流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


柏陽一郎


 まずは、無方様とご家族の皆様、そして安泰寺の皆様にお礼を述べなければなりません。震災から半年を過ぎて、無方様はご家族を伴って自家用車で兵庫からこちら岩手に来てくれたのです。途中の新潟では、車に故障が発生したためレンタカーに変えてまで被災地のお見舞いに奔走して頂きました。お菓子はもとより、安泰寺において栽培したカボチャやジャガイモなどは、とても美味しくて仮設住宅に持っていくと、友人たちが、みんな喜んでいました。ありがとうございました。(三月十一日からの一歩)

 東日本大震災による大津波によって、自宅が全壊し全て流された。大船渡市の中心部に有った七二坪の土地は、八ヶ月に向かう今では瓦礫の撤去も終わり、広大な焼け野原のような中に有る。そこに立つと何十人もの近所の人たちが、一瞬にして命を落としたことや津波の前に町内会で、彼らと川掃除やら五年に一度のお祭りを楽しんだことを思い出す。今年の五月三日がお祭りに予定されていて、練習に励んでいた。あの日、三月十一日、午後二時四十六分、陸前高田の本屋で私用を済ませ、二階に上がったところで巨大地震に見舞われた。激しい揺れによって本棚が倒れるほどだった。通常なら時間と共に揺れが収まるのだが、揺れの程度が違った。時間と共に揺れが強くなっていくような異常な状態だった。大津波が来る。母は地震の揺れが収まるやいなや隣の友人とすぐさま高台を目指した。私もガスを切ってから携帯ラジオだけを持って車で高速道路の下にある山の高台を目指した。そこからは、自宅も含めた市内広域を見渡せる。この地域では、津波対策として別々にとにかく逃げるという「てんでんこ」が昔から徹底している。全てを失ったけれども生きることができたのは、この考えが染み付いていたからだ。日頃の訓練によって避難場所が特定されているので、母と隣のおばさんが避難所にいたことを確認した上で、さらに高台にある高速道路下まで辿り着いた。すでに何人かの人が息を潜めて海を見つめていた。そのほとんどが漁業関係者で、強烈な引き波を見て津波を即断したということだった。この時点では海岸の変化が顕著には確認できなかった。ただ市役所の避難勧告は頻繁に聞こえていた。チリ津波を経験した人は直ぐ逃げたか逃げる準備をしたはずだが、今回はチリ津波と決定的に異なる事態が発生していた。それは、ラジオなどメディアが津浪の第一波を三十センチと伝えた時から始まった。チリ津波が第一波が全ての破壊活動だったのに対して、今回は第二波からが誰もが考えられないほどの巨大津波になっていった。市役所は第二波、第三波に大きい波が来ることを喚起して懸命にアナウンスをしたのだが、ラジオや多分テレビなどによって第一波が三十センチほどだったという報道を見聞きした人の中には残念なことに逃げなかったか、あるいは逃げても戻った人もいたのではないだろうか。実際、第一波の報道が有ってから第二波までは、少し間があった。山から見ると第二波、第三波の波はきわめて高く、ほとんどの建物は強い引き波と共に倒壊していった。太平洋セメント工場の近くに一万トンクラスの大型タンカーが停泊していたのだが、必死に沖に出ようとしても何度も押し戻されていた。見ていた限りでは六回波が来た。自宅は第二波で傾き、第三波のあと完全に視界から消えた。死を覚悟したのは、大津波が来ている最中にも立っていられない程の余震が何度も続いた時だ。目の前の悲惨な光景と激しい余震が相まって自らの時が止まったように思え、いよいよ人生の、この世の終わりが来たと覚悟を決めた。後に、マグニチュード九、千年に一度の大災害とわかり、生きていられたことに奇跡を感じた。大船渡市では、およそ四百五十人の死者、行方不明者。陸前高田市では千九百人近くの死者、行方不明者。一瞬にして親戚も知人もいなくなってしまった。大船渡は、市街地から五分ほど歩けば高台につながるのだが陸前高田は、海沿いの美しい高田松原から広がる町並みが数キロにも及び、とりわけ高齢者は歩いて逃げることがほとんど不可能だった。押し寄せた大津波も、まるで山が移動していくような状況だったそうだが、おそらくは山のようになった波が下りの激しいスピードの中で射流という超高速に変化して倒れるはずの無い鉄筋コンクリートを破壊し尽くしたのだろう。それにしても陸前高田市は美しい松を一本を残して実に四万本を失い、市街地が完全に消滅してしまった。なんということだろうか。ところで、ここには玉山金山の跡地が残されている。平泉の金色堂は、この地方から産出された金によって装飾された。マルコポーロが黄金の国ジパングと言って探していたのは、実は平泉だという。しかし、陸前高田市が壊滅してしまった後に、平泉が世界遺産の認定をうけたことは本当に喜ばしいことなのかどうか、被災地に足を運ぶ度に、きまって何とも複雑な思いが残る。

 今、大船渡市と陸前高田市は懸命に復旧、復興に取り組んでいる。大船渡市はとりわけ中心地の瓦礫撤去が全国からのボランティアや土木、建設業者の効率的な仕事によって七割方完了し、付近に仮設の店舗が出来はじめている。人の表情に少しずつだけれども喜びと強い意志が見られる。これからは、国に任せるだけでは無く自分たちで取り組む姿勢を見せ、壊滅した陸前高田も一緒になって立て直そうという動きが出てくるに違いない。終わりに、全国各地から来て最も困難な現場で作業した消防隊員の方々が「惨状パニック」で苦しんでいるという報道が新聞にあったことを特筆したい。「死臭のひどい現場での仕事」は、さぞかし苦しかったろう。しかし、誰も立ち入れない場所で、非常に尊い仕事に懸命に従事したわけだから、そこで働いた記憶は、いつの日か貴重な経験として心に残り続け、後の人に伝える役目を持つようになるものと考えたい。私も震災後言いようのない不安と苦痛が身体に宿るようになり随分悩んだけれども、悩んだ分、時間が経つにつれて、そういったものと同居できるようになってきている。新しい環境が時間と融合しながら、大震災の経験との間に、一歩ずつ歩み出せる「すきま」を作ってくれているからかもしれない。被災地で今も善意の活動を続けている皆様に感謝をしながら、この辺で筆を置きたい。


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