流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


石原勝年


 安泰寺での二週間の修行から帰って以降、毎日早朝一時間、自宅で坐禅をしています。週一回、都内のお寺の坐禅会にも参加しています。そのお寺の入り口には、大きな看板があり、「莫妄想」と書かれています。そんなことを言われても、色々な思いがどんどん浮かんできます。「浮かんできたものはさっと流せ」と言われたことがあります。さっと流しても、また他の思いが浮かんできます。
 『普勧坐禅儀』には「非思量」と書いてあります。何も思わない! おお、何と難しいことか。どうしたらいいんだ?「ひたすら姿勢のことを考える」。「呼吸に意識を集中する」。うん、これなら出来そうな気もする。 まあ、そんなこんなで半年、坐禅を続けて参りました。妄想は相変わらずです。でも少しずつですが、思う量は減っているような気がします。時々増えることもあります。ごくたまにですが、とても役に立つ閃(ひらめ)きもあったりします。 また、つい一週間前ですが、こんな体験もしました。座る直前から、何か厳かな気分です。敬虔というのかな。坐禅中もその意識は変わらず、体がふわーっと温かくなり、何かを思うでもなく、自然に顔に笑みが浮かび、そして、いつしか時間になりました。うん、この感じいいなあ~。澤木老師のいう「憩い」につながるのかなぁ? しかし、それ以後、二度とそういう感じになりません。なろうと思っても駄目です。坐禅は毎日違います。 最近妻に言われます。「あなた、毎日坐禅をしているけど、なんにも変らないわね」。そうかなぁ、確かにそうだなぁ。というわけで、六か月間坐禅をしてきて、これといった“成果”はありません。依然として妄想は湧いてくるし、ましてや仏の気持ちなんてとんでもないです。でも、毎朝四時には目が覚め、自然に坐禅の準備に入ります。旅先でも、自宅に泊まり客がいてもそうです。そうしないと、私の一日が始まらないのです。どうして? よく分かりません。坐禅は不思議です。


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