安泰寺

A N T A I J I

正しい坐り方4「あらゆる地図を手放すための地図」

大人の修行 (その24)


 「Soto Zen」という曹洞宗宗務庁が出している英語の本の中では、奥村正博老師は「坐禅は私たちの持っている歪んだ『地図』を直すことではなく、あらゆる『地図』を手放すことだ」と言っています。

 先月はここで問題にしている「坐禅の仕方・正しい坐り方」を地図に比較しました。坐禅は「地図を手放すこと」であれば、「坐禅の仕方」は「あらゆる地図を手放すための地図」という逆説的な表現になります。実際に、先々月の沢木老師の「坐禅の仕方」というテキストの検討したとき、この坐禅の地図もどこか歪んでいるということがハッキリしました。では、坐禅をするにはどうすればよいでしょうか。一切の地図を忘れて、本物の坐禅をすることでしょうか。しかし、「本物の坐禅」とはどういう坐禅か、そもそも分からないと言うのが問題ではないでしょうか。ある意味では、この「坐禅が分からない」という自覚こそ本物の坐禅に限りなく近いものだと思います。「坐禅が分かった」と思ったときは逆に、頭の中の地図の一点を現実と勘違いしたに過ぎません。「本物の坐禅」なんて、そもそも「分かってくる」ものではありません。しかし、自分の頭の中で思い描いた地図の一点を現実を勘違いし、そこをギュウギュウ突き詰めたあげく理屈の袋小路に迷い込んだ時こそ、別の地図を参考にすることが大切です。地図は単ある地図に過ぎず、現実ではないということが分かるからです。どんな優れた「坐禅の地図」でも、所詮「地図」であり、坐禅そのものではないということを忘れてはなりません。

 目的地にたどり着くためには地図を参考にしなければなりませんが、その地図が現実とどれほどかけ離れているかということをまず理解していなければ、地図を見ても目的地に近づくことはできません。これから検討したい「正しい坐禅の仕方」もまた、一枚の歪んだ地図にすぎず、正しい坐禅そのものではないということは最初から頭に入れる必要があります。そして、そういう地図を検討するという作業自体は、坐禅の実践とはほぼ縁遠い作業です。坐禅は「地図の手放し」のはずなのに、私たちがここでやっているのは、「地図の地図の描く」という様な、バカげた作業と言わなければなりません。ですから、こんな空論的な文書を読む暇があれば、生きた坐禅の指導者とよき仲間を見つけ、実際に坐った方がいいに決まっている。それに踏み込めず、あるいは未だに落ち着いて座蒲のうえに腰を下ろせない人のためにのみ、以下沢木老師の「禅談」の付録にある「正しい坐禅の仕方」を検討します。

正しい坐禅の仕方

1) 坐禅にかかるまで

道場の選び方・整え方

イ)環境の静かな、安心して坐り続けられる處を選んで道場を設ける。 ロ)なるべく歌聲や話聲や、其の他の物音が響いて来ない室、総て欲情をそそる様な条件から遠ざかることがよい。 ハ)不意に人が入って来る心配のない處、目先に物がチラツカヌ處がよい。 ニ)夜と雖も暗きに過ぎず、晝も明るすぎない様に光線を調節すること。 ホ)冬は室をなるべく暖かにし、夏は涼しい室を選ぶがよい。 ヘ)殊更に高い所に坐るのも不安な気持ちが起こるし、風當りの強い處も落ちつかない。煙や臭気の入る處もよくない。 ト)あらかじめ道場は清掃して、よく整頓して置くがよい。 チ)坐禅の道場には文殊菩薩を安置するのであるが、その代わりに外の佛像を安置するか、佛菩薩の畫をかけて、華を献じ、香炉にはなるべくよい線香を立てて置きたい。

 「Soto Zen」では奥村老師は大事なコメントを付け加えています。 「坐禅の道場は冬が暖かく、夏が涼しいことが理想ですが、これは必ずしも可能ではありません。車の音、隣の家から響く声・・・忍辱の婆羅蜜(苦しみを受け入れること、俗で言う「辛抱」に当たる)を行じなければならない時もあります。華を献じ、ロウソクに明かりを点し、線香を立てるのは、静寂な雰囲気を作るためです。なぜならば、坐禅しているとき、その空間は私たちと一緒に坐禅しているからです。坐禅と坐禅の道場を切り離すことは出来ません。そして人生についても、私たちの生きている環境についても、同じことはいえます。」

 12年ほど前、私は京都で大学院に行っており、学校にも山にもほど近い左京区北白川に住んでいました。そこは気になるほど騒音がうるさい場所ではなかったのですが、やはり日中は当然、物音や車の行き交う音がしていました。なので、月に1、2回参加していた安泰寺の接心の静寂にいつも期待していました。安泰寺は一本の細い山道の終着点にありますし、一番近い部落までは5キロもあります。今も昔も、郵便屋さんと飛行機の音以外は人工的な音がほとんど聞こえないのです。…ところがどっこい、日本政府が莫大な税金を注ぎ込んで銘打つ「地滑り対策」地域に安泰寺の境内も指定されており、この憎っき地滑りを防止するべく周辺に穴を掘って地下水を排出させたりダムを造ったりする作業がなされるのです。つまり、この作業が行われる限りは、巨大なトラックや重機が寺の境内に出入りし、実に騒々しい限りなわけです。もちろん、この作業はたかだか安泰寺の接心くらいでは休むはずもありません。

