安泰寺

A N T A I J I

正身端坐

火中の連
2012年 5・6月号

正身端坐
大人の修行・その42


正身端坐というあり方

 正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。

 (姿勢を正して、まっすぐに坐ること。右や左へ、前や後ろへ傾いたりしないこと。耳と肩、鼻とへそは一直線上にあるように。)
 
 ここまでくれば、下半身では安定した坐相を組んでいるはずです。両膝はしっかりと座布団についていて、お尻は坐蒲の上にのっかかって、この三角に身体全体がピラミッドのごとく支えられています。骨盤を前に押すことによって、腰が入り、腰椎の五個目の脊椎骨より上の背骨(胸椎と頸椎)が自ずと伸びてきます。まっすぐに、直立している感じです。もちろん、背骨は本当は直立なんかしないものです。本当はなだらかなS字状を描いているのですが、腰にきまりをつけることによって、その湾曲に反りをもたせます。あごを引いて、頭のてっぺんで天を突き上げる気持ちで坐れば、まさに「正身端坐」、悠々とした山のような姿勢になります。沢木老師は
 
 顎は耳の後ろの皮が痛くなるくらいにグッと引く。
 
 といいますが、これもマユツバで受けともてほしいものです。だらりと首とたらしてはいけないのはもちろんですが、耳の後ろが痛くなるのでは、がんばりすぎです。何しろ、不自然な姿勢をつくるのではなく、一番自然な、のびのびとした姿勢に戻るのが坐禅なのです。ですから、背骨と首を伸ばすときも、間違って方に力を入れないように気をつけましょう。肩はリラックスし、腕は脇からやや離したほうがいいと思います。ひじをぴったり脇につけてしまうと、肩もこり、法界定印も保ちにくくなります。どれくらいひじを張ればよいでしょうか。腕と脇の間に、ダチョウの卵を抱えていることをイメージしてください。ひじを無理に引っ付けてしまえば、その卵がつぶれてしまいますし、あまりのも張りすぎると、卵が落ちて割れてしまいます。両方のひじでダチョウの卵を大事に大事に抱えて坐りましょう。
 身体がゆがんでいたり傾いたりするのは普通ですが、その癖に甘えてはいけません。問題は、長年の癖でゆがんだ姿勢がゆがんだ姿勢として自覚できないことです。ゆがんだ姿勢は坐禅会の雲水や和尚さん、坐禅道場の指導者に直してもらうしかありません。正しい姿勢に慣れるまで、どうしてもゆがんだ姿勢が「自然」と感じられます。姿勢を直されると、それこそ「不自然」に感じられてしまいます。奇異な不安定感を感じることすらあるかもしれませんが、それこそ自分では気づいていなかった癖を正されたからなのです。何よりも大事なのはそのまま続けて坐りこむことです。次第に新しい感覚を自分の身体感覚の領域に取り入れ、消化しなければなりません。一人で坐り、姿勢をチェックしてもらえない人は、鏡の前で坐るという手も試してみたいものです。
 
 口の様子
 
  舌は、かみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。

  (舌は上あごにつけること。息は鼻ですること。口を閉めて、唇や歯を開けないこと)
 
