安泰寺

A N T A I J I

正しい坐り方13「お袈裟の意味」

(大人の修行 その33)


「搭袈裟偈」

大哉解脱服「だいさいげだっぷく」
無相福田衣「むそうふくでんえ」
被奉如来教「ひぶにょらいきょう」
広度諸衆生「こうどしょしゅじょう」


 我々が毎朝、暁天坐禅が終わって唱えている偈です。先月もお袈裟について書きました。「解脱服」としてたたえられているお袈裟ですが、凡夫の私にはそれが「窮屈袋」として感じられました。仏性の側から見れば、お袈裟に包まれて坐るという行為は、天地いっぱいの命に包まれて生きるということです。宇宙の中でたった一人で坐るということは、窮屈どころか、これほど自由なことはないはずです。

 しかし、若かった私にはそれが実感できませんでした。「搭袈裟偈」を唱えるのも、お袈裟を身につけるのも、無意味な形式主義に思えていました。何せよ、お袈裟って縫い合わせた布に過ぎないから・・・今の私からいえば、何をするにしても、それが意味を持つか持たないかは、行動している本人次第だと思います。同じお袈裟を身につけるにしても、無意味な袈裟の付け方もあれば、意味のある付け方もあるはずです。お袈裟そのものの意味があるのではなく、お袈裟に対する本人の姿勢・態度が問われているのです。  同じことは坐禅についても言えます。坐禅しても何もならないのは只管打坐の大前提ですから、無意味といえばこれほど無意味な行為はないのです。しかし、だからといって時間の無駄かというと、そうでもありません。人生全般にしても、そこに「意味」という決まったものはありませんが、生き方次第に生きている本人なりの意味を見いだすことはできます。お袈裟と同様、人生そのものに意味があるのではなく、生きる姿勢に意味があったりなかったりします。あくまでも本人の態度の問題です。お袈裟や坐禅において尊いのは、坐禅やお袈裟そのものではなく、自己を宇宙に投げ出すというこの態度が尊いのです。

 「お袈裟の意味は何か?」  「坐禅の意味は何か?」  「人生の意味は何か?」  というのではなく、お袈裟・坐禅・人生にどんな姿勢で臨んだらよいか、ということです。それらのことに意味がないというのであれば、意味を与えるべき自分自身の姿勢ができていないということです。  先月も書きましたが、澤木老師は「お袈裟を掛けてタダ坐る」というように、「お袈裟」と「坐禅」を同等に扱っているところがあります。「お袈裟を掛ける(搭袈裟)」と「坐禅する」に共通しているのは、この「タダする」という姿勢です。仏道修行とは、タダすることです。

 「禅談」の中では、「お袈裟の話」という一章もあります。お袈裟の大事さを説明するために、澤木老師は色々な例えを用いています。その中には、近年論じられるようになった「禅と戦争」の問題から考えれば、非常に気になる話もあります。「お袈裟の功徳が日本國民に篤く注がれてゐた」例として「お袈裟をかけて戰をした者もゐる。入道になって戰をした者もゐる。菊池家では武時以下歴代入道して坊主になって、袈裟をかけて戰をしてゐる。」これについて、澤木老師のコメントはありませんが、西洋人の私がまず思い出すのはキリスト教の十字軍です。「神様の御名の許」で、聖職者と名乗る者が人殺しをするわけです。その「神様」が愛のシンボルであることを完全に忘れたかのように・・・  仏法もまた「不殺生・共生・慈悲」を説いています。お袈裟を捨てられた布切れから作るのが基本ですが、まさに仏法の象徴・共生の象徴です。それを身につけて戦をするわけですから、澤木老師がどうお考えになっていたのかが知りたいところです。

