安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2008年 9・10月号

「苦」からの出発

16歳の無方


 釈尊はインドの北部にあった小さな王国の王子として生まれたそうです。何の不自由もなく育てられました。欲しいものは全て彼の手に入っていたはずです。結婚もし、長男ももうけました。あまりいわれませんが、妻の他に妾も何人かいました。ところが、彼が後に唱えた教えの原点は「苦」の体験です。どうして「苦」が釈尊にとって問題になったのでしょうか。そのキッカケとなったのは、現代風にいえば「ドライブ」です。伝説によれば、釈尊はある日馬車に乗って都を出たそうです。そして東の門を出たところ、老人を目にしました。今まで若くて綺麗な人ばかりに囲まれていた彼は、大変びっくりし、初めて「老い」のことを考え、自分自身もいずれ年を取るのだと言うことを悟りました。別に日には、釈尊は南の門を出てドライブをしようとしたところ、病人に出くわします。病人を見たのも初めての体験だったらしいです。「病」とは何か、自分もいつまでも健康でいられるのではなく、同じように病んでしまう日がいずれか来るのであろう、と言う様々な思いが彼を襲います。そしてまた別の機会で西の門を出ましたが、今度はそこに死体が捨ててありました。釈尊は初めて「死」に直面します。そして死もまた、他人事ではなく、いずれは自分のみにもふりかかって出来事だと知ります。最終的には北の門を出て、そこで修行に励む行者に会います。「修行」という、彼がそれまで送っていた生活とは180度違う生き方を初めて知り、今まで創造もしなかった問題意識を持つようになります。そして釈尊も後ほど出家の道を選び、自ら修行に励むことになります。

 ここでまず注目すべきは、釈尊が体験した「苦」とは一般日本語でいわれる「苦しみ」や「苦難」といささか違うという点です。釈尊の生活は決して苦しいものではなく、むしろ極楽だったはずです。彼が気付いたのは、ただ、自分が手に入れていたものはいずれ手放さなければならない、ということです。つまり、自分の人生は自分の思うようにならないのです。そして、それが分かったときには、釈尊は大きな物足りなさを体験したはずです。その物足りなさを彼が「苦」と表現し、彼の出家の動機になります。

 「苦」という言葉が敬遠され、ホテルやアパートに「4」や「9」という数字すら見あたらないことの多い日本と違い、釈尊は自分の「 苦」と「死」を敢えて直視しようとしたのです。はて、彼が到達した結論は何だったのでしょうか。これを考える前には、まず私自身の話がしたいと思います。私がどうしてはるばるドイツから日本に来たのか、どうして頭を丸め僧侶となったのか、どうして今一ヶ寺の住職をしているのか、その経緯について書いてみたいと思います。それは、私の今までの人生が人より興味深いものがあるだからのではありません。むしろ逆に、私の人生にも、誰の人生にも、釈尊の体験と同じような体験があるはずです。皆はそれぞれかけがえのない人生を送っていますが、誰しも「苦」と直面し、いずれは「死」とも7直面しなければならないと言う意味では、人間は皆共通している体験を持っているはずです。「苦」の話を他人事で終わらせないため、釈尊の体験を私自身に引きつけなければなりません。私の場合、どうして「苦」が問題になってきたかを話してみたいと思います。

 私が初めて生と死の問題を突きつけられたのは7歳の時でした。病院のベッドのわきに立っていた私と2人の妹の前で母は寝間着を捲り上げ、手術のあと乳房が取られてしまった胸を私たち子供に見せてくれたことが未だに脳裏に焼き付いています。生前医者だった母は我が子にも現実の厳しさを見せようとしていたのです。母がガンで亡くなったのは、それから数週間あとのことでした。37歳でした。私はちょうど夏休みを叔母の家で過ごしていましたが、「お母さんはもう帰ってこない」という時の寂しさよりも、「あなたはまだ小さいから、お葬式には出なくていい」という大人達に対する憤慨が強かったように記憶しています。

 母が亡くなるまで、私たち家族は母の実家で暮らしていました。祖父は牧師でしたので、家は教会でした。教会ですから「神様」の話をよく耳にしましたが、「神様って一体どこにいるの?」「どうして見ることはできないの?」「どうして直接に話は聞けないの?」といった、キリスト教圏で育った子供なら誰でもいつか問うような疑問を私もいち早くも聞くようになりました。それに対して、「あなたはまだ小さいから分からない。大きくなったら分かる」としか大人達は答えてくれませんでした。騙されている気にしかなれず、「そんな教会なんてつまらない!」と失望していました。

 母はガンが発覚するまで、ずっと病院で働いていましたので、もともと母の温もりを感じたり甘えたりできる機会は少なかったように記憶しています。母が亡くなった後は一人で過ごす時間がさらに増えました。学校から帰って来て、自分の部屋で過ごした時間の長いこと・・・。自分の殻に籠もり、考え事ばかりに更けっていました。そのうち自然に「人間って一体何のために生きているのだろうか?皆がんばって勉強しなさいというのだが、それは将来いい就職ができるようにという。そして就職したら、いっしょうけんめい働く。仕事が楽しくて働くのではなく、お金を稼ぐために働くらしい。なぜ金を稼がなければならないかというと、メシを食うために金を稼がなければならないという。そしたら、なぜメシを食わなければならないかというと、生きるためであると。しかし、死んだら同じではないか?そもそも生きる意味は何なんだろう?どうして生きらなければならないのか」といった大疑問に辿り着きました。そして同時に「私の頭の中には絶えず色々な考えが堂々巡りしている。この考えはどこから来ているのだろうか?考えているのは私自身だから、考えの出所は『私』のはず・・・ところが、この『私』は一体なにものか。頭の中の一々の考えを捕まえることはできても、考えている『私』そのものを捕まえることができないのは、一体なぜ?」という哲学的な難題にもぶつかりました。小学校3年生の頃です。

