流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


船見琢磨


 二〇〇一年、母が子宮癌で他界した。その時、私は二十五歳で上京したての会社員で、都会の生活に馴染めず、それらが原因か、精神科に通うようになり、就職半年で辞令が下りた。母の死で百万円ほど自由になり、東京の北端の書籍工場で一ヶ月だけ勤務した後は遊んで暮らした。暇なので漫画を二作描き、講談社に持ち込んだら「もっとちゃんとしたのをお願いします。」と丁重に追い返されたのもいい思い出である。国分寺市で漫画家のアシスタントをしていた幼馴染に「一緒に家賃払ってくれ。」と頼まれ、今度は東京の西端に引っ越した。近所の牛丼屋とあらゆる変人が寝起きする神田のビル警備を兼任し、職場でエロサイトを閲覧していた咎でクビになり、預金を見ればまだ二十万円あった。「そうだ、インドに行こう。」 

 インドではみるみるボられ、ただガンジス河畔で底辺カーストの子供たちと遊び回ったのが楽しかった。ついでに南インドにも行こうと思い、電車の一等席のシャッター時刻に遅れ、仕方がなく連結部で寝ていたら、翌朝には航空券の入ったボストンバッグが丸ごと消えていた。マドラスの日本領事館に駆け込むと、またそういう人か、という感じで「まあ、君の旅はここでゲームオーバーっちゅうことやな。」とにべもなく告げられ、国の父から帰国旅費十万円が送金されるまで、インド洋の海岸に佇んで過ごした。 

 成田から郷里に帰ると、父から「もう禅寺にでも行ってこいよ。」と告げられた。永平寺に電話をすると、「師匠」の紹介がない方はお断りいたしております、と丁重に告げられたので、ネットで「禅寺 修行 関東」で虱潰しに検索した。茨城県に一つだけあったが、「当寺は非常に厳しいので、よほどの覚悟のない方はご遠慮下さい」とのことだったので、遠慮した。2ちゃんねるの「神社 仏閣」板に「禅寺で修行したいのですが…」というスレッドがあり、数百件の書き込みの中に「初心者の方なら、こういうところから始めてみたらどうでしょう」という書き込みとともにURLが貼られており、試しに見てみると田園での稲刈りの写真や、スキンヘッドの白人や、「堂頭」という人が書いた日記などが掲載されていた。こういうところでいろんな人と仲良く頑張るのもいいな、と思い、電話で予約した。 

 学生時代から使っていた家具一切、書籍その他を父の軽トラに満載し、東京を離れた。真夜中、郷里に着いて父の業務用倉庫に二人がかりで封印し、その間何が癪に触ったのか父は急に狂ったように「死んじまえこの蛆虫野郎!」などと怒りだし、色んな意味で疲れきった私は、継母が用意してくれたすき焼きにも手を付けず、妹の部屋で寝てしまった。 

 京都駅で、「浜坂」に行くには「兵庫県」と「岡山県」を突っ切って「鳥取駅」に行きなさい、と教えてもらい、対面席の列車で黄昏の車窓を眺めながら揺られていると、隣のおばさんが話しかけてきた。なんでも、旦那さんが重病で岡山の病院に入院しており、鳥取から定期的にはるばるお見舞いに行ってらっしゃるそうだった。私もはるばる修行に来たんですよ、と告げると、「お兄ちゃん、ビールおごってあげる。」と誘われ、鳥取駅からタクシーを呼んでカウンターバーに連行された。まあ、今夜中には浜坂には着きそうもないので、ジョッキビールと魚料理をご馳走になり、おばさんが早口の関西弁で私のことを紹介してくれたらしく、隣の作業員風のおじさんにも「お、お元気ですか。」と声をかけられた。で、どうしろっていうの、と思っていたら、おばさんが表でまたタクシーを呼び、一万円札と電話番号のメモを手渡して、お店に戻ってしまった。鳥取市内のビジネスホテルで降ろされ、コンビニで買ったビールを空けてテレビも見ずに寝た。 

 雨の中、やっと浜坂に着いた。怖いくらい人気のないところで、無人のバスに乗ると、運転士さんが「あんたいじさんかいな。」と訊くので、「そうです。」と答えた辺りで、田んぼの中のバス停で止まった。「なんか車が止まってるで。」と意味不明なことを言われたので、バスを降りると白いミニバンが止まっていた。ミニバンに近づくと扉が開き、「参禅者」らしい女の子が座っていた。スキンヘッドの白人が運転席にいた。鬱蒼とした山道をどんどん登る中、女の子が尋ねた。「どうして坐禅なんかしようと思ったんですか。」「まあ…ちょっと悩みまして・・・。」「他に悩みを解決する方法とか無かったんですか。」「えー、昔剣道なんかをやっていたんですが、全然」「それやったら、また剣道とかやったらええのと違います?」「・・・それでも、こういうところにでも来ないと、何とかならないような気がしたんで・・・」とそっぽを向いて答えたら、後は全員無言で山頂に着いた。 

