安泰寺

A N T A I J I

トマトとキューリ

大人の修行 (その15)


 現成公案のなかで、道元禅師は「草は棄嫌におふるのみなり」と記していますが、仏弟子はまさに雑草のように生えてこなければなりません。たとえ師匠の「棄嫌」な態度に踏みにじられても・・・いや、踏みにじられてこそ生えてくる雑草が仏弟子の目標でなければなりません。師匠に優しく育てられることを期待してはいけないのです。

 ここしばらくの間、身体の姿勢の重要性を強調してきました。私たちの思い描く只管打坐という概念でアタマを悩ませるより、むしろ坐蒲の上でいっそう実践しようと試みるべきではないかということです。それならば、「自分で自分の姿勢を正していく」だけで充分なのではないでしょうか。各自がオトナですから、各自の坐禅工夫以外には指導なんて要らないのではと思われるかもしれません。しかし、私はそうは思いません。もし私たちが初めから自分自身の姿勢を正すことすらできないのであれば、どのように師匠や先輩の指導から学ぶことができるのでしょうか。折角の指導を無駄にしないためにも、まず自身の姿勢くらいは自分で整える工夫をしなければなりません。

 オトナとして、私たちは自分の目で物を見、自分の耳で聞き、そして自分の頭で考え、それらを自分の身をもって実行しなければなりません。いかによい師匠についたとしても、このことは絶対的に自分自身でしか為し得ることができないのです。

  ではなぜ師匠や先輩からの指導が必要なのでしょうか。それは私たちの物の見方というものが限られているからです。私たちは自分自身の目で見る物が客観的事実以外の何物でもないと思うかもしれませんが、それは自分自身の視点から見た主観的な世界に過ぎません。この世界がいかに狭いか、私たちは日ごろ気づかないことも多いと思います。

 道元禅師は現成公案に「塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。萬法の家風をきかんには、方圓とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。(現前の日常生活にしても、人間世界を越えた宇宙全体にしても、その姿形は色々あるが、そのなかから私たちはほんの一部分、自分の視野に収まる物事しか見聞きし理解することができない。しかし、物事のあり方を本当に極めようと思うなら、自分のメガネを通して物事に「○×」をつける以前、まず物事に自分の頭では割り切れない面がたくさんあると言うことも、自分が想像してもいない世界がほかにもあると言うことをよく承知していなければならない。これはなにも他人事のような、自分から遠く離れたところの話ではなく、自分の足下はまさにそうなっているのだ。)」と書いています。

 言い換えれば、私たちは自分自身の六根(眼耳鼻舌意)で物事を見聞きし考えなければなりませんが、それと同時に地平線の向こうに自分の小さなアタマでは計り知れない、もっと大きな世界があることも念頭においておかなければなりません。私たちの視点は自身が思っているほど広くはないのです。「參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり」、私たちが今まで受けてきた教育や人生体験によって、各々が見えている視野の広さも違えば、それを全く違う「自分のメガネ」を通してしか見ることはできません。ところが、我々には自分の視野の限界が見えませんし、かけているメガネにも気づきませんから、自分の視点がどれほどねじ曲げられているか、自分自身は一向に知らないままでいるのです。

 このことは音の認識においても同じことで、私たちが犬の認識する音を聞くことができないように、他人にはよく聞こえている私たち自身の足音などすら聞こえていないこともしばしばです。私たちは自分よりも他人の間違いによく気付くのです。「人のフリ見て我がフリなおせ」といいますが、人のフリを見ても我がフリに気づかないことは多いのではないしょうか。そのためか、道元禅師は「かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし(これは他人事ではなく、オマエ自身の話だ・・・足元を見ろ!)」と記されているのです。

 大人というものは自分のアタマで考え、自身の視点を持つことも必要です。しかし、アタマの中でぐるぐる回っている思いや考えは客観的事実でも何でもないと感づくことも同時に必要なのです。私たちはただ限られた視点から「自分の世界」を見ているだけです。もし、自分の世界の見方や価値判断を「正しい」と決めて、それと相反するような他人の世界の見方や価値判断を「間違っている」と言うのであれば、これは極めて幼稚なことになります。

 世界政治にしても、ある人が目指している「世界の新体制」は人の目に「悪の軸」として映るかもしれませんし、またその逆も言えます。オトナなら、自分のアタマで物事を考えるという能力とともに、自分のアタマで考えた物事は決して「客観的事実」ではなく、ただ自分の頭だけの「主観的事実」に過ぎないという理解は要求されます。「自分の世界」よりはるかに広い世界の存在も知らない人は「小人」であり、とうてい「大人」とは言い難いです。本当の世界は私たちの小さなアタマの中では想像すらできません。

 修行というのは身をもって行ずるということですが、本当の大人の修行は自分の身も心も手放さない限り、できないものです。しかし、自分で「手放そう」と思っても、手放せるものではありません。自分で「手放した」と思ったら、それは自分のアタマの中での「手放し」にしか過ぎません。「はなてば手にみてり」といって、手放してこそ「天地いっぱい」のものが得られるという考えも所詮私たちのアタマの中だけの話です。「天地いっぱい」のものが私たちのアタマに入りきるはずがないのです。