 わざわざ京都から電車やバスを乗り継ぎ、あの急な坂道を歩いて上って接心中の静寂を求めて来た私にふりかかった災難…それは下界よりも尚一層の騒音なのでした。坐禅中にトラックが往き来し私の集中を妨げると、もう血管がブチ切れそうになるほど腹が立っていました。その一方で日本人の雲水たちは全く気にする様子もなく、騒音を子守歌に幸せそうに居眠りしている者もいました。なぜ誰もせめて接心中は工事を中断するように言わないのか不思議でなりませんでした。この「お偉いわたくし」が京都に帰った後にでも、また工事を続ければいいではありませんか。

 この経験から学べることは、我々を取り巻く騒音よりも、自分自身のココロの「騒音」の方がよほどウルサイということです。「一体なんでオマエら全員黙ってられないのか!」と言うことは、むしろ自分自身に投げかけられたものですが、忍耐の修行とは歯を食いしばることでも、思考を停止させることでもないのです。ただ受け入れなければならない現実を静かに受け入れることなのです。

 それから何年か後に、私は安泰寺で雲水になったわけですが、そこで別の忍耐を学びました。安泰寺が京都から今の場所に移転して20年になる記念として、先代の住職、宮浦老師は新しい禅堂を建てることを決めました。それまでは、禅堂としても建てられた本堂で坐っていたのですが、私が入門して3年目の1997年の一年間は月2回の接心を「作務接心」に切り替えることとなりました。つまり、坐禅は全くせずに3度の食事を除いて、朝の5時から晩の7時か8時までずぅーっと作業し続けることになったわけです。その甲斐あって新しい禅堂は職人の手を全く借りずに大した経費をかけることもなく、安泰寺の雲水だけの手で完成させました。

 この決断に至るまでにはいくつかの理由がありました。まず、本堂は20から30人くらいにちょうどよい大きさで、この18年間でせいぜい12,3人しかいない現状からも大きすぎ、冬の間は必要以上に薪ストーブを炊かないといけないということです。また冬の間、ストーブを炊くとはいっても壁に入った多くのひびが年々ひどくなり、薪ストーブをがんがん炊いたとしても、背中は熱くなっても風が強かったりするとすきま風が時には雪混じりで顔や肩のあたりを吹き抜けるのです。背中から汗がだらだら流れ落ちながらも冷たい風で指がかじかむわけです。それでいて夏は暑いわけです。日本海にほど近い山の中に位置する安泰寺では、日本の他の所のように気温が激しく上昇するわけではないのですが、本堂ではじめーっと暑く、特に接心中の昼間は耐え難い不快感を感じていました。禅堂に窓がたくさんあれば換気も良くなるのではないかということで、新しい禅堂には頭上だけではなく、足下にも窓を付け、夏場はそこを開けてさわやかな風を通し、じめじめと湿った手足を爽快にしようということになりました。

 また安泰寺の本堂は、回廊もすっぽり覆ってしまうくらい大きな屋根なので、堂内は日様が直接当たることがないために、日中でさえ薄暗いものです。本当は坐禅にもってこいの環境なのですが、坐禅中に居眠りするのはこの堂内が薄暗いせいでもあるという雲水もいました。日光が直接当たれば集中力が上がり意識もハッキリすると言うわけです。こう言うからには新しい禅堂には今までのような電球ではなく蛍光灯を付けようということになりました。ヨーロッパ人と違って、日本人は経済的というよりかは、よりぱっきり明るいという意味で蛍光灯を好むようです。ヨーロッパ人が暖かみがあると感じる電球の明かりは日本人には暗すぎるという印象を与えるようなのです。

 それから、音という問題も一つの理由です。安泰寺では鳥や虫、風や雨など自然の音以外には先程も述べたように、地滑り対策の工事を除けば、騒音という騒音はないのですが、台所に近いために典座当番がぽけーっと作業していると、竈に鍋を置いたり食器を洗ったりする音ががたがたと本堂で坐禅している人たちの耳まで響いてきます。ですから新しい禅堂は庫裡の裏側、つまり台所の反対側に建てられたわけですが、これはトイレの横でもあるわけです。ここが大きな落とし穴でした。というのも、経行中に用を足しに行く人がこれまたぽーっとしていると、ぴーんと緊張感がある禅堂にいる人に物音が丸聞こえなことも忘れて、水をジャーと流して扉をバターンと閉めて、どすどすと禅堂へ戻ってきたりするのです。それで接心後にはこのことで話題が持ちきりになるわけです。「あのぉぅ、典座が用を足しても手なんて洗ってなかったんだよねー。その汚い手でー、飯の用意なんかしちゃったりしてたわけだよねー、うげぇー。」

これぞ理想的だと自負して建てた禅堂でいざ坐ってみれば、待っていたのは本堂よりもひどい状況だったのです。まぁ、この続きはまた来月にいたしましょう。 (続く・堂頭)

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