安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2008年 11・12月号

坐禅との出合い

16歳の無方


身体の発見

 坐禅との出会いは、長い間忘れていた「からだ」の発見から始まりました。「私が身体を持っている」というより「この身体が私」という気づきです。
 当時参加していた坐禅サークルのメンバーは私の寮の先輩や同輩15人ほどでした。週に何回か夕方で坐禅が行われましたが、坐ったあと、先生に必ず感想を聞かれました。「今日はどうだったか。自分を見つめることができたか」先生はよく「まなか」という表現を使い、坐禅はこの「まなか」に立ち返ることだ言っていましたから、「今日は自分のまなかを見つけたか」とも聞いたりしました。そして、私は毎回「まだ見つけていません。どこが自分のまなかということすら、全く分かりません。すみません」と答えざるをえませんでした。他の生徒達はと言いますと、「自分のまなかに美しい花畑を見つけ、それを歩きました」とか「自分のまなかに黄金の振り子が静かに振っていたので、それをじっと眺めました」とか、素晴らしい経験をしていたようですが、私だけそういった経験はありませんでした。しかし、自分のからだを感じ取るという気持ちよさがあって、それで通い続けました。

先生に告げられて

 そして、一年経ったある日。先生は私の部屋に来て、椅子に坐りました。「ボクはもうここでの仕事を辞めようと思うのだ。問題はサークルをどうするかということだが、キミはあとをやってくれないかな」。私は耳を疑っていました。15人のメンバーのうち、「まなか」もなにも得ていないのは私だけです。どうしてこの私が頼まれるのでしょうか。先生に自分の不適切さを訴えましたが、「キミはきっと大丈夫だ」と、ゆずりません。先生がやれというのですから、やるしかないと思いました。先生が寮を去ったあとには、私が責任者としてサークルの部屋の準備をしたり、時間をはかったり、皆が坐禅がしやすいように努めましたが、自身はありませんでした。なにしろ、坐禅とは一体何をすることか、未だ分からないのですから。
 その時はじめて禅について色々な本を読むようになりました。欧米では古くから鈴木大拙の本をはじめ、禅の本がたくさんあります。ドイツ人の書いた「弓と禅」という本も1948年から広く読まれています。本で初めて「悟り」などという言葉を知って、「これなら私がずっと探していた答かもしれない、悟れば人生の意味も分かってくるはずだ」と思うようになりました。ですから、最初の純粋な坐禅が本を読むことによって、悟るための手段いすぎない坐禅に落ちてしまいました。高校を卒業するまで、私は必死にこの「サトリ」を追いかける思いで坐禅をしました。

悟りへの妄念

 高校を卒業して、直接に日本に渡り禅僧になるべきか、まず大学を経てから日本の寺に入門すべきか、しばらく悩みました。ドイツでは小学校に入学してから高校を卒業するまで13年間かかります。日本やアメリカより一年間長いですから、高校を卒業した時点ではもうすでに19才です。徴兵制がありますから、そのあとは二年弱の軍隊訓練があり、大学も日本でいう普通の卒業(アメリカのB.A.)がなく、いったん入学すれば修士課程を得るまで卒業できません。ですから、30才前後まで大学に残る学生も決して珍しくありません。が、私にはそんな時間がないと思いました。すぐにでも日本に渡って、禅僧になりたかったのです。
 親にも友達にも「やめた方がいい」と忠告されましたが、聞く耳はありません。ただ、私を最初に坐禅に誘ってくれた先生に相談したら言われました。
「先ず世間で就職ができるような資格を取った方がいい。世間で通用しないからと言って、仏門に入る人が多すぎるから。」  生きていくためにはいずれ就職しなければならないというごく当たり前の思いはそれまでの私の頭を横切ることすらありませんでした。先生がいわれたのは就職ができず仕方なく寺でいそうろうしている人もいるが、オマエは社会に戻っても生活できるようにせよ、ということでした。そういわれていた私はびっくり仰天しました。一般社会で生活ができない人が仕方なく禅寺でイソウロウ!?私が想像していた「禅寺」はむしろエリート的な、一般社会をはるかに越えた世界でした。そこで修行している禅僧達は俗人の分からないことをすべて見通すスーパーマンのようなものではないですか。禅が分かればすべてが可能なはずですから、なんで今から生きていくための就職を心配しなければならないのか、理想に燃えていた青年には何も分かりませんでした。がしかし、先生に「やっぱり少し待った方がいい、先ず大学に行け」と言われたましたので、大学への進学を選びました。
 今から思うと、もし当時19歳だった私がすぐに日本で師匠を捜し、弟子入れでもしていれば、誰に出会い、どこで出家していたか分かりません。大学で日本語をおぼえ、道元禅師をはじめ禅の原点も多少なり勉強してから禅僧になった方が良かったかもしれません。19歳の私に、日本の仏教がどれほど堕落し、デタラメな禅僧がどれほど多いかは想像もできなかったのですから。

