流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


山内庸行


 今年もまた安泰時文集への投稿依頼のメールが来た。また一年が過ぎようとしているのを改めて感じる。鹿肉の味を想像しながら、思いつくままであるが、今年を振り返ってみる機会とさせて頂くこととする。
  まず 今年は、やはり3.11と台風十二号。私は六月と九月にそれぞれ三泊と二泊で、被災地へバスでボランティアに出かけた。 
  東北では気仙沼に行くことになった。生々しい津波の跡、まちの真ん中に鎮座まします漁船も一つや二つではない、津波にやられた上にまた火災でやられた焼け跡の残る痛ましい家々、まだまだ片付いていない残骸とかした生活の証しの山々・・・TVで見た惨状を匂い付きで見ることになった。3.11直後は、あそこでそしてそこで死体が転がっていたという話を耳にする。福島原発からかなり離れているのに、「牧場では放射能が検出された・・・牛乳は駄目かもね・・」とかいう現地の人同士の話声が聞こえる・・・。やはり実際に自分の目で見、当事者から自分の耳で聞くと衝撃度もまた格別である。四国遍路と同じくらいの距離離れた気仙沼との往復の疲れもまた格別だった。帰ってからある原発関係の講演会に妻と出たところ、会場の冷房が利きすぎていたこともあり、風邪を引き、十日間近く、足腰の痛みと熱が続き、日課のジョギングも中止のはめとなった。 
  台風十二号では新宮へ行った。バスで約四時間。日本でも過去例をみない歴史的大雨だったという。当時水かさは、十数メートルあったとか。熊野川を中心に大きな大きな湖が一つできた・あの丘の上の家も浸水した・東北と違いボランティの数が不足している・・・と耳にする。バスからみると色々な家具や道具が木の枝に引っかかっている。多くの家が使い物にならないまま開け放たれている。ただこの新宮では、大阪ともそれほど遠くなく、旅の疲れも少なく、また泊まったところが和歌山有数の温泉地だったので肉体的には、むしろ快適な旅ではあった。 
  被災地のボランティアは生まれて初めて。そのきっかけは永年個人会員をしている大阪ボランティア協会のメールによる被災地ボランティア募集。対象は主として企業に働く人たちとNPO関係者。参加者の多くは大阪ガス・関西電力・積水化学といった大手企業の社員。そしてそれらの企業からの寄付がバスを出す資金源ともなっている。年齢的には二回とも私が最高齢。平均は五十前後か。横浜に住む私の娘婿も会社の労働組合の薦めで五泊ほどの東北支援にと出かけたという。何より感心したのは業界団体同士の相互扶助。漁業・建設・農業などそして警察・消防などのそれぞれの同じ業界の人々が組織的とも思えるほど密に支援に入っていた。何かしら企業や行政にはそれぞれ、助け合いの全国ネットが日本中に張り巡らされているのかもという思いすらする。 
  私は被災地との向き合い方には、次の三つがありうると思う。

現地へ行って何かを手伝う 例 ボランティア
  自分の住んでいる場所から被災地を応援する 例 物産の購入
  自分の住んでいる地域をイザと言う時に強い地域にしていく。