 真っ黒い民家に着いた。これがお寺らしい。中に入ると、スキンヘッドがいきなり無言の微笑みで真っ赤な同人誌を差し出した。周囲ではノッポの白人さんたちが永平寺の写真にある洗面所のようなところをガンガン掃除していた。よく分からなかったが、どうやらお前も排水溝の鉄格子を持ち上げてどこが汚れているのか分からない溝を掃除しろ、と言われたので参加した。ある白人さんは片言の日本語ができ、隣の広間は自由に使っていい部屋で、みんなが読書をしたり話をしたりする、と教えられた。掃除が一段落すると、煤だらけの作業服の日本人が近寄ってきて、「明日から接心なんで、食事の作法だけ覚えてください。」と、黒塗りの食器を並べて教え始めた。夕飯をみんなで無言で食べ、その後机を並べ直して仏教の授業を受けた。スキンヘッドが変な日本語でいろいろ喋り、目の前の白人さんが辞書を引きながら「しかし、坐禅中に足が痛くなって我慢ができないのはどうしたらいいでしょう。」などと質問している。解散後、日本人の方に「何か食べたいんですが。」と訊くと、残りのカレーを出してくれて、お互い自己紹介などを交わして話し込んだ。 

 次の朝、まあ足は痛くないわな、と思いながら座布団に座っていたら、いきなり後ろから棒で背筋を真っ直ぐに正された。巨漢の白人が法衣を着て合掌してから隣に座った。怖すぎるので、そのまま固まったまま座り続けた。何時間座ったり歩いたりを繰り返すのか全く分からない。足も痛みだし、寝たり起きたりを繰り返していると、まだ未明の本堂で法衣の白人が、「まだ寝ているというのか!!」とやけに滑舌のはっきりした発音で怒鳴った。もうダメかな、と思った。 

 飯はちゃんと食わせてくれるらしい。ただし、食べたらみんなで食器を洗う。白人さんに「拭いて。」と無言で渡された陶器が手から滑って床に墜落し、まっぷたつに割れた。ひとりの白人さんが無言で床に上がり込み、破片を掃除し始めた。凹んだ。また「坐業」が始まり、もう皿を割った咎で追い出されることしか頭になかった。きっともうお寺のホームページには「タダ飯を食べて皿を割るような人はご遠慮願います。」などと書かれていることだろう。法衣の白人と日本人の森本さんは当然のごとくじっと座っている。坐禅が終わると何かの儀式のように一分に一歩歩くか歩かないかの集団行動をするのは、一種の休み時間なのだろう。座り続けるストレスに耐えられず、鐘が鳴るとさっさとトイレに行き、自由部屋の外で一服した。 

 だんだん頭がおかしくなっていく。頭の中で一人でネットサーフィンを始める。お堂の柱にいろいろセリフを書いてみる。目の前の白壁が局所的に色々と黒ずみ、前衛芸術のような水墨画が出来上がる。猛烈な眠気の中で、だんだん壁が透けて見え、その向こうには梅の木が花を咲かせていた。ついに透視能力を手に入れた、と思うと鐘が鳴り、足を引きずってご飯の部屋に行く。もう何をしているのかさっぱり分からない。左足が日を追うごとに硬直し、ついには前に投げ出した。初日に背中を直されたが、もう老人のように前に曲がり、インドで見た身体障害者の乞食のように、人間のゴミみたいなのが座布団の上で寒さに震えている。もう熟睡していても誰も何も言わない。これが終わったらきっと「坐禅の出来ない方はご遠慮願います。」とかで帰されるのだろう。一セット五回の「坐禅」が一日三セット、それが一週間・・・。無理。それでもご飯はちゃんと出た。 

 最後の坐禅は夜中まで続いた。鐘が鳴っても背後で十分間ほど何やら難しい儀式をしている音がする。この後、こういう類の施設でよくあるように、一升瓶が出てきて一晩中どんちゃん騒ぎをして、と思っていたら、ご飯の部屋で改まって正座し、坐禅リーダーだったらしい法衣の白人が「おつかれさまでした。」とだけ告げた。湯呑みのプリンを食べて、各自就寝。同室だった白人さんが、いつの間にか居なくなっていた。 

 誰にも起こされないので昼ごろまで寝続け、空腹で起きて一階に降りると大昔に母の実家で見たような「かまど」が設えてある。勝手にうどんでも食べて追い出されるまで寝ていよう、と思ったが、火の付け方が分からない。ちょうど例の女の子が赤ちゃんを抱えてやって来た。「分からんの。」「はい。」「これをな。」かまどの中の木の下に、ボール紙を丸めて入れ、「こう。」紙にライターで火をつけると、どんどん燃え移っていった。「お寺燃やさないで。」と言い残すと、去って行った。煤くれた窓からは雪景色が見える。修行者を労わる「大放散」という大休日だったそうだが、「おー坊さん」とは何の事かと、呑気に思案に暮れていた。 

 白人さんはどんどん下山され、結局森本さんと二人きりになった。法衣の白人の坐禅リーダーは「無方さん」という歴とした住職で、女の子は奥さんで、赤ちゃんは娘さんだった。ご飯の部屋にでっかいストーブを設置する作業、雪に埋まった畑から萎びた人参を発掘する作業、息が切れて立てなくなるまで薪を割る作業、お経を唱えてご飯。ある晩、暖房のガンガンに効いた住職部屋に呼ばれて初めて酒が出された頃には、何とかかまどで火を付けて里芋を煮るくらいは日課になっていた。後は図書室で一人で背表紙を眺めるか、森本さんと深夜二時過ぎまで話題を出し合うか、くらいしかすることがなく、地獄を見た「本堂」には近づきたくなかった。 

