、日雇いが泊まる低額宿泊施設で泊まりながら昼間は僧侶の格好をして托鉢をし、夜は「社会実学」と称してアメ村でギャルハンとに夢中でした。
 「日本にいるのなら、まず安泰寺の師匠に挨拶をしろ。」
 と彼を再び寺に戻しました。そのとき、私を含め寺にいる修行者は三人しか残っていませんでした。当時の雰囲気を「証道歌」という禅宗のお経の一節で表現すれば、
 「栴檀林に雑樹なし、鬱密深沈として獅子のみ住す」
 ということになるでしょう。よっぽどこの安泰寺を身をもって守ろうという者でなければ、その「鬱密深沈」とした空気には到底耐えられなかったのです。「鬱密深沈」とはよく言えば修行の密度をさらに高くし、仏道の追及を一鍬でも深く掘り下げるということです。しかし私にはむしろ、限りなく暗く沈滞しているというマイナスの一面のあったことを否定できません。
 それまで坐禅はもちろんのこと、作務にも積極的に関わっていた堂頭さんはだんだん身を引きました。しまいには朝の掃除が終わったころにその日のうちに果たさなければならない作業内容が簡単にリストアップされた一枚のノートを下駄箱の横におくだけになりっました。日中、堂頭さんのおられる庫裏の奥に声をかけても、返事がなかったり、酔っ払った堂頭さんがふらふらした足つきであらわれたりしました。なのに、作業がそのうちに思うとおりに終わらないの、夜の茶礼の席で決まって怒られました。当時の日誌係を勤めていた風太さんがそのとき記しました。
 「雲水三人とも泥どろ状態。ティタイムに説教されて誰がここから最初に抜け出すのだろうか?ひひひ。法要も近づき田圃もあり頭ヘロヘロ・・・」
 安泰寺ではめったに法要などを行いませんが、一年前に変化された内山興正老師の納骨法要兼一周忌が予定されました。内山老師は私の師匠の師匠の師匠に当たります。安泰寺の雲水たちにつれてもらい、三回ほどお目にかかったことがあります。そのとき、安泰寺の移転について、現状についてこうはなされました。
 「ワシは『どっちへどうころんでも、ただこれこれ』、この一句で決着がついたよ。ただ、同じ『どっちへどうころんでも、ただこれこれ』でも、どら息子が言うのと家長的自覚でいうのと、意味は正反対になってしまうの。あの大藪が『久斗山で世界の大本山を作る』と言い出した当初、これは無理だと分かっていたよ」
 法要を堂頭さんが張り切って執り行いました。全国から縁のある方は数十名泊まりかけで駆けつけていましたので、その準備はなれない私たちにとって大変なものでした。ところが、この法要で堂頭さんと大藪先生の師弟関係に決定的なひび割れが生じてしまったようでした。堂頭さんは安泰寺を任せられてもうすでに十二年でした。その実績を見せたい一面もあったでしょう。大藪先生は逆に、内山老師の一番弟子という抱負からか、住職を引退した今でも主人公として振り舞いたかったようです。結果的に、内山老師の法要の主催はいったい誰なのか、安泰寺を動かしているのは誰なのか、というトラブルまで発展しました。
 法要の夜、大藪先生の一番弟子でもあるOBがトイレの扉を間違えってしまいました。運悪く先の「ヘロヘロ泥どろ状態」の風太さんの部屋でした。爆弾でも落ちたような、真似できない散らかし方でした。
 「修行の場を何だと心得ている!?お前自身の命だぞ。自分の命を粗末にするやつがおるか。部屋の整理整頓くらい、坐禅以前だろが。」
 と風太さんの襟元を捕まえて、窓から放り出そうとしました。二人を突き放すのに、ほかのOBは必死になっていました。法要の終わった数週間のある朝、散らかった部屋の中に抜け殻の布団だけを残して姿を消していたのは風太さん自身でした。時は一九九九年、この年に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言にちなんで、私も年の末に安泰寺文集に書きました。
 「秋になっても地球は一向に消滅してくれそうにない。まさか今年も稲刈り・芋ほり・原木だし・薪割り・ストーブ設置・雪囲い等などしなければならないのか。あぁ、暗い。先の計画は、まったく立っていない。二十一世紀も汗、血と涙を流して種を蒔いて育てて、虫と猪の食い荒らした実の残りを食むのか。いつまでこの生活を繰り返すのか。どうか、神様!そこにいるなら、一発でこの世を粉みじんにしてくれ。僕らはもうそれしか夢を見ることができなくなっているのだ。」


