安泰寺

A N T A I J I

正しい坐り方 9「生きるために働いているのか?働くために生きているのか?」

(大人の修行 その29)


 坐禅について「極度に疲勞してゐる時は避ける方がよい」と沢木老師がいっていますが、私たちはなぜ疲労を感じているかがそもそもの問題です。必要以上に疲れを感じるのは、私たちの働く姿勢に原因があるのではないでしょうか。「働く」とは何か、また「休む」とは何か、これが分からなければどんなに「楽したい・楽になりたい」と思っていても、本当の意味での「楽」は実感できないと思います。

 働くことと休むことに対する姿勢・態度には文化の影響が非常に大きいと思います。内山老師は中学生の時、英語の教科書の中で「I don't live to work - I work to live」という文書に出会い、感動した体験を語っています。人間は本来、働くために生きているのではなく、生きるために働いているのだ、という意味ですが、当たり前といえば当たり前です。しかし、これを簡単に「当たり前」として片づけられるのも私のような欧米人だけかもしれません。なるほど、日本人は生きるために働いているのではなく、まさに「働くために生きている」のではないかと良くいわれます。そして中学生の内山老師の中には、こうした日本人の生き方に対する疑問は芽生えたのでしょう。私自身も日本に来る前によく「日本人は働き蜂のように勤勉な民族だ」という神話を聞かされました。そして実際に日本に来て、まず印象的だったのは「コンビニ」の存在でした。ドイツでは平日8:00〜18:00、土曜8:00〜12:00以外に店開きをするのは法律違反です。特にカトリック教の根強い南ドイツでは昼の12:00〜14:00の間も休む店は多くありますから、日曜日や昼ご飯の時間帯にはガラーンとし、まるで墓場のように静かです。そういう国で育った私にとって、真夜中でもパンや牛乳が買え、日曜日でも平日同様に街が賑やかであるのは意外なことでした。なるほど、日本人は「働き蜂のように」忙しく動き回り、年中無休・24時間働いているようにも見えました。

 ところが、その働きぶりをよく観察してみますと、肝心な仕事の内容に問題があるとは言えなくないという印象を受けました。彼らは本当は何もしていないのでは・・・と思ったことすらあります。例えば、トラベラーズチェックを現金に換えるという簡単なサービスはヨーロッパの銀行なら3分もかからないのですが、日本の場合は不慣れのためか、1時間以上待たされた経験は何回もあります。その間、銀行員は何をしているかといえば、ダルそうな顔つきで面壁している者もいれば、指先のマニキュアをチェックしている者もいます。つまり、お客さんが待っているのに何もしていないのです。その怠慢さで有名な役場やその他の公務員はなおさらですが、決してデスクワークに限った現象ではありません。工事現場でも、10人の内に実際に働いているのは1人や2人ではないでしょうか。「安全第一」のために空しく旗を振る者がいれば、日陰で世間話をする者もいる。現場監督まで来ると、車で昼寝しているか、スポーツ新聞を読んでいるかです。上司が見ているときだけ忙しく働いている振りをし、誰も見ていなければサボル三昧です。一体全体、何のために、何を、どうしたらよいか、というハッキリした目的意識を持つ者は日本の仕事の現場でほとんど見あたりません。そのため、サービス残業を夜遅くまで続けても、休みをお盆とお正月にしか取らなくても、仕事の成果はなかなか現れません。簡単に言えば、仕事に費やされている時間に比して、その効率は極めて低いものです。労働の質よりもその量ばかりが重視されているからではないでしょうか。

 初めて安泰寺の作務に参加して思ったことも同じです(この体験については、2004年1月の「帰命」に書いています)。当時はまだ午後の4時まで作務していましたが、この作務の時間をさらに延長して雲水達は日々頑張りましたが、その効率は決していいものではありませんでした。確かに、効率の善し悪しを考えるアタマを放ち忘れて、ただ黙々と身体で働くということは理屈っぽい怠け者の私にとっていい修行体験となりました。しかし、この無駄の疲労を言い訳に、雲水達は坐禅中に座蒲から転がり落ちるまで居眠りしました。「極度に疲勞してゐる時は避ける方がよい」と沢木老師が言いますが、自給自足を止めるわけにもいかず、坐禅を一種の「休み時間」として捉える者がいました。

 がしかし、沢木老師が言わんとしていることは「疲れたときには坐禅しなくてもよい」ということでもなければ、「坐禅がしたければ作務を減らせばいい」ということでもないと思います。疲労に限度があるのは確かですが、私たちが「疲れている」という時のほとんどは、作務(仕事)が多すぎるからのではなく、作務と坐禅に対する姿勢・態度に問題があるから疲れを感じるのです。趙州和尚に「オマエは1日の24時間に使われている。ワシは1日の24時間を使い得ている」という言葉がありますが、私たちも趙州和尚のように時間を自由に使いこなしていると言うより、奴隷のように時間に使われているという気持ちはないでしょうか。下手をすれば、自給自足の生活をしながら坐禅をするために安泰寺に上がってきたはずなのに、いつの間にか作務の時間はもとより、坐禅の時間まで「自分の時間ではない」と言いだし、作務と坐禅に振り回されてしまいます。いったん「坐禅は自分の時間ではない」と思いこんでしまいますと、何年間そういう「自分の時間ではない坐禅」を仕方なくやり続けても、ただ「疲れ・眠気・怠さ」を味わいながら年月が無駄に流れて行きます。「光陰むなしくわたることなかれ」とは、こうした時に肝に銘じておかなければならない言葉です。

 「一日不作、一日不食」という禅語もありますが、自給自足を目指す叢林では一日の食を得るためにはそれ相応の労働をこなさなければならないのは当然の理です。だからといって、「働くために生きている」のではありません。がしかし、「生きるために働いている」というのも、ちょっとおかしいような気がします。なぜなら、私たちの作務や坐禅はそのまま「生命の働き」でなければならないからです。「坐禅のために働いている」とか「生きるために働いている」のではなく、働くこと自体が生きることです。働くことと生きることが乖離してしまいますと、人間は疲れてきます。働き蜂のように「働くため生きる」のも、たんなる「生きる手段として働く」のも、充実した生き方(=修行)につながらないと思います。何のためでもなく、「今生きている、この瞬間の命」(「参禅者心得」)、この一瞬の生命の働きがそのまま修行に表現されなければなりません。これはガムシャラに頑張って手に入れるものでもなければ、「アフターファイブ」にくつろいで体得するものでもありません。

 「生きる」「働く」「休む」ということの文化的背景と、それぞれのアプローチに潜んでいる落とし穴について、また来月考えてみたいと思います。 (続く・・・堂頭)

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