 大晦日前に奥さんは実家に帰られ、住職も「托鉢に行く」とかで作務衣一丁に帽子という格好で出かけられた。森本さんと鳥取まで行き、ファミレスでご馳走になった。途中、パチンコ屋の前に可愛いアニメ絵の看板が出ていて、初めてオタク掲示板が無性に恋しくなった。後に焚付用の新聞紙にもアニメ美少女が載っているのを発見し、こっそり切り抜いて保存したのだった。無人の山間部で暫く人目を気にせず生活していたせいか、既に対人恐怖気味になっており、浜坂のコンビニですら不審者のようにビクビクしていた。お寺に帰り、ラジオで大晦日放送を聞きながら年を越し、ストーブで日本酒を燗にして朝から一杯。毎朝部屋に入ると森本さんが一人で坐禅をしていたが、私がラジオを付けると不承不承坐蒲から下り、適当な会話をして一日過ごしていた。 

 住職が托鉢から戻られ、「そろそろ朝の坐禅をしよう。」という話になった。午前四時に起き、ストーブに火を入れ、ラジオを聴きながら部屋を徹底的に暖め、五時に「振鈴」を鳴らして修行僧のように駆け回り、三人で坐禅。また、「輪講」という勉強会が始まる。そのために留守の間、達磨大師から中国禅の歴史を経て道元禅師に到るまでの系譜を辿る書物を十冊ほど読んでおくように、という宿題が出ていたのだが、全くやっていなかった。一度だけ三人で第一回の「輪講」を終えると、森本さんは少林寺拳法の師匠に挨拶に行くから、という口実で雪山の中を去っていき、後は住職と二人で朝坐禅、お布施で山のように頂いた餅でお雑煮を作って朝ごはん、午前中に輪講、午後は明日の予習、夕ご飯、就寝という日々を繰り返した。寒さには自信があったが、急に腹を下し始め、輪講中に何度もトイレに立っては下痢をしていると、住職が「これ。」と「陀羅尼助」の袋を差し出した。漢方薬にはただの気休め程度の期待しかしていなかったが、藁にも縋る思いで何粒か飲んでみると、あっという間に猛烈に効き、感動のあまり翌日の午後、剃髪を申し出た。外食堂で住職は嬉しそうに何故か頭頂部から刈り始め、日本史資料集掲載の伝道師ザビエル風の髪型にすると一度デジカメで撮影し、徐ろに残りを刈り始めた。ともあれ、もう寒くても怖くないので、住職と珍しくどうでもいい話題で話し込み、一人で夜更しをして仏教について黙考した。考え詰めたところ、「地球に生物は必要ないのではないか」というすごく変な結論に辿り着き、考え疲れて熟睡したところ、住職が振鈴を鳴らして駆け回る騒音で目が覚めた。 

 「そろそろ接心をしよう。」という話になった。奥さんも戻られており、食事の心配もないらしい。前は一週間だったが、今度は三日間だという。ストーブをいくら焚いても全く暖まらない部屋で、ひたすら時計と睨み合った。寝る。起きる。住職も少し前後に揺れている気がする。経行中にストーブに火を入れ直し、また座り込んで寝る。起きる。餅にカレーがかかったご飯。胡座をかいて寝る。起きる。餅カレー。時計が憎い。これって結局ただの時間勝負なんじゃないのか。百回ほど嫌になったところでようやく終わり、Lサイズの手焼きピザで供養された。住職は接心が終わると本当に嬉しいらしい。奥さんも交えて寛ぎのひとときを過ごし、この分ならもう少しやっていけるんじゃないか、などと淡い期待を抱いて就寝した。 

 小学校の社会科の時間に「太平洋型温暖気候」というお題目をドリルさせられた地域で生まれ育った人間にとっては全く信じられない降雪量の積雪が嘘のように解け出した頃、「托鉢に行こう。」という話になった。訳が分からないまま私にも僧衣が用意され、白バンで一路京阪方面へ。山道が雪で塞がっていると、そのたびにスコップを持って降り、軍隊の最前線兵のように汗だくになって道を作る。奥さんを実家に届けて一息つくと、その日の内に京都市「洛北」の旧安泰寺跡に赴き、修学旅行コースには絶対成り得ないような市街地の中の雑草地帯で草刈りをした。次は大阪府「西成」のホテル「エスカルゴ」にチェックインし、近所の商店街で嘘のような値段で食料を買い込み、コロッケにかける醤油を各部屋で使い回しした際、住職が部屋で相撲の実況に食いついていたのを覚えている。朝早くから天王寺に出張り、何の祭日か人気の多い中でうろ覚えの般若心経をがなっていると、嘘のように通行人が五円、十円、時には百円、と応量器に放り込んでいく。それでも喫煙者には立ちっぱなしがちょっとしんどく、隠れて笠を脱いで一服なんかしていると女性二人連れなんかに発見され、「うん、可愛い可愛い。」などと冷やかされたりもした。東京でも托鉢の人はごく稀に、というか奇跡的な確率で見つけるが、誰かに相手にされたところも見たことがないし、上京者の私ですら関わりたくないとさえ思う。ともあれ、京阪の人から一週間で約一万円相当の小銭を巻き上げ、高島屋前ではターバンを巻いた南方系のサヒーブが合掌して五百円、そんなところを通行人のグラサンのねーちゃんに写メを撮られ、と思っていると「お坊さん、焼肉いけへんかー。」と吉本の下っ端の二人組に連行され、なぜかなけなしの財布の中身と煙草二カートンとすけべビデオ一杯の紙袋をお土産に頂き、昔安泰寺でお世話になったという大施主の社長さんから今度は五万円そっくり頂き、一週間目は「放散」だというので西成の百円ショップでパンツを買い、住職が文化会館で講演をされるというので、それまでかの有名な「道頓堀」やら「日本橋」界隈を探検して時間を潰し、スキンヘッドを晒していると恭しくポン引きが「お、お楽しみはいかがですかー、」などと寄ってきたり、エロ本書店で松本人志のテーマが流れてきたりと、まさしく受験生時代に深夜番組で観たウルフルズの「大阪ストラット」のPVそれそのままを実体験した気がしたものだった。 

