心猿意馬
大人の修行 (その19)
先月まで坐禅と坐禅以外の時の修行の心構えについて、「三つの問い」にお答え致しました。何がいいたかったか、一言でいえば「マインドフルネス」(注意深さ、三昧)を忘れること、心そのものを忘れることです。これにビックリした人がいたかもしれません。何故なら禅は「心の問題」だと思われがちだからです。「自分を見つめる」「心を見つめる」ことが禅だと勘違いする人は多くいます。特に外国人は、よく禅=マインドフルネスと思っているようです。私自身も、15年前に「心を忘れなさい、自分を見つめるな」といわれていたら、ビックリしていたことでしょう。実際にドイツで通っていた道場では、禅修行は「無意識のうちに、自然に、自動的に」行われると聞いて、疑問に思ったことがあります。「自然に」というのはいいですが、「無意識のうちに」といわれますと、「いや…禅は自分をより意識することのはずだ。一歩一歩、一呼吸一呼吸を意識して行うことこそ修行ではないか」と、なかなか受け入れることができませんでした。「自動的」といわれても、「まさか…ロボットのように機械的に動きまわることではないだろう」と。いまさら繰り返す必要もないと思いますが、この「無意識のうちに、自然に、自動的に(unconscious, natural, automatic)」という言葉は、今までの「大人の修行」で強調してきました「自分と自分の修行を理屈化・対象化してギャップを作らない」こと、「自分が自分を自分する、坐禅が坐禅する」こと、そして「なんでもタダする」ことを指します。目前のエサばかり追いかけている凡夫にとっては、もっとも受け入れがたい言葉です。
この「無意識のうちに、自然に、自動的に」タダする修行の見本となったのは、いうまでもなく2500年前の釈尊の菩提樹下の坐禅です。残念ながら、このタダする坐禅が常に正しく耐えられてきたとは必ずしも言えません。お坊さんの中でも、「ただ坐る」なんてツマラナイ、坐禅はもっと高尚な次元のもののはずだとか、禅は精神であって、じっとして坐ることではないとかいったりする人がいます。確かに、これも一理あります。禅は宗教であり、ヨガ体操ではありません。坐るだけではなく、正念・正定・正見・正思という心も坐禅の中に現れてこなければなりません。ところが、身をもって「ただ坐る」という実践から、「無念無想の心」「三昧の境地」を分離させてしまいますと、そういった「禅の心」はもはや宙に浮いてしまいます。そして、「無念無想の境地」もやがて自分の思いこみに過ぎないことにすら気付かなくなりますと、自分で自分をごまかしているだけということになってしまうのです。 「坐」より「禅」が重要だという人がいますが、本来の坐禅は一つです。身(姿勢)と心(境地)、修行と悟り、これらが2つに分かれる以前にあるものが坐禅です。それを二つに分けてしまったのが天台の「止観(しかん)」です。道元禅師の時代に日本にあった坐禅は、この「止観」の方法ですが、それに行き詰まった道元禅師は中国に渡り、やがて本来の坐禅(二つに分かれる以前の坐禅)に出会い、それを日本に伝えました。今年の五月の「大人の修行」にも書きましたが、天台宗にあった「摩訶止観」や「天台小止観」の教えは、道元禅師が中国から帰って書かれた「普勧坐禅儀」よりボリュームは比べられないほど大きいですし、中身も深いと言わなければなりません。では、道元禅師はどうして「止観」を捨て、「只管(しかん)打坐(たざ)」を説いたのでしょうか。それは、坐禅を「止(し・身体がじっとしている姿)」と「観(かん・心が覚めて真理を見極めること、思量すること)」に分解して実践しようと思っても、実践できないからです。現に天台の学僧たちは「止」を次元の低いものと見なし、「観」ばかりを強調してきましたから、その「観法」は空洞化してしまい、やがて本物の坐禅は伝わらなくなりました。今の南方仏教でも坐禅の実践方法として「サマタ(止)」と「ヴィパッサナー(観)」の二つがありますが、同時に行うのではなく、10日間の接心で「サマタ」だけを修行する人もいれば、専ら「ヴィパッサナー」に従事している人もいます。こうした偏った「修行」が釈尊の菩提樹下の坐禅と関係がないのは、いうまでもありません。 釈尊は王位を捨てて出家したわけですが、6年間の猛烈な修行に行き詰まりました。しかし、還俗の道も選びませんでした。木の下に腰を下ろし、身も心も放ち忘れた…ここに仏祖正伝の坐禅の出発点があります。日本の仏教をこの正伝の坐禅に戻したのは道元禅師ですが、それが中世以降に再び乱れたため、沢木興道老師が20世紀にそれを再確認し、日本にそして世界に広げました。それは「心を観る“禅”」ではなく、本物の「タダ坐る禅」です。
