安泰寺

A N T A I J I

自分の問題

大人の修行(その3)


 「大人の修行」、これは何か。  まず、自分のケツを自分で拭くこと。そもそも修行しようと思っているのは自分自身のはずですから、自分の壁にぶつかったとき、それを自分で越えなければ、大人とはいえません。子供が親にオンブされているように、弟子が師匠に自分の修行のすべてを管理してもらおうとするのはおかしい。  今回は「大人の修行」の第3回目ですが、このシリーズを書き始めたキッカケとなったのは、「参考までに」安泰寺宛に送られてきたEメールです。そのメールの中には初回で紹介しました「ちょうど幼稚園の子供が大学へ行って勉強するような」、私の先輩のお言葉が載っていました。  長文ではありますが、誰でもいずれはこのような疑問を感じることは必ずありますので、いくつかのところを抜粋したいと思います。

 「沢木門下で指導を受けました。そこで仰られたことは、黙って坐れと。一呼吸とかそう言うこととか数息感というようなことは禁じられていましたから、ですからよく睡魔に襲われたり、雑念にまみれたり、ある時には心が落ちつくことがあるんですが、接心が終わるとぐたーっとなることの繰り返しでした。まあそう言うものかなと思って、・・・」

 「ですから道元禅師の仰った普勧坐禅儀の言葉というものが、修行の実践方法として身近に受け取るのではなく、高邁な理屈の世界、論理の世界にしてしまうことの差だと思うのです。そのことをはっきり自覚できる手だてがないと、いつまで経っても心の決着は付かないと思います。ちょうど幼稚園の子供が大学へ行って勉強するようなものじゃないかと思うんですね。」

 「実は私の友人や同じ時期に修行した仲間が、結局H寺さんとかB寺さんとか場合によってはアメリカの方へ渡った人たちがいまして、結局定着した人はいなかったんですよ。これは人がどうのこうのじゃなくて、やはりはっきりした確信が掴めないからだと思っています。今でも私は師匠が安泰寺にいらっしゃるものですから、時々お会いしますが、先輩にも時々聞くんですけれども、一言でいうと何故確信を持った坐禅ができないのかと言うことです。私も含めて。  これでそのまま行くと何年経てばいいのか、意味のない長い時間の経過がとても心配なのです。実際こういう問題が今でも続いております。これは宗門全体の姿でもあるんです。本当に「只坐る」にはちゃんとしたポイントが無ければ出来ないことですし、形に留まって一瞬一瞬がないがしろになっていたのでは、全く意味を為さないのですから。まあ今だから言えるんですけれどね。それがはっきりしていなかった、はっきり指導してもらえなかったというところが、確信を持った坐禅、もしくは修行ができなかったということだと思います。」

 「ですから問題は只管打坐ということがどういうものなのか、はっきり知らないと言うことが問題だと思います。だからそれをはっきりさせるためには、まず一番の手だてが師匠だと思うんです。」

 「八日間S道場の方へ上山させてもらいまして、老師のご指導を頂くことができました。一言で言って、僅か一週間足らずで「正法自から現前し、昏散先ず撲落することを」ということがはっきりとし、そのことが疑いもなく自覚することができました。今までと全く違って、本当に新鮮な感動を覚えました。これは何でなのかな、今までの修行と何がどのように異なるのかなと思って深く反省をしてみました。その違いの解答は至って簡単なことでした。自分の一瞬一瞬の有りように対してが徹底していなかったことでした。今まで充分に一瞬を重要視していなかったことが問題だったのです。  只坐禅する、只食べる、「只」とは一体何なのか。この「只」を掴むためにはやはり一瞬一瞬をはっきりさせなければならない。そのための具体的な手段方法を教えてもらえなかったことが根本的な問題だと私は思っています。一呼吸というもの、これをいままで知らなかったということです。それを知り得たことが本当に幸いだったと思います。  只管というのは言い換えれば、一瞬であり心の始まる前のところと言うことです。そのことがはっきり分かったので、道に於いても人生においても幸いだったと思っています。問題はこれを継続していくこと。これが私の今やるべき事であるし、具体的には毎日坐禅をする内容だということ。一つ一つの自分の動作に、不純物を持ち込まないように、心を研ぎ澄まして「只」やって行くと言うこと。  ここに全てがあり、それ以外に修行すべき事はない、これで終わりだと言うことを信じて、ただひたすら行じて行くしかない。」