 中学生が修行に来られるという。松葉杖を手に、片足を引きずってご両親に見守られながら、晴天の日にやって来た。一緒に池で障子の紙剥がしをしている内に段々打ち解け、始めは関西アクセントだったのが私の話し方が伝染するのか、いつの間にか関東アクセントで流暢に話すようになった。暇になると蔵書の漫画本なんかを読んでいるらしい。 

 同じ頃、ポーランドからダミアン氏が来日された。ドイツの肉体労働者だったそうで、主に住職とドイツ語で熱心に話し合っていた。朝坐禅の時に英語で自己紹介をし、半跏趺坐のままで握手を交わした。更にいかにもアメリカ人、といった佇まいの英語教師のお姉さんもやって来た。夕飯がまだだというので、天ぷらをお出ししたらいきなり箸を付けているので、「この後、ライスと味噌汁が来るのでお待ち下さい。」と急いで注意すると、「はい。」と急いで箸を置いた。昼間は障子の張替えや畑仕事、夜はピスタチオをつまみながら日本語と英語をごっちゃにして夜更しした。中学生はピアノをやっていて、ダミアンにその話をすると、「ショパンはポーランド人だ。」から始まり、東欧諸国の地理と歴史について熱弁を振るい始めた。中学生はいつの間にか足が快癒し、家族と共に朗らかに帰っていった。 

 私と残った二人と住職とリピーター僧侶の方の五人でまた接心が始まり、また寝落ちていると住職が目の前の障子を外し、雨風がモロに吹き込んできた。それでも寝ていたら、リピーターの方に横っ面を張られた。背後でダミアンがウヒヒッと笑う。また寝落ちていると住職が「坐禅、しろ!!」と一喝し、警策で畳を打ち据えた。お姉さんが急に涙半分に駆け出したので、仏像の前を横切って追い掛けようとしたら、「そこを横切るな!!」と住職の怒号が飛んだ。住職が警策を持ち上げた音で目が覚めた。住職の法衣の衣擦れで目が覚めるようになった。ハッ、と起きる度にダミアンが舌打ちをする。リピーターの方は呆れ返って、「こんな滅茶苦茶な接心があるか。」と吐き捨てた。 

 接心後、疲れきってカレーを無造作に食べていると、「ここは禅寺。静かに食べる。」と住職のドスの効いた声がした。お姉さんのすごく嫌な表情が見えた。お姉さんに「まだ泊まっていきますか?」と訊くと、"No, never." とにべもなく答えられた。一方でダミアンが、「聞けよ。」と嬉しそうに笑っている。「お姉さんのメルアドもらっちゃったぜ。」当のお姉さんは早足で廊下を歩いてくる。「川にハマったまま発見されないように。」とそれらしい冗談を言ってみると、「はい。ちゃんと、ちゃああんと気を付けますので。」と言い捨て、その足で典座場から逃げるように帰っていった。 

 その直後にドイツから精神科医だという方が来られた。夕暮れの中、本堂を案内し、「さっき五日接心が終わったばかりで、私どもは消耗しております。あまりお構い出来ませんが御了承を。」と自分でも何かおかしい気がする言い回しで接待すると、「そうですか。」と恐縮されていた。そして住職からは「これから本気で忙しくなるから、冬に勉強した分、明日までにレポート書いちゃって。」と言い渡され、新客の隣の部屋で徹夜で原稿用紙に文字を書いたり消したりした。次の朝、事情が分からないまま、さらに隣の部屋に引っ越すよう言い渡された。 