ここで禅を中国に伝えた達磨さんの話が思い出されます。達磨さんと呼ばれている人はこの本物の坐禅を非常に簡潔な形で表現されました。当時の中国には仏教の理屈は伝わっていましたが、実践が行われていませんでした。そこへ達磨さんが来て、はじめて「大人の修行」、つまり坐禅を紹介します。当時の皇帝(梁の武帝)は仏教の布教に力を尽くした人で、達磨さんにききました、「私はたくさんのお寺を建てて、多くの僧侶を出家させ寄付をいたしておりますが、どういう御利益はあるのでしょうか?」 達磨さん曰く「利益は皆無だぞ」 皇帝さんはビックリしてききます、「では、仏教のありがたさはどこにあるのでしょうか」 達磨さん「ありがたいものもクソもないのだ!」 皇帝もいよいよムカついたのか、「そういうお前は自分を一体誰様だとおもっておるんだ!?」 達磨さん「知らん。」 どうやら話が合わないので、達磨さんは山に入って1人で坐禅をし始めました。9年間壁に向かって坐ったら、ようやく弟子入りに志願者が現れたのです。ところが、達磨さんは彼を無視してしまいました。12月の冷たい雪の中で、後の二祖は一晩中立ちつくし、夜が明ける時には決心して左腕を切って達磨さんに差し出し、「私の心はどうしても落ち着かないのです、どうか私に安心を与えてもらえませんか。」と訴えます。 我々修行者にも心当たりのある問いのはずです、「心の安らぎが欲しい、坐禅して、心を落ち着けたい」。 達磨さんは答えます、「では、お前のそういう心をワシの前に置いてみなさい、そうすればその心に安らぎを与えてやろうではないか。」 二祖はしばらく黙って、やがていいます。「探しても探しても、この心をつかみ取ることはできません。」 達磨さん「よろしい。そういうお前は実に安心を得ているのではないか。」 つまりは、心をつかんで安心を得るのではないということです。では、どう安心を得るのでしょうか?達磨さんは我々にその具体的見本を面壁という形で表してくれました。 * * * * * *
また、絶観論という経典があります。これは師匠と弟子の問答という構成でなっています。その冒頭にはこう書いてあります。 「大道は深くて跡がない。心で知ることもできなければ、言葉で表現することもできないが、ここであえて弟子が師匠に問答を投げかけている。 問 『心とは何か、安心とは何なのでしょうか?』 答 『お前は自分の心もつかみえないのに、どうしてそれを安心させようとしているのか。それを止めることこそ、本当の安心ではないか。』 問 『安心させるべき心がなければ、どうやって道を学ぶことが可能なのでしょうか?』 答 『道に於いて心なんか問題外だ。どうしてそんなに心にこだわるのか・・・』」 * * * * * *
また、永平広禄の第五に 「眼睛鼻孔、可く端直。頂は青天に対ひ、耳は肩に対ふ。正当恁麼の時、又作麼生。良よく久しくして云ふ、管る莫れ、かの心猿意馬に。功夫は猶、火中の蓮の若し。」 とあります。「頂は青天に対ひ、耳は肩に対ふ」という正身端坐の具体的表現について、「正当恁麼の時、又作麼生」という問いかけがあります。「この時、他に何をなすべきか」ということです。そして道元禅師はしばらくの沈黙の後こう言います。「管る莫れ、かの心猿意馬に」…あの心猿意馬というヤツ、狂った猿や暴走した馬のようにどうどうめぐりしている思いや考えを相手にするな、ということです。「普勧坐禅儀」でいえば、「非思量」です。「マインドフルネス」や「マインドコントロール」ではありません。「功夫は猶、火中の蓮の若し」…坐禅功夫は火中の蓮のようなものだとありますが、「哀れといえば哀れ、脆いといえば脆い、が勁く美しいのだ」という解釈もあれば、「坐禅は分別をこえたものである」というのもあります。あるいは「五欲の中にあって、禅定を行ずる時に、八風吹不動天邊の月」という古い「永平廣禄注解」もありますが、私はここで「正法眼蔵坐禅儀」の「頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし」や「学道用心集」の「行道は頭燃をすくう」という言葉を思い出します。大迷の火の中に飛び込んで燃えるような坐禅をしなければなりません。凡夫の小さな煩悩の炎を一々消そうと思っても、間に合うはずはありません。 (続く・堂頭)