   そして、三、が欠けたままの支援、それは本当の支援とは言えないではないかとすら私は思う。二回ともバスの中で一番年上の者の義務?でもあろうと「皆さん!皆さんが働いている最中に大災害が起きれば、家に残された家族をどうしますか?!被災地に行くことはもちろん大切です。しかし同時に自分の住んでいる地域をイザと言う時に強い地域にしておくことが大切ではないですか!」と言ってしまった。“災害時には、日頃していないこと・できていないことは、できない”ということを何度も耳にする。たとえば避難場所への移動、たとえば避難場所での見ず知らずの人との共生など。私はここ数年自分の住む町内で有志を誘って自主防災会を創り、いざというときに自分一人では避難できない人々の支援体制というかいざと言う時でも気軽に声を掛けあうことのできる関係づくりを模索している。今後更にこれを進めて行きたいと思っている。 
  次に今年と言えば 九月二十四日に三十km走を完走したことを思い出す。場所は淀川河川敷。何とか四時間十七分程度で走ることができた。私としては予想以上の出来栄えだった。昨年六月末に初遍路を終えて、折角鍛えた?足をこのまま萎えさせるのは勿体ないと“勿体ない精神”を発揮して始めたジョギングがその始まりだった。今年に入って二日おきに一〇キロメートル走るまでになった。三十km完走後、娘婿の助言もあり、今はむしろ走る距離は五kmに落とし、冬に向かって筋トレに力を入れている。来年はぜひ京都か神戸か大阪かどこかでフルマラソンに出たいと思っている。そう言えば陸上部に身を置いたやや肥満に悩む長男も、最近は良く走っているようだ。学生時代陸上部に身を置いていただけに私よりもかなり速い。 
  更に今年は、妻が還暦で、私が古希を迎えた年でもあった。昨年長男・長女の家にそれぞれ初孫が生まれた。長女一家は横浜に、長男一家は六甲に住んでいる。子どものどちらから言うとも無く、富士山の好きな妻を何かの口実で、富士山に誘い、そこへ私と六甲一家がひょっこり顔を出して、“サプライズ”を妻への還暦の祝いにしようというタクラミが子ども達四人の間で出来あがった。私もそのタクラミに一口乗る事となった。まず横浜の長女が、妻に美容院へ行きたいので、子どもの面倒を見に横浜へ来てほしいとか何とか言って新幹線の切符を贈り、妻を横浜へ呼び出し、叔母さんから河口湖にある旅館の宿泊券を貰ったことにして、富士山まで誘い出した。心の中でニヤニヤしながら妻と子どもたちのヤリトリを見ていた私は、妻達が川口湖に行く前日長男の家に泊まり、翌日朝六時頃、長男夫婦・孫と五人で、車で河口湖へと向かった。途中お互い渋滞に会う事も無く長女の旦那が描いてくれたシナリオ通りの時間に河口湖に着いた。妻はワイナリーなどの見学を終えて既に旅館で孫とくつろいでいたその時、突然 私たち大阪組が 部屋へ入って行った。妻の驚いたこと・そして喜んだこと。また企画した子どもたちも大喜び。もちろん私も大満足。到着当日は、雲のために見えなかった富士山も、子ども達のタクラミへの褒美でも与えてくれるかのように、雨との天気予報に反して、二日目は、次第に晴れとなりナマの富士山を、お風呂から・部屋から・湖から・山から・勿論車の中からと色々なところから、全員それぞれに存分に楽しむことができた。子どもたちのお陰で、全てが成功裏に運んだ。感謝!感謝!である。 
  さて標題に「“お前なんか何でもない”の実践法  ―“平行四辺形”の術 ―」とか、書いてしまったので、最後に、少しその意味することに触れてみたい。 
  “お前なんか何でもない”というのも随分の逆説だと思う。本当は“お前こそが問題の全てだ”と言うべきであろう。頭の中で描いているお前は、本当のお前ではないのだ、自分の思いには自分の外にあるように映る“相手・この場”こそが、実は本当のお前なんだという気づきをこの言葉は、求めているのだと思う。 
  そう意味では 東北ボランティアは、そういう気づき体験そのもののような旅であった。
  行く前に災害ボランティア五つの心得とかいうものが配られた。その中には、“決して無理はするな”、“自分のことは自分で守れ”、“現地では、みだりに被災状況を問うな”などの心得が書かれてあり、そのなんと一番最初に、“あなたは、主役ではない”と書かれてあった。実は、「よし役に立ってやるぞ!」と意気込んでいたこの私は、それを目にして、まるで水をかけられたようなショックに陥った。しかし少し考えてみると被災地ボランティアとは自分のしたいことをするために行くのではなく、相手がして欲しいことをしに行くことであることは、直ぐ頭で理解できた、更に ボランティア活動をし出すと今度は体でそれが分かった。東北でも新宮でもしたことと言えば眼の前のヘドロの“ひとかき”であった。“ボランティアとはヘドロひとかきと覚えたり”というのが、被災地支援を終えての私の総括的感想であるが、そこには“自分”のカケラは、殆ど見当たらなかった。つまり“お前なんか何ともなでもなかった”。 