 その頃はもう春の盛りで、山の上の桜を見に行く話になった。水の鍋、カレーの鍋、きんぴら、焼酎、などをトラックに積み上げ、とんでもない悪路を揺られて山の上に着き、巨大な切り株などを積み上げて火を焚き、「花見」が始まった。お箸を忘れ、階段状の畑を一気に駆け下りて寺まで走って取りに戻るような芸当も容易かった。住職、ダミアン、新客の三人でドイツ語で色々話している。一人で日が暮れるまで焼酎を空け、久しぶりにいい気分で部屋に帰った。さっさと寝ようと布団に潜ると、なぜか先客がいる。部屋を引っ越したのを忘れていた。翌朝、朝ごはんの後、一人で皿を洗っていると、ダミアンと新客が部屋で何か深刻そうに話し合っている。いきなりダミアンが近づいてきて、私の首根っこを掴み、外食堂の外まで半ば暴力的に連れ出した。「酒を飲むな。煙草も吸うな。さもなければ、」と言うとプロレスラーのような拳を振り、私の顔面で寸止めした。私から手を離すと、引き戸を開けてそのまま中へ戻ろうとする。「引き戸を閉めないでくれ。」とジェスチャーで伝え、洗い場に戻った。近くで住職が無言で掃き掃除をしているのが見えた。 

 一遍そういうことがあると後はナメられる一方だ。生まれて初めて「シャイセフラウ」やら「醜いチビ猿」などという罵言を聞いた。ちょっと体が触れただけで突き飛ばされ、「バカにするんじゃねえ!バカにするんじゃねえ!!」とこっちが言いたいようなセリフを吐く。食事の作法も、扉を静かに閉める作法も、私とはまるで逆の事をするようになった。一方で、今度は「古参の」オーストラリア人、そしてまたドイツ人、と言う風に、明らかに肩身が狭くなっていく。学生時代の得意科目は語学でシェークスピアとグリム童話とフローベールを原書で読んでいてアメリカ人講師と毎週ディスカッションしてました、だから何。ミーティングで住職が「船見君には『知庫』をやってもらおうか。」などと告げられた日には全員が大爆笑である。新客の若者などは「チコ、チコ、アーッハッハ!」とこれ見よがしにいつまでもゲラゲラ笑っている。料理番の『典座』はオーストラリア人に、風呂場の床塗りの実績のあるダミアンは『直歳』に指名され、「煙草を吸う奴は日影の奥に引っ込んでろ。」という空気とともに、「いつまで居るのかな、こいつ。」という空気も漂っていた。気がする。 

 そんな状況下で、「輪講をやろう。」という話になった。千年前の日本語の仏教書を現代欧米人に、もちろん英語で解説せよというのである。予習もそこそこ、台本なし。結局本番では、とりあえず思いつく英単語を適当な前置詞で繋いでは発音するという前衛詩のパフォーマンスになり、痺れを切らしたダミアンが途中から猿真似的に雄勁なドイツ語の演説で割って入って場を独占し、それに対して住職が恐らく「船見君だってそれなりに頑張っているのに、そういうお前の態度が僧堂の空気を乱している。迷惑千万なり。」的な弁護と弾劾で反論、ダミアンは熱冷めやらず「船見、知ってるか?女とやると悟りを開いたようにいい気持ちなんだぞ。」と唐突な話題を振り、船見は知らなかったので「おお、それは初耳ですね。」と買い言葉、精神科医が眼鏡を直しながら失笑、結局全員正座のままで青い目の住職がジャイアンだかダミアンだか分からなくなった青い目の巨漢に長々と説教を垂れてお開きとなった。そしてなぜか、次の日からは誰も典座場で無駄口を叩かなくなり、精神科医に「私の英語、皆さんに通じてますか?」などと女々しい質問をしても、「大丈夫。ちゃんと分かるよ。」などと穏やかな答えが返ってくるなど、少し状況が楽になった。気がする。 

 大阪から会社員の二人組が「プチ修行」に来られたので、二日ばかり日陰の奥で煙草の相手になってもらい、また暫くして今度はドイツ文学教授を退官されたばかりだという「先生」が老体に大荷物を担いで上山された。当然日・独のバイリンガルである先生は坐禅歴も長く、またかつての京都大学で昭和の儒者、故吉川幸次郎博士の講義に出席された生き証人でもあった。老後の慰めにしては安泰寺で三年安居し、その後別の僧堂でさらに修行、などという熱の入れようだったが、いつ去られたのかは分からない。年の功と資金が豊富で、炎天下の作務も典座当番も淡々とこなし、放散の日などには「ちょっと一杯やりたいなぁ。」などと仰っては私に一万円札をそっと渡されたりしたものだった。一方で私はとにかく「冬からずっと居るのだから」という名目で典座場の掃除が疎かだと言っては頭ごなしに怒鳴られ、胡瓜の苗を踏み荒らしては山々に木霊する宇宙いっぱいの大音声で「バカアアア!!!」と怒鳴られ、ダミアンとかには今度は「猿」とか「トルコ人」より更に遠まわしの態度で軽蔑され、そんなある日、住職から「私にはもう君をどうしていいか分からない。ここは宿泊施設でも精神病院でもないのだから、いい加減しっかりして欲しい。」と半ば絶望したような表情で告げられた。自分でも、もう潮時なんじゃないのかな、という気がしていた。 