最初の来日

 ドイツの高校の卒業は6月ですが、大学は4月と10月とどちらでも入学できます。当時は西ベルリンに住んでいれば、軍隊に行かなくても済みましたので、まずベルリンで下宿を見つけて住所を移しました。それから秋までの三ヶ月間を日本で過ごして、少しでも日本の文化に触れて、禅の心に学びたいと思いました。行った先は栃木県でのホームステーでした。ところが、私を受け入れてくれた宇都宮市のSさんのお宅は、熱心なキリスト教の信者でした。若かった私が日本に「禅の心」を託して、大いに期待していたと同じように、Sさん達もまたキリスト教の「本場」からきた私に期待していたようです。彼らに教会に連れてもらい、ミサの後には心配そうに聞かれました。「どうですか、日本のキリスト教は?ドイツと同じですか、それとも違いますか?ドイツの方はやはりしっかりしています?」。私には答えようがありませんでした。おそらくドイツよりも日本のクリスチャンがしっかりしているとも思えましたが、そもそもは私はキリスト教にうんざりして日本に来ていましたので、日本のキリスト教ではなく、日本の禅が知りたかったのです。しかし、「お寺に行きたい、坐禅がしたい」と頼んでも、今度はSさんが「そんなものはつまらないよ、坐禅なんかしなくてもいい。あなたの国のキリスト教の方は優れている」と聡そうとしていました。また、日本文化なら何でも知りたいと思っていた私が、尺八や琴の音楽を聴きたいというと、Sさんはとうとう我慢できなくなったのか、ベートーベンのレコードをかけて「若い者よ、これこそ本当の音楽だ、黙って聞き入りなさい!」と起こります。お互い、がっかりしていたようです。

高かった期待と大きかった失望

 仏教に無関心だったのは、Sさんだけではありませんでした。若い日本人に仏教のことを聞いても、大概は「知らない、興味ない」というだけでした。「おかしいな、ここは『禅の国』、金閣寺や銀閣寺の建つ日本ではないか」と思いましたが、誰も取り合ってくれません。坐禅のできるお寺を探しても、なかなか見つかりません。大きな段ボールにマジックペンで「KYOTO」と書いて、二日間かかってヒッチハイクして京都まで行きました。こここそ本当の日本の文化、禅が見つかるはずだと思って。しかし龍泉庵という一か寺だけで坐禅ができました。他のお寺は檀家寺として硬く門を閉めていたか、観光寺として入場料を取って石庭を案内してくれたかです。本当の仏教は、禅はどこかに隠れているのではないかと思いましたが、私の目にはそれがまだ見えませんでした。それでもなお、「本物」がきっと日本のどこかに、山の奥にでも潜んでいると確信しました。ですから日本語をしっかりと身につけてから再挑戦しようという思いを胸にドイツに帰りました。