 自らの修行に対する反省もなく、彼が長年面倒を見てもらった修行道場とその指導を施して下さった師匠に対する批判です。こういう疑問を感じ安泰寺を批判するのは何も彼一人ではありません。  「坐禅しても心は落ち着かないじゃないか」  「落ち着いたら今度はグッスリいねむりするだけじゃないか」  「いつまで経っても只管打坐が分からないし、確信がつかめないじゃないか」  「形だけの修行にとどまって、中身がないじゃないか」  「ハッキリ指導してもらえないじゃないか」  「指導者自身だって、いねむりしているじゃないか」  「何年経てばいいのか、意味のない長い時間の経過に過ぎないじゃないか」  早い場合、接心の一日目でこういう疑問を起こし、安泰寺を後にする人もいます。遅い人は7、8年間修行してはじめてこんな当然なことに気付きます。問題の焦点を自分自身から外し、怒って安泰寺を下ります。しかし、こんなことで安泰寺を後にする人たちより、長くここでとどまって修行している人たちの方がこの疑問と親しく付き合い、自分自身の問題として取り込んでいます。自分の問題に親しく取り込むという大人の姿勢の中からやがて師匠の声も聞こえてきたり、仏祖の教えが高邁な理屈の世界ではなく、身近な修行実践方法として見えたりします。この工夫をなくしてはまさに幼稚園児の受験勉強です。意味のない時間が経過するだけです。お経の中にも「光陰矢の如し・空しく渡ること無かれ・生死事大無常迅速」等々、警告されていますが、棒読みをしながらまさか自分のことが言われていることに気付かず、問題点をよそで追求する連中は昔からいます。

 いうまでもなく、私もそうでした。解決できない疑問で胸が悶々とした年月は長すぎました。今の私も、何の問題意識もなく穏やかな日々を送っているわけではありません。うっかりしてしまえば、「まあそう言うものかなと思って、・・・」自分の修行に納得してしまうからです。そうすれば、無意味な時間をつぶすだけで年月が過ぎます。修行にはそもそもつかみ所などありません。いま、この一瞬の命が自分の修行ですから、それを特別な手だてを使ってつかんだりするのではなく、一瞬一瞬手放すことこそ修行です。今の私は自分の方から坐禅のあり方をどうのこうの問題にしているのではなく、むしろ逆に坐禅の方から自分自身のあり方が問題にされています。坐禅の方から自分が問われていると言うことに気付くと、修行の幼稚園はもう御卒業です。「坐禅は自己の正体なり」・「正師は坐禅」という、大人の修行者の仲間入りです。

これからゆっくりと大人の修行者の世界を探検してみたいと思います。今後取り上げたい科目は、  まず前々回から繰り返し使っている「大人」という言葉の意味するもの。  いねむりや雑念という他人事ではなく、自分自身の問題としてとの実戦的な取り込み方。痛みと怠さ、退屈、欲望と執着、イライラ、クヨクヨ、諸々の煩悩・妄想・無明とのつきあい方。体の姿勢・心の姿勢・呼吸について。  自ら坐禅工夫をすることと師匠の指導を受けること・その指導の正しい受け止め方。  坐禅工夫ばかりではなく、坐禅以外の工夫。  修行の様々な落とし穴。「坐禅」を傍観してしまうこと。修行者の被害妄想。私自身の求道において体験した困難など。  師匠、宮浦信雄老師の究極の教え。   (堂頭)

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