 予感は的中する。寒さも和らいだ頃、また接心かよ、だから無理だっつってんだろ、などと際限なく一服しながら不遜な思いでほぼ投げやりに構えていると、なんか凄く裕福そうなおじさんたちが大勢上山されてきた。先生なんかは「よう来たかー。」などと気さくに知り合いらしい方と同窓会的に打ち解けていらっしゃる。ちょうど放散だったので、「いい酒を買ってきなさい。」と万札を握らされ、自転車で酒屋のお使いに行き、剣菱の一升瓶と鯛の刺身のビニール袋をぶら下げて帰途を疾走しているとトラックの荷台に乗り込んだイベント設営らしいあんちゃん達が「なんや若いのもおるやんけ、おーい」などと手を振ってくるのをガン無視し、山の中腹でへばっているところを通りすがりの車に発泡酒を満載した裕福な方に救って頂き、日が暮れる頃に汗ダルマになって帰還。夕餉の後のミーティングでは緊張のあまり「では堂頭、明日の作務は何でしょうか。」とお尋ねし、「は?大丈夫?」と尋ねられ、何がいけなかったのか咄嗟に思いつかない程錯乱していた。先生には「剣菱はなあ、混ぜもん入っとるぞ。」などと酒の席で指摘を受け、一方で知らないおじさんたちからは「若いのに偉いねえ、お兄ちゃん。大変でしょう。」などと労われ、「でも修行じゃなくても他にもやることあるんじゃないのかな。」などとも見透かされ、ここぞとばかりに泥酔して受け答えをしている内に弾みで刺身の乗った大皿を落として割り、それでも飲んでダミアンもちょっと飲んで、どういう経緯でお開きになったのか全く覚えておらず、起きると朝の九時だった。馬鹿やってんじゃないよ。 

 手っ取り早く荷造りを終え、泥のような二日酔いで自室で一服していると、階段を上ってくる足音がして、法衣の住職が襖を開けた。「帰るの、これから一緒に座るの。」二択か、と思うと、急に涙腺が開いた。「お世話になりました。」と蚊の鳴くような声で答えると、「なら日記とか借りた本とかちゃんと片付けてって。」「はい。」ガンバリ、と呟くと、階段を戻られていった。 

 晴天の下、山の川辺に腰掛けて谷川を見つめ、農家のおばちゃんのトラックでバス停まで送ってもらい、鳥取まで電車の中で盛大に寝こけ、深夜バスチケットを買ってから国分寺に電話した。「お寺辞めちゃって、ちょっと泊めて欲しいんだけどさ。」「狭いよ。」「いいよ。ありがとう。」鳥取博物館では丁度「水木しげる展」がやっていたのでカウンターに荷物を預けて閉館時間まで時間を潰し、余程私が妖怪関係者に見えるのか、カメラマンが寄ってきてシャッターを切った。 

 私が出たことで、前の二DK九万円のマンションは家賃が払えなくなり、消費者金融からウン十万円借りて六畳間の単身者アパートに高校中退の若者と二人で住んでいた。そこに私が転がり込んだことで三人暮らしになり、私はキッチン台の前でゴミに埋もれて寝ることを許された。とりあえず三人で居酒屋チェーンに入り、私の奢りで飲んだ。「で、禅の教えだと、酒も本気で、自分が酒瓶になったつもりで飲むんだよね。」「マジっすか、気合入ってますねー。」「そう、気合で。」などとやってる内に、私も底が見えたようで、明らかに私の財布から数千円抜かれたりしていた。駅前のマクドナルドで夜間清掃員をやり、店長が開口一番「どこの田舎から出てきましたか。」などと訊くので、正直に「兵庫県です。」などと答え、東北弁の強い読書家の青年とコンビを組んで朝まで無人の店内を走り回った。閉店間際になるとそこいら中で屯している夜更かし高校生を追い出さなくてはならない。幸い五分ほどに伸びてきた坊主頭と禅寺でいじめ抜かれた悲愴な表情が物を言うらしく、「おつとめ、ご苦労さんです。」などという声を返されたりした。さらに、近所のスーパーの八百屋部門のアルバイトにも応募し、雇ってもらったのはいいが、「こんな暗い奴と働きたくないよ。」という従業員の声が大きく、すぐに行くのをやめた。近所の図書館で沢木興道の「渓声山色」を借り、同居人が訪ねてきた友人に「こんな変な奴と関わってないでさ、ちゃんと働いて彼女でも見つければいいじゃん。」などと窘められている横で玄関のライトで読み耽った。お悟りが開けると全ての音声は釈尊の説法に聞こえ、世界は輝いて見えるらしい。あと、私は髪型がダサくて顔が怖いらしい。逃げ出してから二ヶ月後。キッチンの前で毛布に座って坐禅をしていると、「もう一度、今度はもう少し計画的に参加してみてはどうだろう。」という案が閃いた。 

 マツモトキヨシでダンボールをもらい、スーパーやドンキホーテで買った生鮮食品とビールを久斗山に送り、その代わりと言ってはなんですが、的に再度参加希望の趣意を添付した。秋葉原で買った携帯に奥さんから「自分でよく考えて、その上で好きにするように、とのこと。」とのメールを頂いた。マクドナルドには「実家に帰るので。」と告げ、同居人は困惑していた。あとは盲滅法にバスと電車を乗り継ぎ、観光タクシーで山道を登り切ると、なんかドイツ人が増えていて、相変わらず天まで届くような焚き火を囲んでパーティーの最中だった。ダミアンは私の真似をして行方不明になったとかで、別のポーランド国籍の「大道」という雲水が掛錫していた。住職がひそかに「あの宇宙人」などと陰口で呼ぶような怪異な風貌をしていたが、英語も日本語もずいぶん堪能で、オーストラリア人の典座長に取り入るように接近していた。 

