安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2009年 3・4月号

ドイツの禅道場について



 ドイツの禅道場について少しご説明しましょう。欧米で禅をやっている人たちを大まかに三つのグループに分類できると思います。それは自らを仏教徒と名乗る人たちと、キリスト教徒でありながら坐禅を追求しようとする人と、宗教の枠組みを越えて禅をやろうとする人です。  歴史的に見た場合、まず一七世紀にドイツ哲学者のライプニッツは仏教に言及し、一八世紀のカントやヘーゲルもそれぞれ仏教に着目しますが、まだ東洋思想の知識が豊富ではなかった当時は全てを「空」で済ませようとする仏教哲学への不信が強かったようです。彼らの目には、仏教は単なるニヒリズムに映っていました。パリ経典を中心としたインド仏教がヨーロッパで盛んに研究の対象とされたのが一九世紀の初めからです。ご周知のとおり、十九世紀のドイツの哲学者ショーペンハウエルやニーチェも仏教の多大な影響を受けており、ルドルフ・シュタイナーの「アントロポゾフィー(人智学)」も仏教をなくしては語れないものです。ドイツ人が始めて仏教僧となったのが一九〇三年です。バイオリニストのアントン・ギュートはビルマで出家し、比丘「ニヤーナティローカ」となります。後はセイロン(現在のスリランカ)を中心に活躍しますが、当時まだイギリスの管轄下にあったセイロンには第一次世界大戦から一九二六年まで安居することが許されず、世界中を周り一九二〇年から一九二六年の間は日本にも滞在します。そして一九二八年にはやがてドイツ人初の日本仏教僧も誕生します。ブルーノ・ペツォルドは上野寛永寺で出家得度を受けて「徳勝」という僧名を授かれました。そして一九四九年の死後、天台宗より「権大僧正」という位までを補任されました。

 当時西洋人の間に広まりつつあった仏教の傾向として、非常にロマンチックな眼で釈尊の教え見ていることが挙げられます。と同時に、頭でっかちな仏教でもあったのです。ほとんどの場合は文献から抽出された教義が入り口となっていたので、生活の中の実践ではなく仏教聖典とその「ドグマ」へのこだわりが見られます。少数ではありますが、今でも二〇世紀の初めからドイツのあちらこちらで設立された仏教協会があります。多くの場合それを維持しているのが特定の一派ではなく、原始仏教を研究している者もいれば、ヴィパッサナやチベット仏教を実践している者もいます。当然、その中には日本の禅や浄土仏教を信奉している者もいますが、その数は決して多くありません。ベルリンでは現在、学校教育の「宗教」の時間でキリスト教・イスラム教のもう一つの選択筋として「仏教」を教えたりもします。デュッセルドルフで浄土系の日本の寺院「恵光寺」を建てて、世界中のホテルにバイブルと並ぶべき「仏教聖典」を配って経典への関心を高めようとしている協会もあります。「仏教伝道協会」という日本の財団が設立させたものです。

仏教協会と呼ばれる団体は自らを「仏教」と定義している以上、仏教徒であることへの自負も強いですし、ある意味では宣教的な面もあります。皮肉にもこれらの側面は「仏教的」というよりもキリスト教の体質や西洋人の気質の影響といわなければならないかもしれません。

 それに対して、ドイツでかなり有力なグループの一つは「キリスト教の禅」です。もともと宣教師として日本にきて、仏教とやり取りをしているうち次第に禅に魅了され、やがて自分も禅を修行するようになった何人かのカトリックの神父さんが中心になっているムーヴメントです。その中でも一番知られているのがフーゴー・ラサールというイエズス会の神父さんです。彼は一九二九年に来日し上智大学で教鞭を執ったあと、一九四〇年から広島赴任し被爆に遭う。一九四八年には日本に帰化し、愛宮真備(えのみやまきび)と名前を変えましたが、一九九〇年に九二歳で生涯を終えるまで「キリスト教的禅」の普及に勤めた人です。 その教えの特徴のひとつは、「禅は仏教ではなく、宗教のあらゆる境界線を越えた普遍的な知恵である」という主張です。つまり、彼らは自らが信奉している宗教を捨てることなく、むしろ禅をキリスト教の中へ取り入れようとしているのです。どうしてそうなったか。もともとキリスト教にも神秘主義なるものがありました。とくに一三〇〇年前後に活躍していたマイスター・エックハルトの名前が知られており、彼の残した語録はよく禅と比較されます。ところが、言葉こそ残っていますが、のちに異端視されてきたこの一派のキリスト教は跡を絶ってしまいました。日本の禅のように師匠から弟子へ、代々と生きた形をもって伝えられることがありませんでした。彼らはその穴の埋め合わせとして禅を利用しているに過ぎないという批判的な見方も確かにあります。しかし、彼らの活動は日本の伝統的な仏教から問題視されることはまずありません。むしろ彼らが拘っているキリスト教の教会自体からの批判の声があがっています。今ドイツで一番有力な「キリスト教的禅」の指導者、ヴィリギス・イェーガー神父もローマ法王から「口をつぐむように」と命じられています。「見性・悟り」を武器にする浅はかな「経験主義」は日本の禅にもしばしば見られますが、キリスト教圏ではなにしろ神秘主義そのものの評判がよくありません。そこで禅の「悟り」や「見性」という概念を使って、「神聖な経験をした」「神様と出会った」というと一般の信者の顰蹙をかうのも当然です。

