流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


東影大地


 松山は俳人、正岡子規の出身地で、今でも俳句が盛んな所です。十数年前から「俳句甲子園」が開催され、全国の高校の俳句部が松山に集まり、五人一チームで戦い、それぞれの句を、お互いに批評し討論して、それを俳句の専門家が勝敗を判定します。今年は東京の開成高校が優勝しました。私の次女、喜子も出場した、松山東高校は準決勝で開成高校と対戦し、審査員で有名な俳人の高野ムツオさんが、「俳句甲子園史上に残る好ゲーム」と評した激闘の末、三対二で惜敗しました。
 今年の最優秀句は、神奈川県立厚木東高校の管・千華子さんの
「未来もう来ているのかも蝸牛」
という句でした。普通は、未来のために、今は苦しくても、一所懸命がんばるのだと考えてしまいますが、実は、もう今、努力している所に未来が実現している、今ここに生き生きとした人生が実現している、というふうに私は受け止めました。
 これは、私達の坐禅修行にも言える事だと思います。私も坐禅を始めた頃は、悟りを我が物にしたい。偉い人になりたい、と思って坐禅していました。坐禅中に、これが天地一杯なんだろうかと、探し求めたり考えたりした事もありました。「只管打坐」「修証一如」「無所得の坐禅」「坐禅しても何にもならぬ」というものを知識としては知っているのですが、やはり坐禅に何かを期待してしまっていました。
 しかし、いくら坐禅しても、いっこうに何ともなくて、何も変わった事は、ありませんでした。けれども、続けているうちに、坐禅が習慣になってしまい、坐禅しないと何となく落ちつかなくなり、毎日坐禅するのが当たり前になってしまいました。そうしているうちに、とうとう坐禅を始めて四十年、出家してから三十年になってしまいました。この間、少しずつではありますが、悟りを求めたり、迷いや妄念を追い払うような心が薄らいできました。じたばたするのが面倒臭くなってきて、「ただ坐る」というのが身についてきたように思います。いくらやっても目に見える効果がないので、だんだんと効果を求める心が少なくなってきたのではないかと思います。
 巷では「考えない生き方」という本が売れているようです。しかし、「考えない」のが良くて、「考える」のはいけないと、簡単に二つに割り切れるものではないし、我々は、いつも考えたり、判断したり、選択したりして生きているのですから、考えない生活などできるわけがありません。もちろん、自分自分と思いつめたり、あらぬ妄想を拡大していって、どうにもならなくなるよな事は避けたいものです。けれども坐禅中に湧き上がってくる思いは、自然現象であって、生きているのだから、頭が働いて、思いが浮かんで来るのは当然の事です。その思いを下手に鎮めようとしたら、追い払うのに余計、忙しくなるだけです。もともと人間の心は、本来、安らかであり、妄想分別といっても実体のあるものではありません。ジタバタしなければ、何も特別な境地に到らなくても、当り前の生活が、天地一杯の人生なのだと思います。
 とは言っても、冒頭の俳句にも「未来もう来ているのかも・・・」とあるように、未来が来ているのか、来ていないのか、自分では分からないと言っていますが、坐禅も同じで、「これが本来の姿だ。」とか、「俺は天地一杯の人生を生きている。」とか、いつも実感できるわけではありません。古人も「不知最も親切」と言っています。
 坐禅の時は、ただもう坐禅だけになってしまっているので、思いも坐禅の中に浮かんで来る実体のないものです。思量も不思量も坐禅の世界の思量、不思量であって、これを非思量と言っているのではないかと思います。非思量といっても何か特別なものではなく、何ともない坐禅、自分の思いの及ばない坐禅、当り前の坐禅の事を言っているのだと思います。「眼の前は壁だけ」の時が良くて、思いが浮かんでいる時は良くない、というのではないと思います。そういう良い悪いの分別の届かないのが坐禅で、父母未生以前だと思います。何とか「壁だけ」になろうとするのも、余計な事で疲れるだけです。
 蝸牛というと、山岡鉄舟の
 「行く先に我が家ありけり蝸牛」 という句を思い出しますが、いつも今ここに安住し、日々の生活を生き生きと過ごしたいものと思っております。
 そして、この当り前の何ともない坐禅は、選ばれた特別な人だけのものではなく、すべての人に開かれた道だと思います。段階のあるものではなく、青原行思大和尚の言われた「無階級の処」であり、「聖諦も亦為さず」という、とんでもない奥行きの深いものであると思います。


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