 始めの頃こそ「ずいぶん変な奴が物知り顔に寺中を歩き回って偉そうにしている」という印象だったらしいが、今度は比較的穏やかに意思疎通が出来るようになった。夏の盛りで、浜坂の海岸に遊びに行き、下手糞なフリスビーを延々夕方まで投げ続けた。トイレから出ると、地元の女性二人連れがずいぶん純朴そうな顔ではにかみながらこっちを見ているので、なんかこっちがキュンとしてしまったのはいい思い出である。作務では水道管の大工事が行われていて、住職が水道管を誤って破壊してしまったとかで、池に浸かって凹んでおられるらしく、奥さんが付き添われて「なんや船見も二ヶ月て。」などと当て付けめいた声が聞こえる中、風鈴の音を聞きながら一人優雅に午睡に耽っていた。ちなみに冬の間に雪の重みで広間から典座場にかけての屋根瓦が瓦解しており、使っていない尼僧宅から瓦を移植する作業なども炎天下でやっていたが、全くの試行錯誤だったようで、先が見えないままただ汗だくで奮闘している気がした。 

 「カトリック主体で禅思想も取り入れた新興宗教」を信望するイタリア人団体客が夏の太陽を浴びて上山してきた。と思うと、いきなり寺の内外のあらゆる水道を使ってジャブジャブ洗濯を始め、庭中が色とりどりの洗濯物で埋め尽くされた。ボーイスカウト・キャンプのように飯台を幾重にも並べ、住職が英語で司会を務め、それを宗教団体の長がイタリア語で同時通訳。私は「一回逃げた人」とだけ紹介を頂き、接待パーティーの後には作務衣を着たおっさんが「いや、実は俺も一回接心に寝坊してさ、そんときの心境といったらこうだったね。」と言って厳かに切腹のジェスチャーをされた。早朝、同室の先生の目覚ましが鳴ると隣室のイタリア人が薄い壁をぶっ叩き、本堂ではずいぶん値の張りそうな洋酒の瓶がお供えされた仏陀の見守る中、敬虔なローマの民がぐるっと円状に鎮座してただひたすらに証果を求めていると、直堂が鐘を鳴らす数分前に誰かの多機能腕時計がピピッ、ピピッ、と時を知らせ、掃除になるとシニョーラだかシニョリーナだか分からないおばさんが雑巾を持って立ち上がり、派手に梵鐘に頭を激突して気絶するでもなく陽気に泣き笑い。段々畑では会話を絶やさずにどんどんフォーク状の鍬で成長しきって枯れた雑草の束を巻き取ってはトラックに積み込み、遠くで一人で奮闘している若者に「おーい、若いの、そこはもういいからこっちに混ざれや!!」などと百年前からここで百姓をしているような声で呼びかけ、などとしているうちに三日ほどがあっという間に過ぎた。キャンプファイヤー・お別れ会。ししゃものお布施があり、劫火に飛び込んでは焼いて、焼けたらまた飛び込んで配り、「生焼けだな。」などというクレームに対処しているうちに日が暮れて、「若者」と通じてるんだか通じてないんだか分からない英会話で盛り上がり、翌朝、お調子者のおっさんに頼まれて記念撮影にこき使われ、食後に皿洗いなんかをしていると、お調子者がカメラを持って上がり込んできて、典座場中のローマの民に提案した。「紳士淑女よ、先刻茶色い(シャツの)お猿さんがやってくれたごとく、我々も撮影大会と行こうではないか!」喪服のばあさんから昨夜の若者までがひとしきり爆笑し、若者やら、大道やらが「こいつ早く泣かないかな」的な満面の笑みで私のしかめっ面を覗き込む。仲良く撮影大会をして彼らは夏の太陽を浴びて帰っていった。疲れた。大道も疲れていて、もうぶっきらぼうな英語でしか話さない。「Grassはどこに捨てるんだ」と訊くので、草ならあっちだね、と段々畑を指差すと、「なんでそんなところに捨てるんだ。」と苛ついている。よく聞くと "glass" だった。酒瓶やら漬物瓶の破片やらその他ガラクタを谷間に投げ捨て終わり、「うるさい人たちだったね。」と同意を求めると、「そうだ、うるせえ奴らだった。」と夏の空に吐き捨てた。 

 もはや差別主義者そのものと化したオーストラリア人が輪講をした。「この『差別』について述べている文章の感想だが、」と一息置いて、「例えばタクシードライバーがいたとする。白人、黒人、そして日本人のドライバーだ。私ならまず白人のドライバーを優先し、それでなければ黒人のドライバー、日本人のドライバーは最も敬遠させてもらう。差別させてもらう。」と、嫌味にもならない率直な感想を述べた。かのノイシュヴァンシュタイン城のお膝下から来日したという、普段は少女のように謙虚なイケメンドイツ人が、静かに「差別する者は逆に差別されている。」と言い放った。彼は毎晩のように電話料金箱に数百円放り込んでは国元の彼女と長時間話し込んでいた。先生が「ああいう男やからこそ、それに見合ったええ人が見つかるんやろうなぁ。」などと独りごちた。 