 「よもの世界あることをしるべし」・・・私たちの視野を越えたところに世界がある、いや、私たちの足下に知らない世界が広がっているのだということを理解しなければなりません。これは難解な哲学ではなく、大人の日常茶飯です。一般社会は個人を越えた世界ですから、社会に出ると言うことだけも「大人の修行」になり得ます。安泰寺というような叢林も、各人の世界を越えたもっと広い世界です。その中で生活するということは、自分と違う世界にぶつかったり、自分と違う価値判断によって否定されたりすることでもあります。今まで想像もしなかった世界はそこで発見できる・・・というより、今まで(意図的に?)見落としていた自分の陰の部分などは人によって脚光を浴びさせられることにもなります。聞きたくもない人の意見を聞かされることにもなります・・・そうした意見と自分の意見は大体合わないからこそ「修行」になり、面白いのです。「指導」といわれるものも実は同じです。自分が考えているような「指導」は本当の指導ではありません。自分の考えを越えた世界が見えてくるのが本当の指導です。そうした時、自分の足のふらつきに気づかれるからいやですが、その「いや」という思いを乗り越えなければ、本当の指導を受け入れることはできません。

 仏教でいわれている「煩悩・妄想」は本当の自分と自分が考えているだけの「自分」を混同させることから生まれます。「自分の世界」を現実の世界だと勘違いしてしまいますから、私たちは迷い、諸問題を抱え悩み苦しみます。自分自身が悩むだけではなく、人をも悩ませることになります。

 人のことならよく分かることです。ある人はたえず自分はいかに「良い人」であることをしゃべりたがります。そういう人ほど「迷惑な人」はいませんが、当の本人は一向に気づきません。あるいは「ありがた迷惑」「大きなお世話」といわれているように、ある人の「良いこと」をしているつもりは、私たちにとっては「迷惑」な場合がよくあります。あるいは人は「良心」だといったり「正義」だといったりしているわりに、私たちから見ればその張本人の生き方が良心も正義も全然反映しない、ただの「偽善」に過ぎないこともあります。どうして本人はそれに気づかないでしょうか!?

 しかし、それは私たちの問題ではありません。私たちの問題は、あくまでも私たちのあり方です。では、私たちはどうなのかといいますと、ひょっとしたら、人が私たちに迷惑をかけまくっているのと同じように、私たちも人に迷惑をかけているのではないかということです。そして、それに全然気づかないでいるだけです。「迷惑な人たち」とは、実は私たちのことなのです。

 禅のいう「悟り」とはこういう気づきだと思います。けっして深い三昧から戻った時の一瞬の快感ではないと思います。見えていなかった自分の足下が見えてきた・・・これは自分一人の力ではなかなかできません。叢林に身をおいて、師匠や修行仲間に切磋琢磨される日常生活の中でしか生まれてこない気づきです。

 安泰寺の生活が大好きだという人がいます。坐禅三昧に入るのも好き、自然の中での自給自足の作務も好き・・・安泰寺にいるだけで天地いっぱいのエネルギーであふれていると言います。ただ、ただ、自分と同室に住んでいるあの人だけは気に入らないとか、自分にいつもケチを付けているこの人も気に入らない・・・アイツらは一体何をしに安泰寺に来たのだろうか。明らかに自分とは違う、真面目な修行者ではないようだ・・・

 私自身にも安泰寺に上山した当初、こう思っていた覚えがあります。しかし、「修行」だの「天地いっぱい」だのと言いながら、人と和合できないというのはどういうことでしょうか。人のみになり人の目から違った世界を眺めてみることこそ「天地いっぱいの修行」のひと工夫のはずです。私のアタマを越えた世界は、何も遠い宇宙の世界ではなく、同室の人の世界かもしれません。オトナは自分で見聞きし、自分で考え、自身で行動できる能力を持たなければなりませんが、本当の大人は人の見ている世界も、人の考えている論理も、人の身になって感じ取らなければなりません。そのためには切磋琢磨という修行者同士の「まさつ」が必要になってきます。前月の「オマエなんか、どうでもいい」もそうですが、こうして磨かれるということは痛いことですが、麦は踏まれて育つといわれますし、「草は棄嫌におふるのみなり」ともあるではありませんか。

 正身端坐についても、同じことが言えます。「坐禅の正しい仕方」などを説明してもらうことを期待してはいけません。当然、坐禅の仕方は誰でも最初教わるのですが、その後の工夫は自分の責任です。「坐禅の引力」を発見し実感できるまで、気を抜いて腰を抜いてはいけません。雑草のように伸びてくるような坐禅ができたら一番いいですが、少なくともキュウリのような坐禅をされたいものです。トマトの苗なら、一度支柱を立てても、何日かおきにその苗を支柱にしばり、芽かきもし、あまり雨が当たらないようにしなければ、折れたりして病気になりやがて死んでしまいます。放っておいても、なかなか育ちません。キュウリなら最初に支柱さえきちんと立てれば、苗は自分で真っ直ぐに伸びて来、支柱に上ります。後は適切な追肥でも施せば、時期にキュウリの実が期待できます。

 「大人の修行」に指導は不必要、ということは決していえません。ただ、大人なら自分でその指導を受け入れ、その指導を基に自分の工夫を重ねなければなりません。キュウリが自力で支柱に上るように。師匠からしばられるのを期待している「トマト」など、大人失格といわなければなりません。また、師匠の指導がないと思った時、その指導が本当にないのか、あるいは自分の視野の中で見えていないだけなのか、よく点検すべきです。師匠の指導は遠い「天地いっぱい」の話ではありませんから、いつも自分の足下に向いています。私たちも、そこに目を向けてみなければなりません。そのために叢林生活における切磋琢磨の働きが何よりも大事です。大人の修行というのは、自分が問うのではなく、自分が問われているのです。 (続く・堂頭)

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