流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


安宅由紀


 安泰寺でも年月の移り変わりを生き物の生態に感じるくらい、変化があるのですね。
 都会で暮らす人間が多いということ自体が、病気であるように感じることがあります。都会で暮らす人間には、多くのことがわかりません。しかもわからないことに気づきません。無知の知などそこには無いのです。震災後、正直落ち込むことばかりです。震災前は原発反対と言ってもまだ、ときには忘れて気晴らしすることができたようなものです。震災後は周囲の無関心さを目の当たりにしたとき、言葉も感情も失う気がします。人間はどこまで無関心、近視眼的になれるものなのだろうか。えらそうに言えば自分に返ってくるので、普段は我慢してます。日本は何も言わないにこしたことのない社会です。 
 何かそこにあるのか、偶然数日前に気づきました。子どもを預かってもらっていたお母さんが「楽しければいいと思う」趣旨のことを言ったときです。そうだそこだった、と気づきました。「楽しければいい」のが問題なのではありません。「楽しければいい」の示す意味だろう。仏教でもたしか、正しいことは楽なことだとだれかが言ったはずだ。苦しいことが正しいのではない。そうそう、でも「楽しければいい」という「楽しい」が何か。「苦しみがない」という状態なのか。苦しみをどうなくしたのか。 
 楽の反対は苦ではないか。「楽しければいい」というときに、では「苦しみはどこにいったか」答えられるのか。人の苦しみを簡単に、わかるはずがないけれど、苦しみが無いかのごとくに「楽しければいい」というのは、偽善ではなくて無知だと感じる。そういう自分も無明の中にあるのだが、無明より暗い世界を見ているように思うときがあるのは、錯覚か。
 悩みだけが続くにちがいない。抜け出せるわけがない。それでも矛盾を生きるということを仏教の先人は示している。だから、どこかに行けば楽になるということもない。生きること、今日の自分明日の自分しか答えがない。


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