 「アトピー性皮膚炎」の「アトピー」というのは、「所構わず」という意味のギリシア語に由来する。要するに原因不明ということだが、ある日突然、およそ十年間にわたり発症していなかった持病のアトピー性皮膚炎があれよあれよという間に発症し、もはや修行者というよりは完全な病人になってしまった。住職がネットで浜坂町内の皮膚科を見つけてくれ、保険の効かない状態で受診、薬をもらい、風呂上りに跋陀婆羅菩薩の御前で膏薬を体中に塗りたくっていると嫌味なオーストラリア人が背後から人の股間を覗き込んで意味不明の嘲笑を浴びせかけ、一方私は放散のたびに人を避けて汗だくになって浜坂の海岸まで自転車を飛ばし、スーパーでお昼を買って海を眺めて過ごすようになった。ある日父から手紙が届き、「いつまでそんなところにお世話になっているのか知らないが、死んだお母さんの遺産を引き出すためにお前の印鑑証明が要る。手を尽くして取得するよう。」という内容だった。国分寺に手紙を送り、市役所で船見拓摩名義で掛け合ってもらうよう富士山を超えて尽力したが、何かダメだった。まあ、もうすぐ二ヶ月だし。 

 最後の接心。気づけば末単の末端に座らされ、大道の横でもはや寝るでも無く起きるでも無くほぼ放心状態で胡座をかいていた。「足が痛いときは、尻と踵の間に坐蒲を挟んで正座をすると良い。」と言う、もっと早く教えて欲しかった豆知識を活用し、大道と私で坐蒲をひっきりなしに挟んだり外したりしていると、住職が「いい加減にしろ!!」と一喝された。接心後、参禅者の間で「あの時住職はなんと仰ったのか。」という疑問の声が挙がったが、どうやら先生がそれをドイツ語に訳し、それを英語のできるドイツ人が "enough of that!!" と公用語に訳して解決したらしく、一方で私は「しいて訳すなら "ambiguity!!" だが、それを住職のお怒りと関連付けるためには…。」などと呑気に思案していた。 

 もう立派な「浜坂っ子」になった私は、自分のお別れパーティーのための酒類を自分で自転車で買いに行った。焼酎、米だけのお酒、海の幸などを買ってフランス人参禅者の前でワインのコルクを飛ばすと、「何事だ!!」とらしくもなくビビっていた。住職が笑顔で「もう来ないで。」と告げられた。翌朝、いつもの「ビルマ式座法」でおつとめを終え、掃除だけして帰った。何でも本堂前の紫陽花を刈り取った跡に石庭を作るのだとかで、みんな泥まみれで砂利を運んでいた。アメリカ人のねえちゃんが「何そのシャツの変な英語。」とだけ冷やかし気味に言い残し、オーストラリア人の尽力もあって何とかいろいろ満載のボストンバッグのジッパーを閉じ、典座場前で休憩する大比丘衆に別れを告げて山門から立ち去ろうとしたところで、住職に挨拶をしにまた戻り、「じゃ、帰りますんで。」「はいはい。」といったところで、本当に帰った。バス停からクロネコヤマトの職員に「乗ってきや。」と乗せてもらったところが、かなり中途半端なところで降ろされ、田舎道を歩いて駅まで。浜坂のコンビニでは容器に好きなだけカレーを盛って五百円。人心地付いたところで、今度こそ逃げるように東京に帰った。 

 国分寺のアパートに深夜、合鍵で侵入すると、「久保っち」が気づく。「またよろしくな。」と小声で伝え、「六万の家賃を三人で折半して一人二万円、働かざるもの出て行くべし。」という条件に沿うため、吉祥寺の肉体労働者派遣事務所、いわゆる「人入れ屋」に登録した。東京中のオフィス移転、イベント設営、建築現場に従事。しかし、遅刻が多く、すぐに飼い殺し状態に。「金は無ければ借りるもの。」と教えられ、消費者金融にも登録し、百円ショップで買ったうどんを茹でては素で頂き、炬燵に潜ってアニメDVDを見ながら死にそうに暮らしていた。そんなところへ、父が「もうさっさと帰ってこい。」と迎えに来て、借金は帳消し、代わりに精神障害者の集いに毎日参加すること。というか、鳥取のビジネスホテルから初上山して以来、それまで一錠も安定剤を飲んでいなかった。東京の精神科に父が殴り込み、診断書を書かせて目出度く障害者三級。懐かしの郷里を自転車で散策し、後は暗い部屋で顔が膨れるほど寝たきりで過ごし、二ヶ月経った。父いわく、「お前みたいのと暮らしているとこっちが病気になる。もうどっかへ消え失せろ。」また東京の国分寺。吉祥寺の事務所で「せっかく仕事あげたのにドタキャンして、二ヶ月してまたやってくるってどういう事?」それでもなんとか月に十万くらいは稼がせて頂き、ある日年金事務所指定の口座を覗くと、二〇〇一年に通院開始からの分の障害者年金が二百万振り込まれていた。次月には母の定期預金が解約されて五十万。「あいつは『被害者』だな。」などと陰口を叩かれながらも東京中を駆け廻って筋トレ業を続けたが、いつしか面倒になって行かなくなった。気がつくと、三十歳になっていた。


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