 坐禅中に口を閉めて、鼻で息をするのはいうまでもありません。そうした方は自然な呼吸ができますし、周りに邪魔にもならないからです。口の中の舌の位置まで気にする人はあまりいないと思いますが、坐禅儀の少ない字数のなか、道元禅師が敢えて「舌は、かみの顎にかくべし」と指示しているのにはそれなりの理由があるでしょう。一つは、唾液の処置かもしれません。私もそうですが、坐禅中に唾液が分泌量が倍増する人がいます。身体にとって、唾液分泌が大事な機能ですから、唾液が増えるということは決して悪いことではないと思いますが、舌を上あごにつけないで坐ると、後から後から分泌される唾液が口の中でたまって、坐禅に集中できなくなってしまうことがあります。あるいは、一分に数回もその唾液を飲み込む、自分ののどの音が気なってしまうこともあります。そのならないために舌を上あご、つまり上の歯の付け根につけるのです。そうすれば、唾液は口の中でたまらず、飲み込まなくても自然にのどを通して流れてしまいます。
 もう一つの説明として、伝統中国医学の気の流れの考えがあります。インドのヨガもそうですが、身体の中を気が絶えず循環していると考えられているようです。その循環が妨げられると、身体に不調をきたし、病気になることもあります。健康体において、気はまず尾てい骨から背骨を伝って頭のてっぺんまで上へ流れます。てっぺんで方向を変えて、今度は額からあごのほうへ、そして胸の方へと循環して行きますが、そのために舌が上あごと下のあごをつなぐ架け橋のような役割を果たしている、という説があります。右・左の役割の説明もそうでしたが、私はこういう考え方がどちらかといえば苦手ですが、気の流れはともかく、唾液の流れが改善されるのは確かです。それ西洋医学に裏付けられているようです。ある歯科医院の院長先生の言葉です。
 
 「舌の置き所はとても重要です。上下の前歯の間から舌がはみ出したり、下の前歯の裏側に触れていたりする舌の悪い癖の事を指して『舌癖』と言います。この舌癖の代表的な原因は口呼吸で、アレルギー性鼻炎、蓄膿症、扁桃腺肥大、アデノイド肥大などが口呼吸の原因として上げられます。・・・《中略》・・・反対に舌の正しい位置を知らないことで、無意識に舌を下の前歯の裏側に置いているために口呼吸を誘導してしまっている事もあるようです。卵と鶏のようなものですね。さて「舌の正しい位置」です。まず肩の力を抜いて下さい。次に首、頬をリラックスさせて口を閉じてみて下さい。舌は何処にありますか?口の天井(口蓋)に着いていて舌先が上の前歯の付け根に着いていれば正解です。」(藤兼次、 http://www.418.co.jp/tdc/marufukuより)
 
 なお、このときの口の形を「しっぺい口」と形容することがありますが、しっぺい口の形は「への字」とも「一の字」ともいわれています。「竹篦(しっぺい)」というのは修行の最後の関門といわれる法戦式の際に首座(修行僧のリーダー)が使う割り竹で作った弓状の棒のことです。「しっぺい口」のつもりで、無理に「への字」を作る必要はないのです。一方、ヨガや南方仏教の指導者の中には、「いつも静かに微笑むように」という人もいます。古代ギリシャ美術のアルカイク・スマイルのようなイメージになるのでしょうか。私は静かに口を閉じて、特別な表情を作らないことがベストだと思います。口が開いたり尖がったりしないのが重要ですが、真剣に坐れば、その真剣さは口の形にも自ずと表れてきます。
 
 「半眼」はうそ?
 
  目は開すべし、不張不微なるべし。

 (目は張らず、細めず、通常に開くこと)
 
 坐禅の目は「半眼」だという人もいますが、坐禅儀の中には細かい指示がなく、とにかく開けることがはっきりと記せられています。僧堂生活の二十四時間の決まりごとが書いてある「弁道法」のなかでは、道元禅師はもう少し詳しく書いています。
 
 切に眼を閉じることを忌む。眼を閉じれば昏、生ず。頻頻に眼を開けば、微風、眼に入りて、困、容易に醒む。・・・《中略》・・・目はすべからく正しく開くべし。張らずほそめず、まぶたをもって、瞳をおおうことなかれ。
 
 目を瞑れば眠くなるから、絶え間なく目を開けなさい、とあります。目を開けば、だるい気分から醒めるからです。とにかく、瞳を瞼で覆ってはいけないという具体的な注意まであります。古い注釈の中には、目のあり方を次のように説明しているものもあります(正法眼蔵・聞解より)。
 
 生まれつきのままにて用なき
 
 つまり、赤ちゃんが生まれてはじめてこの世の明かりを見るような目、だとしています。
 釈尊の誕生から死に至るまでの生涯を描いた「仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)」というお経の中に次の一節があります。
 
