安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2008年 初秋 (7・8月号)

仏教とは何か



 仏教とはいうまでもなく、仏の教えです。歴史的に見た場合、その仏というのは2500前、インドで菩提樹の木の本で足を組んで坐って悟られた釈尊のことです。ですから、まず2500年前の釈尊の説法が元で、それが様々な形でアジアの全域に伝わり、様々な方向に展開されたのが今の仏教です。仏教は一つでありながら、南方(主にスリーランカ、ミャンマー、タイ)にはテラヴァーダといわれる戒律を重視した出家者中心の仏教があり、チベット辺りにはチベット仏教といわれる密教があり、中国には大乗仏教に含まれる天台宗、華厳宗やそこから発達した禅宗と浄土宗が生まれます。今や中国や韓国には浄土宗のいくつかの要素が入り交じった禅宗しか残っていませんが、特に日本ではたくさんの宗派が新しくでき、今日まで続いています。それぞれの宗派が説く教えはそれぞれ微妙に(あるいは大幅に)違い、一概して「仏教はこういうことを説いている」とはなかなか言えないものですが、それでも「仏の教え」といわれるものを少し整理してみたいと思います。

 まず言えるのは、「仏の教え」とは単なる「仏(釈尊)からの教え」ではなく、「仏になるための手立て・方法」でもあるということです。だれが「仏になる」のかというと、結局のところ、いまここで生きている私たち現代人でなければなりません。つまり自分自身が仏になることが昔からの仏教眼目であり、それは今日も代わりがありません。逆にいえば、自分が仏にならない限り、仏教はどこにもないということです。

 「自分が仏にならなければ」という仏教の原点は今の日本ではあまり理解されていないようです。人間の真上におかれている「仏さん」を拝み、その功徳が自分に降り注がれ、「仏さん」に守られたり現世利益に預かったりすることを仏教と思われていることが多いようです。しかし、そういった考えは、むしろ神道やキリスト教の考えに近く、仏教とは根本的に違います。釈尊もそうであったように、仏教でいう「仏」は生身の人間です。神様ではありません。無論、死人でもありません。ところが、今の日本で「仏さん」という時、須弥壇(しゅみだん)の上に置かれている仏像を指していなければ、だいたい死人を指しています。しかし、これはナンセンスです。死んだら仏になれるという教えは仏教のどこにも見あたりませんので、死人を「ホトケ」とよぶ悪い習慣は絶対辞めるべきです。仏教の歴史を見ても、死んで仏になった人は一人もおりません。

 さて、仏とは何を意味しているのでしょうか。「仏」とはサンスクリット語で「ブッダ」といい、その意味は「目が覚めた人」です。目を覚ますのは勿論、生きている間であり、死んでからでは遅いのです。仏教が自分が目を覚ますための方法を教えていますから、生き生きした教えでなければなりません。ただ、この教えが自分の生き方となって、日常の実践とならない限り、一生の間「目を覚ます」ということはないでしょう。釈尊ご自身が「ワシが死んでも、ワシの葬式はバラモン(ヒンズー教の聖職者)たちに任せ、各自が各々の修行に専念すべきだ」といっていたほど、個人の日常の実践を重視していたのです。死後のことは元々仏教でテーマにされていません。当然、葬式も仏教の行事とは思われていなくて、むしろヒンズー教の行事とされていました。ところが、今の日本ではその非仏教的なもの(葬式仏教)が仏教の主流になってしまったのです。そしていきいきとした仏教の実践はどこにもないのです。「今のお寺に仏教がない」といわれるのは、そのためです。悪いのは仏教を説かないお坊さんのはいうまでもないですが、お寺に本物の仏教を期待しない一般人もまた悪いです。お坊さんが答えてくれないなら、自分自身で本物の仏教を追い求めるべきです。ただ、そこで注意したいのは、「本物の仏教」をセールス・フレーズのように使っている新興宗教の詐欺師に引っかからないことです。

 しかし、本物の仏教に出会うのは21世紀の現在でも可能ですし、そのために遠い国まで旅をする必要もありません。自分自身の求め方次第、今この日本でも道が開けてくるはずです。

 私がはるばるドイツから日本に来た理由はまさにそれです。本物の仏教を学びに来たのです。しばらく京都大学で学んでから、縁があって今いる安泰寺に入門することになったのです。僧侶になってまだそれほど長くないころでした。寺の連中と一緒に街の家々を托鉢して回りました。その一軒で断りました、「うちにはホトケがいない」と。托鉢で深く頭を下げてお布施を鉢の中に入れてくださる方もいれば、こうして断る方も珍しくありませんが、当時は「ホトケがいない」とはどういうことか、全く理解できませんでした。その家では誰も目を覚ましていないから、お金をくれないというのでしょうか?もちろんそうではなく、その家はたぶん分家であり、まだ誰も亡くなっておらず、仏壇もなかったでしょう。お坊さんのお世話になっているのは死んだ人だから、仏壇がなければお寺にお布施をする必要もない、ということだったのでしょう。しかし、托鉢とは仏壇のありなしと関係がありません。僧侶が自分の修行生活を支えるために托鉢をし、在家の方々がそれに協力するのが「お布施」です。本来、お金ではなく食べ物でも字の如く「布(着るもの)」でも、何でもよかったです。仏壇があるからといって、会費を納めてもらうのは托鉢ではありません。

 「仏教の修行をしに日本に来たのだ」というと、不思議そうにいわれることがあります、「しかし、ドイツにはお寺がないでしょう?国に帰ったら、どうやって食べていけるの?」。まるで仏教の修行が一つの職業訓練であるかのように。しかし私は仏教で生活の糧を得ようと思って仏道に入ったわけではありません。実際に安泰寺の住職になるまで、まさか将来お寺を任せられると思ったこともありません。ホームレスでもやりながら、あるいはアルバイトをしつつ、小さな坐禅道場を持とう位しか考えていませんでした。また別の人がいうかもしれません、「それなら無宗教な日本ではなく、タイ辺りで修行したらどう?」。しかし、私の視点から見れば、日本の仏教はまだそこまで落ちていません。たしかに、「日本仏教」といわれる現象の99%は仏教とは無関係かもしれませんが、釈尊の本流も細々ながらちゃんと伝わっております。それと出会えるか出会えないのか本人の求道のいかんによるものです。

 仏教は生き方であり、死人を相手に商売することではありません。修行はこの生き方の実践であって、プロのお坊さんになるための修業(職業訓練)ではありません。そして仏とはあの世の遠い存在ではなく、私たち自身の目標でなければなりません。仏に向かって日常生活を歩むことこそ修行であり、その他には仏教がありません。
 私自身がどうやって仏教に出合い、仏教に魅せられたかを次回から書きたいと思います。その後は私が理解している仏教の教理を簡単に説明します。それから修行と一般にいわれる修業の違い、仏教と生活の関係、どうして今の仏教が葬式仏教になってしまったのか、仏教と死後の世界等々、色々な問題に脚光を当てたいと思います。

(ネルケ無方)

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