大藪先生からの手紙

 その時、大藪先生からもらった何通かの手紙に救われた気がしました。フランスの哲学者アランの言葉
 「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。気分というものは、正確に言えば、何時も悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものだ。」
 という言葉を引いた後、激励してくれました。
 「修行の『意味』を問われる正念場を何回もくくり抜けなければならないだろうし、その業火を何遍も何遍もくくり抜けた揚げ句のお前自身の『表現』に期待したい。手垢の付いた鼻持ちならない旧来の西洋人の特有の坐禅志向をそろそろ卒業して、無方による無方の坐禅を建立するよう祈るばかりだ。だれにも遠慮はいらぬ。お前はお前だ。どうあれ。」
 また、当時読み返していた内山老師の「天地いっぱいの人生」という本の言葉に勇気付けられました。
 「教育というものは「ああしろ」「こうしろ」「これはいけない」と外から規制すべきものではありません。それはナスの木にむかっ て「実がなれ」と命ずるようなもので、そうではなく、なによりも大切なのは自己自身の生命に食欲がおこることです。その食欲がおこるために肝要なものは、 環境であり、雰囲気であり、地盤である。いいかえれば空気の通りのいい、よくたがやされた、かつ程度の高い、安泰寺という大地です。」
 そうだ、今こそ安泰寺を作るときだ、と自分に言い聞かせようとしました。


格外の志気、感応道交

 この冬の輪講の課題は道元禅師の「知事清規」(ちじしんぎ)でした。中国禅のエピソードを使って、叢林のそれぞれの役職の重要性が説明されます。その一つが典座、寺の台所係です。法遠禅師の話でした。雲水時代にもう一人の仲間と帰省和尚という「厳冷枯淡たる」師匠に弟子入りしようとしました。真冬にもかかわらず門前払いされ、帰省和尚に冷たい水までかけられました。二人はそれでも辛抱し、水浸しのままで待ち続けました。再び現れてきた帰省和尚は二人に言いました。
 「?(なんじ)更に去らずんば我?を打たん(今すぐに帰らないと、ぶん殴るぞ!)」
 「某二人、数千里特に来ったて和尚の禅に参ず、豈(あに)一杓の水?(すいはつ)を以て之れ便(すなわ)ち去らんや、若し打ち殺さるるとも也(ま)た去らじ(わざわざここまで来たのだから、水をかけられたくらいで帰えるものですか。この二人は、例え殴られても、殺されても、帰るつもりはございません)」
 そこで初め入門を許されました。ところが、寺の生活はさすがに厳しい。大衆は飢えています。典座を任されていた法遠はある日、師匠の留守を狙って皆のためにご馳走をつくっていました。が、帰省和尚は思っていたより早く帰ってしまい、皆と一緒に食べました。美味しく食べたのはいいが、食事が済んで法遠を呼びつけます。
 「実に油麺を取って煮粥すや(このご馳走はなんだ?勝手に寺の在庫から盗んで作ったんだな!)」
 法遠いわく「慎なり」、その責任をあっさりと認めました。罰として棒で叩かれることが三〇発、そして托鉢による食材の弁償を命じられ寺から放り出されます。仲間を通して帰省和尚の許しを請いますが、聞き入れてもらえませんでした。帰省和尚との面会すら許されない。ある日、法遠が泊まっていた寄宿舎の前で弁償のために托鉢している姿を街に出かけていた帰省和尚に見られ、
 「此れは是れ院門の房廊なり、?(なんじ)此に在って住すること許多の時ぞ、価って曽(かつ)て租銭(そせん)すや否(いな)や(これは寺の寄宿舎ではないか。宿泊代をちゃんと払っているのか!)」
 と寄宿舎からもたたき出されてしまいました。法遠は師匠からの扱われ方に腹を立てることなく、ずっと寺のための托鉢を続けました。そしてその姿勢はやがて帰省和尚にも認められ、叢林に呼び戻され「真に参禅に意有り」と褒められました。
 この話を輪講で読んでいたとき、私たち三人は師匠から耳にたこができるほどいわれました、
 「オマエらに足りないのはこの法遠の格外の志気だ。感応道交(註:(かんのうどうこう)仏と人間、転じては師匠と弟子の気持ちが通じ合うこと)がないのだ。だから何年修行してもダメなんだ。堂頭と馬が合わないといって、山を降りた奴をワシは掃いて捨てるほど見てきた。そんな連中は合格で、格外でもなんでもない。」
 道元禅師の言葉は私たちの修行の模範のはずですから、「なるほど」としか思っていませんでした。「お前なんか、どうでもいい」の世界です。しかし、堂頭さんもそのころ大藪先生に同じようなことを言われていたはずです。あの寒い朝、方丈に呼ばれたのはこの時のことですから。


お前は破門だ!