 仏は彼の七日において禅思して心清浄に、菩提樹にて観察瞪視して目瞬かず。
 
 釈尊は一週間もの間、菩提樹の下で坐禅をし、心は清浄に、澄んだ目は瞬き一つもせず観察していた、ということです。釈尊は十二月八日の夜明けのとき、明けの明星を見たとたんに覚りを開いたといわれていますが、瞑っていれば明星が目に入れなかったはずです。坐禅は瞑想ではない、といわれるゆえんの一つがここにあります。
 しかし、目を開きすぎるのもよくないでしょう。目に意識がいってしまい、疲れてしまうからです。同じ理由で、意識して半眼にもしないのです。
 坐禅中に五感はいつもよりに鮮明に、活発に働かなければなりません。「無念無想」という言葉もあいますが、けっして朦朧とした、おきているのか寝ているのか分からないような状態ではありません。そういう状態を禅では「昏沈(こんちん)」といいますが、昏沈から醒めるためにも目を開けるのです。
 人の五感のうち特に発達したのが視覚です。パソコンや携帯が普及してからなおさら、目と親指一本でもあれば、世界とつながっている錯覚に陥れます。視覚以外の五感、とくに身体全体の触覚を覚ますのも坐禅ですから、目ばかりに気を取られても仕方ありません。坐禅のときに、部屋の照明をやや薄暗くするのもそのためです。
 本来、目がどうあらねばならないということはないのですが、目の処置の仕方で坐禅のチューニングに似た、微調整ができると思います。どういうことかといいますと、「昏沈(こんちん)」のとき、だるかったり眠かったりしているときには部屋の照明を明るし、目をもう少し見開けば目覚めます。逆に「散乱(さんらん)」といわれる状態があります。神経が高ぶり、そわそわし、いらいらし、あるいは雑念が納まらない状態ですが、このときは落ち着いた照明で目をやや細めれば、心も落ち着くのです。つまり、いつも「半眼」を意識するのではありません。どうせ、自分の目がどれくらい開いているか、自分でみることはできないのです。そうではなくて、その時そのときの坐禅の状態に応じて、臨機応変して目の調整をすることによって、気分の調整もできます。眠いと思ったら目を開き、落ち着かないと思ったら目を細める。そして普通の時には普通にすればいいのです。
 先の親指とへその問題も同じです。いつも親指をへそにくっつけていなければならないということはないのですが、そうすることによって意識を明瞭にすることはできますし、逆に高ぶっている心を落ち着かせて、リラックスしたいときには手をもっとした、足の辺りに安置させます。ここでのポイントは、自分の坐禅、自分の心のありようをよく自覚することです。
 
 顔の勾配
 
 開いた目の視線をどこにおくかといいますと、四十五度落として、坐っている坐蒲より一メートル手前のところに落とすのですが、一点をじーっと見つめるのではなく、視野全体を視覚の対象とします。右から左への一八〇度以上のパノラマ、上は眉骨から下は手の辺りからの全景に意識を広げるのです。とはいっても、面壁なのでそこに興味を引くような物が一つも見当たらないはずです(部屋が片付いていれば、の話です)が、それでも全景を一目で見つづけ、視界がぼんやりしないように工夫をしなければなりません。
 ご存知のとおり、「目は口ほどにものを言う」ということわざがあるくらい、目の使い方は大事ですし、目つきにその人の心が表れています。ある僧堂に安居していたころ、坐禅中にやたら警策という棒でたたかれることがありました。私は毎回の坐禅で、ひどいときには一炷の間にも数回たたかれるのでした。
 「眠ってもいないし、動いてもいないのに、どうして僕だけいつもたたかれるのですか」
 と先輩に聞いたところ、
 「そりゃぁ、オメーの顔がわるいからじゃ」
 とのことでした。おそらく、口の形にも、目つきにも、心がたるみが表れていたのでしょう。
 沢木興道老師の言葉を集めた「禅に聞け」(一九八七年、大法輪閣)という本には、「禅が説く人生の決定的なネライをねらうあなたへ」という項目で、興味深い二つの言葉が載っています。
 