 これらの疑問を父親に聞くと「それは学校の先生に聞いてみたら」と言われましたし、学校の先生にもやはり「もう少し大きくなって、上の学校に進んでからそういうことが学べる」と言われました。結局「あなたはまだ小さい過ぎるから分からない」という大人たちだって、本当は分かっていないんじゃないかと薄らと感じました。当然、神様の居場所すら教えてくれない牧師や神父にこれらの問いをぶつけようという思いすら起こりませんでした。かといって、自分の頭の中でいくら考えても、結局は何も分かりませんでした。「私とは何か?生きる意味は何か?」・・・大人が分からないのだから、子供に分かるはずもありません。

 私の子供時代は暗くて退屈なものでした。今の日本で言えば、引きこもりに近い生活でしたが、退屈からの唯一の解放だった学校へ行くのはある程度楽しかったものです。しかし、そのうち学校もつまらなくなり、授業の邪魔ばかりしてしまいました。成績だけは悪くありませんでしたので、学校側から「ここじゃ、キミは面白いはずがないから、特別なところに行ってみないか」という話になり、実家から遠く離れた寮制の高校に行くことになりました。

 16才の時、私はその寮制の高校に入学することになりました。そこにはたまたま坐禅の好きな先生が「禅メディテーション・サークル」を開いていました。先生は元もとカトリックの神父でしたが、やはり神の存在が疑問になり、その疑問を明言し破門になってしまいました。その後、東洋の色々な瞑想法を試したあげく、禅に辿り着きました。寮の指導員として働きながら、寮生達に坐禅を教えていたのです。入学して間もない頃「坐禅サークルに参加してみないか」という声は私にも掛かってきましたが、当時は「瞑想」といえばインドのスリーラジニシというグルのイメージしか浮かんできませんでした。彼は一年365日、毎回新しいロールス・ロイスに乗りたいと言って、弟子達に膨大なお布施を要求することなどで悪名高き存在でしたので、私は決して「禅メディテーション」なるものと関わりたくありませんでした。ですから、「坐禅には興味がありません」ときっぱり断ったのです。

 なのに、一週間後再び同じ誘いがありました。「一度くらい坐禅を試してみないか」と。これやはりヤバイと思って、「ボクは結構です」といいましたが、先生にいわれました、「一度もやってみないで、どうして興味がない・結構だ、といえるのか。一度やった上でないと、本当にいいものか悪いものか、分からないじゃないか」と。なるほど、こう言われれば理屈ではなかなか反論できない。一回だけでは洗脳されないだろうと思いましたので、一度だけ参加にしました。その後やめればいいと思っていましたので。ところが、一回だけでは済まなかったのです。

 一回でやめるつもりで始めた坐禅に私がどうしてハマってしまったのでしょうか。それは一言でいえば、坐禅に救われた思いがしたからです。それまで見いだせなかった人生に対する疑問の解決・生きる方針がそこにあったからです。しかし、そう気づいたのはしばらく後のことで、最初に体験したのは「身体の発見」です。16才になるまで、私はずっと頭の中でしか生きていませんでした。「何のために生きる?私って何なんのか?」、こういった自問を頭の中で繰り返しながら、暗い日々を送っていました。生きることに対する疑問の解決が頭の中の思いから生み出されるのではなく、頭の手放し、身体を発見し、世界全体へ自分を投げ出すことにあることは、当時思いもよりませんでした。

 16才の私はこう決め込んでいました。「私というものは思いの主観であり、世界を見る目のようなものだ。神経を使って身体を動かし世界に働きかけているのだ。世界の中には私のような主観が他にも多数散らばっている(あるいは、彼らは実は存在せず、「私」の想像に過ぎないかもしれない)。主観は身体という道具を使って、他者とのコミュニケーションという道具と使ってしか、生存競争に勝つことはできない。身体にはそれ以上でもそれ以下でも価値はない。他者は基本的には敵であるが、この敵をうまい具合に見方に回し、何とかして勝ち残ることが肝心だ・・・」

 父親にも、学校の先生にもよくいわれました、「オマエの身体の姿勢は悪い」。その時、私はこう反論しました、「話を聞いて、いい成績を取っておれば、それでいいじゃないか。首を垂らしていようが、机の下で寝転がっていようが、どうでもいいじゃないか」と。しかし、坐禅して初めて分かったことは、姿勢が変われば、私の見ている世界も変わってき、私自身が変わってくるということです。つまり「私=頭の中の主観」ではなく、「私=身体の一部分」という気づきです。身体の姿勢も、呼吸も、心臓の動きも、皆が私に影響を及ぼしているだけではなく、身体がそのまま私だといってもよいかもしれません。そしてこの私が「身体」という道具を通して世界と繋がっているというより、世界全体が私の身体であり、私と世界を切り離すことができないという発見もしました。自分の殻からの出口をやっと見つけた気がしました。

 自分の殻からの出口は現実への入り口でもありました。自分の人生を自分で歩もう、と初めて思ったのはその頃です。勿論、「苦」から解放されたわけではありません。本当の苦難はそこから始まったのです。

(ネルケ無方)

<<< 前号 目次 次号 >>>


Switch to English Switch to Spanish Switch to French Switch to German Switch to Italian Switch to Polish Switch to Dutch Switch to Russian