 二〇〇一年の雪解け時、大藪先生は直に上山し、堂頭さんと雲水を広間に集めて再び安泰寺の現住職に戻ると公言しました。そして堂頭さんを方丈に呼び、密室で話し合いました。その内容を知るすべはありませんが、想像をするに以下のような問答ではあったはずです。
 「この寺の私物化、やめてもらえませんか。私に安泰寺を一任したのが先生ではありませんか。どうして今さら寺を乗っ取ろうとするのですか。そんな権利なんか、ありませんよ。」
 「オレのためではない、安泰寺のためを考えているのだ。お前の今のやり方じゃ、滅法だぞ。ここにきた当初、俺たちは理想に燃えていたではないか。そのことをお前は今頃、忘れていない?あのときの理想、どこに行ってしまったのだ。」
 「私に先生の勝手な理想を押し付けてもらっても困ります。現実問題はどうなるのですか。口出しばかりされて、金を誰が出すのですか。私自身の老後はどうなるのですか。先生も含めて、皆山を降りてから檀家寺に安住しているけど、安泰寺を心配しているのは誰もいません。私一人で死守するしかありません。最近の若い者は小遣いも出ないようなところにきませんよ。」
 「何でも時代のせいにすりゃ済むとでも思っているのか、お前は。死ぬことが怖いようなやつが何人安泰寺に来てもしょうがいないだろう。お前の弟子を見ていても、薄汚れたぼろ雑巾に似た烏合にも満たない連中が虚ろな目つきでさ迷っているだけじゃないか。」
 「本当なら雲水の一人一人に生命保険をかけたいくらいです。二十年前の先生の代にも参禅者が雪崩で死んでしまったではありませんか。あの時はよかったけど、今は訴えられる時代ですよ、今時は。」
 「お前は口が開くと金がないというけど、金がないからこそ修行ができるはずだ。オレはわざと金のない状態にして出てやったのさ。第一、お前は高慢すぎる。不如法も千万だ。師弟間をどう心得ておる!?」
 「出家とは床綱を切ることではないですか。何者にも支配されず、一人で大海に出ることだと思います。先生は私をいつまで操り人形のように扱うつもりですか。」
 「ようわかった。お前は破門だ!」 広間で待機していた私たちの耳にはっきり聞こえてきたのはこの最後の一言だけでした。
 ドドドッと、大藪先生の足音が廊下で近づきました。広間の横を通って、玄関から出ようとするときに私を指差しました。
 「おい、無方。お前はここから動くな」
 その瞬間に分かりました。安泰寺にはもはや私の居場所などがありません。大きな布団袋に持ち物を入れて、氷ノ山で使っていた登山用のテントとガスコンロを背負って安泰寺を後にしたのは二〇〇一年の夏の終わりでした。この山に戻ることは二度とないと思いながら。


バレンタインデー

 あくる二〇〇二年二月一四日、バレンタインデー。とはいっても、お寺ではむしろ涅槃会の前日という意味合いが強いです。涅槃会は成道会と降誕会とともに「三仏忌」と呼ばれる仏教の一番大事な記念日の一つです。その中で現在の日本で一般に知られているのは花祭りとも呼ばれる四月八日に祭られるお釈迦様のお誕生日です。十二月八日は悟りを開かれた日で、二月十五日は入滅された日です。安泰寺ではこの日から三日間の接心が始まりますので、前日は山のふもとの部落に下りて郵便物を出したり受け取ったりします。
 この年は記録的に雪が少なかったですが、それは逆に災いしました。一人の参禅者は一週間前に車で山道の中間点まで上がってしまいました。そしてその後降り出した雪で車が動かなくなりましたが、接心には耐えられそうにないというのでどうしても帰りたかったのです。仕方なく、その車を引っ張るために堂頭さんが朝早くからブルドーザーを出動させることになりました。マイクも後からカンジキを履いて行き、部落で郵便物の出し入れをしました。この日は堂頭さんの奥さんからの小包がありました。
 「チョコか、いいなぁ。僕の元カノ、今どこで何をしているのだろうか」
 マイクがバス停から再び山に登る雪道に入ろうとした時、ちょうど堂頭さんのブルドーザーと参禅者の車が見えてきました。会釈をして先に帰路につきました。もう昼時でした。堂頭さんももうじき寺に戻ってくるはずでした。昼ごはんを終えたマイクたちは広間の薪ストーブの横で一服をしていました。
 「それにしても、堂頭さんの帰りは遅いね。もうそろそろお風呂の時間だけど、どうする?堂頭を待つか、僕たちで先に入るか」
 時計の針は三時に進もうとしました。
 「いや、おかしいぞ。堂頭さんならもう特に帰っているはずだ。何かあったのでは?」
 心配しだしたマイクは再びカンジキを足につけました。そういえば、今朝の堂頭さんの調子はいつもとどこかが違っていた。生気がなかったような気がしないでもない。昨日の夜遅くまで、皆で鎌倉の中でお別れパーティーをしたからか。村で用事ができたのか、途中で休憩しているのか、マイクはとにかく確かめてみることにしました。中間点までの二キロを下った時点、ブルドーザーの音はまだ聞こえていませんでした。マイクはだんだん足早になり、先を急ぎました。バス停のちょっと手前でした。こちらを向いて、ブルドーザーが川に落ちているのが見えました。我を忘れてマイクは川の中に飛び込みました。ブルドーザーが落下したところの周辺には、人が雪の斜面を這い上がろうとした跡がありました。そこから五十メートル川下に堂頭さんの姿がありました。マイクが持ち上げようとしたその体は冷たくて重かった。

(ネルケ無方)

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