 澤木老師は別の機会でこう言っています。  『今晩泥棒しに行くためにメシ食うなら、「ドロボウめし」であり、パンパンしに行くためにメシ食うなら「パンパンめし」だし、坐禅するためにメシを食うなら「仏道めし」である。いったいわれわれは何のためにメシ食うておるか。』  これは「メシ」に限った話ではありません。泥棒が応量器を使って、永平清規に則ってメシを食ったとしても、所詮「メシ」であり「仏飯」にはなりません。と同じように、殺人鬼がお袈裟をつけたとしても、「サツジン袈裟」に過ぎないわけです。そういう袈裟に何の功徳があるというのでしょうか。  坐禅にしたって、「お悟り」でも開いて自分を高める手段としての坐禅と、自分を投げ捨ててタダ坐る・その行為に打ち込むという坐禅と、天と地の違いがあると同じことです。同じ袈裟でも、「いったいわれわれは何のためにケサをかけておるか」ということです。そこにはまず何より「広度諸衆生」という大きな制限がなくてはなりません。「衣法一如」というのであれば、お袈裟を自分の個人的な目的のために使うことは即ち仏法を踏みつけることです。

 残念ながら、澤木老師はどこにもお袈裟の信仰の落とし穴に触れていません。「日本人にはお袈裟の信仰が普及してゐるが、印度を旅行した人にお袈裟の事を訊くと何にも知らん。五條は襦袢の様に、七條は單衣の様に、九條は羽織のように、たゞ普通の服の様に考へてゐる。然しそれでよいのであらうか。日本人は迷信からお袈裟の事をやかましく云うのだらうか。」  迷信か正信か、その境目がどこにあるかが問題です。澤木老師は「悲華経」なる偽経から「若し袈裟をかけて戰をすれば、決して負けると云う事がない」と引用しますが、どうしてこれをハッキリと「迷信」だと言わないのでしょうか。こういう箇所があるため、「お袈裟の信仰」全体に後味の悪いもの感じられずにいられません。釈尊ご自身がこういった「お経」をお聞きになれば、どう思われるでしょうか。我執を無くすために、捨てられた布切れを拾い集めて、「お袈裟」という形で縫い合わせていた比丘達がもし、後代になってこういう迷信の流行ることを知っていたしたら、何を言われていたのでしょうか。・・・お袈裟をかけて戦をするサムライ、お袈裟をかけてお布施をむさぼるオボウサマ、こういうことをどう考えたらよいでしょうか。

 この辺よく注意していたのが一休さんです。檀家に法事に呼ばれて、普通の格好で行きましたら「まぁ、一休様、今日の法事はお忘れになられましたのでしょうか」と玄関先で言われました。  「いや、その法事のために来たのだが・・・」  「しかし、お袈裟は?」  そういわれて、一休さんはお袈裟を取りに大徳寺に帰りました。そしてお袈裟を持って再びその檀家の家に上がったら、仏壇にお袈裟だけをおいてとっさに帰ろうとしました。  「え?法事がまだ始まっていないのに、もう帰るのですか?」  と檀家さんがびっくりして言いますと  「どうして?ワシではなく、お袈裟を待っていたのだろう?」  と一休さんがやり返しました。大事なのは態度であって、布そのものではないということです。