 上下左右をよく見わたして、しっくりした今ここを見失わないこと。
 クセのついていない無想のまっただ中に、決定的なネライというものはあるものじゃ。人間の顔の勾配にも、決定した勾配というものがある。
 
 沢木老師の考えている「決定的なネライ」が単なる精神論ではないことがよく分かります。それを「顔の勾配」というユニークな表現に託しています。ところが、これはなかなか英語には訳せません。「Slope of the face」では通用しないものです。Slope faceという言葉ならありますが、それはたんなる斜面(の表面)という意味です。私は「顔の勾配」をFacial expressionとしか、英語には訳せませんが、味も素っ気もない訳語だと自分でも思っています。
 それはともかくとして、顔の勾配に目の使い方が大いに関係しているのはいうまでもありません。全体を見渡していながら、焦点のピントが外れない見方とはどういう見方でしょうか。
 
 坐禅をココロみる
 
 日本語で「みる」という字を書くときには、「見る」が一般的ですが、そのほかにも「視る」「観る」「診る」「看る」「覧る」など、たくさんあるようです。英語にもsee, look, watch, view, invest, examineなど、いろんな表現があります。同じlookでも、lookだけだと「見る(視る)」と同時に「見える」という意味もあるのです。つまり、能動的な面と受動的な面が二つあるのです。それにlook forとなると「探す」ということになり、look afterだと「面倒を見る」という意味です。日本語の「観る」の場合、全体を見渡す、よく観察するという意味ではないでしょうか。英語のviewですね。「視る」の場合、目を止めてジッと見る、ハッキリと注視するから、「観る」よりもっと能動的なニュアンスがある気がします。英語ならlookでしょう。病院の医師は患者を診て、看護士は看ています。「見とどける」というよう能動的な見方に対して、「見うける」という受動的な見方もあります。そして、日常であまり使われない「覧る」は「(新聞などを)一通り見る」という意味らしいですが、こちらはむしろ受動的なニュアンスではないでしょうか。ましてや「バカをみた」ときは受動的ですね。
 人の「気」も同じです。気をつけているときは能動的ですが、受動的に「気がつく」場合もあります。坐禅において、両方が大事です。沢木老師の言う「上下左右をよく見わたして、しっくりした今ここを見失わない」見方はつまり、全景を観(横に「、」)て、五感の意識の全体に気づいていながら、今ここという一点を注視し、ぼんやりしないことです。
 普段めがねをかけている人が、そのめがねが坐禅中に気になっているというようのであれば、はずしてもかまわないと思うのですが、本当はめがねをかけたまま、明瞭な視覚を保ちたいものです。それはなぜかというと、五感の意識と心のありようが影響しあっているからです。視界がぼんやりしていれば、心もぼんやりしてやがて眠りに落ちてしまいます。ですから、あまりにもだるいというときには、一点に焦点をあわせるという手もありますが、長時間やってしまうと、目が疲れて痛くなります。いつも一点だけを見つめるということは、全体を見渡せないということでもあるため、精神的にも全景を受け入れることなく、一点だけにこだわる心のあり方につながりかねません。目は閉じることなく、明確な視界をなるべく広く持ちたいものです。
 坐禅中に親指の位置を確認したり、目を細めたり広げたりしたりするのも、一点に焦点をあわせるのも視界を広げて全景を見わたすのも、その時そのときの坐禅の状態を自覚した上で、注意深く行わければならばいフィードバックによるチューニング作業です。誰も最初から上手にできないものですが、この自主的な作業を決してサボってはいけません。坐禅の風景をよくよく「覧て」「観て」「視て」「診て」、いろいろなことをココロみ(横に「、」)てみ(横に「、」)なければ、「昏沈・散乱」といわれる坐禅の宿敵に打ち勝つことはできないのです。
 身体の姿勢について、やかましいくらい注意点を施したつもりですが、身体の姿勢を整えることさえできれば、あとは楽勝です。身体の姿勢が整ってくれば、呼吸も、そして心も整ってくるからです。

(ネルケ無方、2012年01月24日)

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