  平行四辺形的思考ともいうべき考えを以前に聞いたことがある。それは言わば議論における心得のようなものとして説かれていた。相手の意見を聞いて、反射的にすぐに自分の意見を言うのではなく、相手の意見と自分の意見を二辺とした平行四辺形を思い描き、頭の中で二辺の間に対角線を引いてみよ、そしてその対角線的な意見を出していくように努めなさいとかいうものであった。すると自分の意見だけを必要以上に主張することなく、かつ相手とも自分とも違うベクトルの意見が産まれ、かつ線の長さも相手の長さや自分の長さをも超え、言わば自他がアォフヘ―ベンされた意見が産まれる・・・というものであった。 
  今年の三つ目の出来ごととして還暦と古希のお祝いの旅行をあげた。本当の主役は昨年産まれた孫たちであったが、孫たちの生誕にあたっては、おじいちゃんとしては、孫が母親のおなかのなかにいる間じゅう、随分と気をもまされた。しかし いくら気をもんでも、母親と産まれてくるであろう子どもたちの生命力をただ信じ・祈る以外に、私には、何もできることはなかった。このことを十月十日の間私は骨身に浸みて痛感させられ続けた。これは妻も、四人の子ども達も同じだったに違いない。産まれてくる孫たちも、全てを生命の働きに身を任せたまま産まれてきたに違いない。生命の生誕にあたっては、祖父母はもちろん、親も、当の本人の母親や子どもですら、誰一人、またいつの時点をとっても、そこには、“自分”というものが顔を見せる余地はなかったと言えるのではないだろうか。あったのは、生命の働きだけではなかったろうか!それこそが、私は、平行四辺形における“対角線”だと言いたい。産まれてから一・二歳までは、孫たちは、平行四辺形で言えば、対角線そのものだったのです。そして次第に智慧のついてきた孫たちつまり対角線は、頭の中で、自分と他人という2つの辺を創りだしていく。そして 最初は点線であった平行四辺形の二つの辺が、次第に実践に変わり、そして最初は実線であったはずの対角線が、逆に点線になっていく。そして ついにはその対角線は、本人にすら感じられなくなってしまう。本人は、ただ二つの辺しか意識できなくなってしまう・・・。親も含め世の全ての人は、これを、物ごころが付いたと称し、成長と名付けて手を打って喜ぶ。生きて行くためには必要な過程とは思いながら、まるで アダムとイブがエデンの園を追われている姿を成長と言って称賛しているような、実に皮肉極まりない印象も禁じ得ない・・・。しかししかしである、眼を見張るような孫たちの日々の成長ぶりには、やはり何故か体の底から何やら感動が湧いてくるのも禁じえない。 
  坐禅とは、“忘れてしまった対角線を思い出す行為”ではないかと私は思う。 
  昨年行った歩き遍路も、確かに私の父が書き遺したように、歩禅ともいうべきものであり、遍路も対角線発見の行為であったと私は思う。二番目の今年の出来ごとして、三十km完走ということを書いたが、ジョギングやマラソンは、歩き遍路を歩禅というなら、走禅とでもいうべきものだと私は、受け取りたい。 
  “見渡す限り自己であ自己が、見渡す限り自己である”ように生きるのは、私のようなものには、ほぼ不可能に近いが、相手そしてこここの場を一辺とし、そして自分の思いをもう一辺とした平行四辺形を頭に描き、そこへ仮に対角線を引いてみるくらいの努力は、自分でも何とかできるような気がしないでもない・・・・。 
  たとえ肉眼では見えなくとも、対角線を引いてみようとする一時を、これからは、少しでも多く持てるように努めていきたい。  以 上

 PS:
   余談ではありますが、孫たちの生誕と日々の成長振りを見ていて、親・祖父母を通して、生命誕生以来連綿と受けつがれてきたDNAが、私の体の中で、確かに躍動しているような感覚をかなり確かに感じるようになりました・・・。
   これって、“対角線”の正体? それとも単なる“妄想”?


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