流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


佐藤誠心


怒らず笑わず悲しまず。真理にかなって生き死にするなら、それ以上のことはありません。 

真理にかなって、というのは偽りなく、ということと同じです。
このようなものとして与えられた自然物として、偽りなく生き死にする、ということです。 

偽りなき生き死にというのは、形成されたもの、即ち私たちにあっては、自分以上のものでも自分以下のものでもあろうとしない態度を指します。 

私たちはもともと、自分以上のものでも自分以下のものでもあることはできません。何ももたずに生れて来て、何ももたずに去って行きます。始めからゼロです。増すことも減らすことも出来ないようなゼロです。ゼロなのに、妄想を抱いてゼロ以上のものであろうとする、ゼロ以下のものであろうとする。

ゼロというのは、存在していることです。存在は増すことも減らすこともできません。妄想が、増減した気持ちを引き起こすだけです。私たちはこうやって存在している以上のものではありません。

だから、己の大きさを見誤らないようにせよ、というのが、私の抱くべき第一の格律です。 

たとえ人々からどんなに軽蔑され、恥を晒し続けようとも、愚劣な人間は己が愚劣さを離れて生き死にすることはできません。また、軽蔑されても彼から何かが減ることもありません。私たちはそこで、心のうちに、また声に出して、嘆くべきではありません。黙って、愚劣に生きていくのみです。 

私たちが人生と自分に対する妄想を離れて生き死にしようとするなら、変滅すべき私たちに許された生き方、死に方は、沈黙と行いのほかはありません。私たちには存在に何かを増減する力を与えられていないからです。何があっても、黙って暮らしていくだけです。死にゆく親をみて、死にゆく友をみて、死にゆく自分をみて、私たちに何ができるでしょう。

死にゆく彼らにも、自分にも、私たちは何も付け加えてやることはできません。死なせるほかはありません。だから、沈黙と行いは私の抱くべき、実践上の第二の格律です。

沈黙というのは、身体においても、心においても、言葉においても実践されなければなりません。バタバタしたり、心に思ったり、口に出したりしない、ということです。もの言うことは妄想に属することだからです。 

行いというのは、言葉の中で暮らすことをやめて、身をもって生活することです。私たちは妄想を別にすれば、ただ生活するように作られているだけです。

行いは、私たちがそのようにつくられているように生活することをさし、沈黙はそれ以上のおしゃべりごと、妄想ごとを抱かない態度をさします。したがって純然たる行いにあっては、常にそこに沈黙があり、沈黙のあるところには行い以上のことはありません。それ故、両者は不可分であり、二つあわせて第二の格律を表します。 

沈黙と行いの歩みにおいて、私たちは偽りなき生き死にを歩むことが出来ます。しかしそこにおいて私たちは純粋であり、切実でなければなりません。私たちの心は生活をはなれて、偽りとごまかしを好むからです。それ故、第三の格律は弱くあれ、ということです。弱いものこそ、一層切実だからです。 

私たち形成されたものは、その本性において、弱くあります。形成されたものは変滅するからです。弱くあれ、とはそのもともとの弱さにおいて、妄想するな、ということです。弱いものが、私たちのように心をもつとき、その心は切実になります。心は破滅を恐れ、強くありたいと願うものだからです。 

破滅を恐れるもの、強くあろうと願うものが、変わることなき己が弱さを知るとき、この願い、妄想は打ち砕かれ、そこに静かな諦めが生じます。切実な心は、静かな諦めと共なるものです。 

第四の格律は、愚かであれ、ということです。愚かであってこそ、純粋でいられるからです。私たちは知恵を好みます。賢いものは尊敬されます。しかし、知によって、老病死がいささかでもなくなることはありません。存在が増減することはありません。

かえって知恵によって偽りが生じます。己が優れているという妄想が増し、知によって何かを得たという妄想にとらわれ、己の見解に対する執着が増します。このような妄想によって、私たちは純朴さを失います。

弱さと同じく、私たちは本性的に、愚かづけられています。存在は思量以前のものであり、その意味で単純であり、無邪気だからです。もともと単純である己れを、知と思量の妄想でそれ以上のものであると見ようとするとき、私たちは己が単純さ、無邪気さを見失います。しかし実は私たちは一歩も賢くなっていないのです。 

沈黙と行い、切実と純朴の生き死にを歩みゆくなら、私たちは独りでなければなりません。人々のあいだにはもの言うこと、妄想ごとが支配しているからです。それ故、孤独が第五の格律です。孤独によって、ほかすべての格律もはじめて実現されることができます。 

老病死のところは必ず独りです。生き死には独りの事柄です。誰も私の老病死を助けず、誰も私に代わって生き死にしてくれる人はありません。偽りなき生き死にを歩むなら、私たちは独りでなければなりません。


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