せっかく日本に生まれて

 なぜ日本人は仏教に無関心だろうか。当時は不思議でなりませんでしたが、今から思えば、分かるような気もします。日本の仏教は西洋のキリスト教と同じくらい、あるいはそれ以上に堕落しているからです。お坊さんはもはや一般の人に仏教を広める聖職ではなく、単にお寺の管理人兼葬式法要を執り行うサービス業に成り下がってしまいました。ですから、若い日本人が既成仏教に救いを求めないのも、不思議でも何でもなく、あたりまえのことです。それは、若い日本人が自分の生き方に悩み苦しんでいないからではなく、お坊さんが悩み苦しみを超えた生き方を提唱しないからです。実際、私と同じような悩みを抱えた日本人は多くいると思います。「どう生きたらよいか、分からない。なんのための人生か?そもそも、自分とは……」頭の中ではそう悩みながら、自分の身体を忘れてしまっています。とくにインターネットや携帯電話の普及により、自分のアタマと親指一本しか使わなくなった日本人も多くないでしょうか。
 しかし宗教家も教育家も生き方どころか、身体の大事さすら教えてくれません。ドイツに生まれてきた私はたまたま日本の禅との縁ができて、人生の方向が決まりました。私が仏教に救われたといってもいいと思いますが、せっかく仏教国の日本で生まれてきた青年達はどうして仏教との縁がないのでしょうか。

タオ自然学

 秋にはドイツに戻って、ベルリン自由大学に入学しました。大学では当初、物理学、哲学と日本学を勉強しました。日本学はいうまでもなく、日本語を覚え、あらためて日本に行けるために専攻したのですが、仏教を理解するためには哲学も勉強した方がよいと思いました。なにしろ、「自分とは、人生とは?」といった問いを扱っているのが本来哲学の分野ですから。そして物理学を選んだ理由には、「タオ自然学」という本の影響が挙げられます。その「現代物理学の先端から<東洋の世紀>がはじまる」という主張が代表的です。素粒子もこの大宇宙も、中国の老荘思想やら仏教やらと同じ法則に従って動いているのではないか、といわれていた時代でした。考えの浅い私もこの流行に乗り、現代物理学と東洋思想の類似性を追求しようと思いました。
「物理学の道を進んでも、哲学の道を進んでも、あるいは坐禅しても、最終的には同じ<悟り>が得られるのでは?それなら、この三本の道を同時に進行し、新しい世紀をこのオレが創造し、できれば将来ノーベル賞も取ろう!」
 と、元々数式も物理も好きだった私は狂喜乱舞し、我が身を弁えることを知らなかったのです。

勉強の毎日

 ドイツの大学では非常にのんびりと勉強ができます。10年間も15年間も大学生生活を続ける人は決して珍しくありません。私の両親は二人とも、30歳で私を産んで初めて大学を卒業しました。しかし私はそうのんびりしてはいられないという、心の焦りのようなものがありました。なるべく早く単位を揃え、勉強を進めたかったのです。朝と晩とそれぞれオートミールに牛乳をかけるだけという、金も時間かからない二度の食事を済ませて、昼はずっと大学に詰めていました。後はほぼ毎日、近くにあった坐禅道場に通うだけでした。何しろ、道の向こうには<悟り>が私を待っているはずですから。

道は一つ

 最初に二年間で基盤的な勉強を終え、修士課程の専門的な研究に入ります。日本学、哲学と物理学のそれぞれの試験には通ったもの、それまでの自分の考えの甘さに気付きました。これから素粒子のことを専門的に研究するのであれば、それだけで頭の神経回路を数年もフル回転させなければなりません。「タオ」だの「東洋の世紀」だの、甘ったるいことがとてもいえなくなります。哲学にしても日本学にしても、真剣にやろうと思えば、傍らで物理学科の地下の実験室でデータの収集はとても無理です。頂点にいたる道を最後まで登り続けるのであれば、道を一つだけ絞らなければなりません。そして私は「禅」、つまり日本学の勉強を選んだのです。

留学

 少しでも早く大学を卒業したいという焦りと同時に、再び日本で道を求めるのに修士課程が終わるまではとても待っていられないという思いも募りました。理屈だけの勉強にはもうウンザリしていたからです。そこで一年間京都大学で留学するつもりで、再び来日しました。

(ネルケ無方)

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