 「禅談」では、次の話が出てきます(旧字を改めます)。  「王様があって、その領土に六牙の白象がいることを聞いて、是非その神象の牙が欲しいと言い出した。いくら欲しいと言ったところで、どうしてもその神象を捕らえることができない、広く布令を出して人を募集した。するとある獰猛な猟師がやってきて、私が捕らえて参りましょうと言うことになった。  そこで猟師は考えた。何でもその象は非常に仏様を信仰しているということだ、それなら一つ、お袈裟をかけていくことにしようと、二人の猟師が、それぞれお袈裟をかけてしずしず進んでいきました。なるほど向こうに牝牡の象がいる。普通なら、猟師の姿を見れば逃げ出すはずなのに、お袈裟をかけているものだから安心しているのである。  牝の象が先に猟師を見つけて、牡に向かって申します。『ソラ向こうから、目つきの悪いやつが来ますよ』。すると牡の象が『オマエ何を言う、あれは仏さんのお弟子じゃないか』。牝象はなお『それでも、あの目つきが怪しい』と心配する。牡は『仏さんのお弟子を疑うのはよくない、それだから女は罪が深いのだ』とたしなめる。そうする内に、かの猟師はお袈裟の下に隠していた毒矢を放って牡の象を射ました。牝の象は『ひと思いに、あいつを殺しましょう』と怒りだ立った。すると牡の象は『何を言うのじゃ、仏さんのお弟子のなさることに、我々は何も悲しむことはないじゃないか、仏さんのお弟子に無心されたら・・・仏さんのお弟子がお入り用なら何でも差し上げる、命がなくなっても我々は満足じゃないか』と牝象をなだめる。  そこへ猟師が近寄ってくる。牡象は猟師に向かって『何がお入り用で私の命をお取りになるか』とたずねる。猟師は『俺は、オマエの牙が欲しさに来たのだ』という。すると牡象は『牙はあげるが、アンタにあげるんじゃない、アンタの掛けているお袈裟にあげるんです』と言って、懇々と牝象を慰めて息を引き取ったというのである。」  あまりにもひどい話です。あの猟師のずる賢さの醜いこと!いくらお袈裟が尊いからといって、この話の象の見方を取らない人はいないでしょう。まさか、お袈裟を掛けていれば、「牙が欲しさ」に象を殺してもよいということありません。ここは澤木老師のコメントが興味深い。  「これは非常な皮肉です。我々がお布施をねらうためにお袈裟をかける。施主の方では仏弟子だというところで帰依をする。ところが坊さんの方では、牙だけに用事があるという。ちょうどこれを比較されたような気がする。・・・(坊さんは)飯でも炊いて食わせると何か非常に帰依されているとうぬぼれる。しかしこれは大間違いだ。お袈裟が帰依を受け、お袈裟に帰依するというのでなければ本当じゃない。」  つまり、澤木老師は僧侶の自分を話の「加害者」の猟師に比較しながら、「被害者」の象の心理を理解しようとしています。そしてお袈裟を利用する側ではなく、お袈裟に帰依する側が「本当じゃ」と言っています。托鉢をしたことのある人なら分かりますが、衣を着て、略子をかけて、草鞋を履いて、網代笠をかぶって、鉢を持って街角に立てば、人はお布施を入れてくださるのです。それは決して「私」に対するお布施ではありません。そもそも、私を知らないのですから。どうしてお布施を下さるのかと言えば、「お坊さんの格好」をみてを布施を下さいます。同じ人がTシャツに短パンで立ったとしても、お金はだれもくれないはずですから。

 どう見ても「にせ者」にしか見えない托鉢僧の側で立って行乞をしたことがあります。格好もちょっと変でしたし、お経の読み方もよく知りません。しかし、「俺の方がホンモノだ」と自負している私は、通り過ぎている人たちは彼の鉢に入れたり、私の鉢に入れたりしているのが気になりました。「あいつの方はにせ者だから入れるな!ホンモノの俺の方に入れろ!」と頭の中で思ったことがありますが、まさに先の猟師のような心理です。とんでもない勘違いでした。私にくださるのではない、この格好が象徴している仏法にくださるのです。向こうが財を投げ入れてくださるのであれば、私は自分自身を投げ入れなければなりません。そう考えますと、お袈裟に対する責任が重いです。なるほど、お袈裟を掛けると言うことは「被奉如来教」ということです。

    食事を頂く際に唱えるお経の中に  「功の多少を計り、彼の来処を量る」  という言葉は出てきますが、「自給自足」と称する安泰寺ですら、所詮は人のお布施・大地のお布施・日月のお布施で生活しています。その「功」は実に計り知れないのです。身につけているお袈裟自体だって、頂いたものです。そのお袈裟に対して「窮屈だ」といっていた若い私、恥ずかしくてなりません。 

 大事なのは、物理的対象としてのお袈裟ではありません。そういう意味では一休さんは正しかったのです。しかし、一休さん個人ではなく、仏法の象徴である「お袈裟」に帰依しようとしていた檀家にも一理があります。一個の人間としての一休さんはしょせん凡夫です。その凡夫を法事に呼んだのではなく、お袈裟をまとうべく一休さんを呼んでいたのです。「私」が大事か、「お袈裟」が大事か、そういう問題ではありません。自分を投げ出すことが大事です。その一環としてお袈裟を頂くこともあれば、食事を頂くこともあります。坐禅をさせていただくことがあれば、天地いっぱいの命に生かしていただくことがあります。 (続く・堂頭)

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