 「三宝教団」という鎌倉に本部をおく在家仏教の教団は直接キリスト教となんら関係がありませんが、「キリスト教的禅」のほとんどの指導者はこの教団に属しています。既成日本仏教の宗派から独立し、修行形態の中心となっているのが「悟り体験」です。

 キリスト教への信仰を深めるための禅よりも、キリスト教のアルターナティヴとして禅を求める欧米人が多いではないかと思います。彼らのほとんどが「禅仏教」という別な宗教を求めているのではなく、最初から宗教とは関係なく禅に取り組んでいます。その多くはヨガや太極拳、あるいは合気道、柔道や空手といった日本の格闘技にも刺激されています。またニューエイジといって、東洋の精神世界が注目されます。欧米文化の異質なものこそ求められています。たとえば、西洋の宗教や哲学であまり重要視されない体への関心です。「理屈ではなく、信仰でもなく、形から入る」というアプローチが新鮮で、キリスト教的な禅の看板を持ち上げている指導者たちがむしろ排除しようとしている「日本くさいもの」、僧侶の着ているお袈裟や応量器という伝統的な漆塗りの食器まで興味がおよび、積極的にそれらのものを手に入れようとする者もいます。そしてその延長線ではじめて「私たちがやっている禅って、一体どういう宗教なんだろうか」という問題意識が湧いてきます。ヨーロッパで禅を広めた弟子丸泰仙さんという日本人もその代表者の一人です。彼はまだ安泰寺が京都にあった頃に出家得度しましたが、日本ではあまりちゃんとした僧侶の修行をすることなく六十年代の後半にフランスに渡り坐禅を教えました。当時はやっていたヒッピーの文化に大きな「禅の風」を起こしました。彼が一九八二年にパリでなくなった時点で、二千人もの人が頭をそり、自分でお袈裟を縫い、弟子丸泰仙さんの弟子になっていたのです。その教団はAZI(Association Zen Internationale)といい、ヨーロッパではフランスを中心にほとんどの国に数多くの道場を構えています。しかし、カリスマ性に富んだ指導者の亡き後はだんだん衰えていく感もします。今も、安泰寺の噂をAZIの経由で耳にしたものが私の寺によく来ます。

 どういう人がそれらのグループに参加しているかといえば、ほとんどが在家の修行者です。頭を丸めて坐禅中に袈裟を纏う者でも一般社会で職業をもって、平日は会社に通い、夜は家に帰るというごく普通生活ぶりです。週末や休暇を利用して坐禅会や摂心に参加することが多いです。職業は医者や弁護士、実業家から芸術家・ミュージシャンまで、タクシーの運転士から主婦や学生まで幅広い層の人たちが「ZEN」に惹かれますが、どちらかと言えばインテリ層が多いです。仏教にこだわるグループも、キリスト教にこだわるグループも五〇代六〇代といった年輩の方が多いのに対して、ニューエイジの影響を受けて禅に興味を持ち始めた人たちの中には二〇代や三〇代のものが多く含まれます。日本と大きく違うのは、女性の割合が多いと言うことでしょう。これは、従来の西洋の文化に男性的な要素に偏っているからかもしれません。キリスト教だけを見ても、父である神様がいれば息子であるイエスがいますが、母なるマリアは(とくにプロテスタントの場合)ほとんど重要視されません。三位一体は「父・息子・聖霊」からなっていますが、そこには女性的「母・大地・身体」が抜け落ちています。哲学を見ても、男性的な理性が先行し、女性的な柔らかさがほとんど見られません。多くの西洋人が日本の禅に感じている魅力の一つが、この柔らかさです。

 誰しもがそう簡単にこの三つのグループに分類されるわけではありません。私自身は最初にキリスト教系の学校で坐禅を知ったのですから、仏教としての禅と言うより仏教から切り離された瞑想方法でした。しかし、十七歳でグループのリーダーになってからは腰まで伸ばしていた髪の毛を思い切って剃ってしまい、町の図書館に向かって仏教についての書籍を片っ端から読みあさりました。そのほとんどはインド中心の仏教学に根ざした学説とパリ教典の独訳でしたから、当初は「正統派」の仏教の影響を受けたと言うことはできます。ところが、先生が学校を去った後、他に坐禅の指導者がドイツにいないかと探していたら、ウルフィングハウゼンという修道院で女性の牧師グンドゥラ・マイヤーさんが禅を教えていたのです。三宝教団の坐禅会は毎月二回、十三世紀に建築されたその古い修道院の地下で行われていたのです。日本のお寺の本堂の雰囲気とは全く違う、暗い石の壁に囲まれて十字架の下の「禅メディテーション」です。この坐禅会には二年間、高校を卒業するまで通いました。ブラウンシュワイクから電車で一時間、駅からさらに十二キロという距離。始発の電車に乗っても駅に着いたのが坐禅が始まる一時間前でしたが、バスも通らない田舎でしたから、修道院までは走らなければなりません。背中が汗でびっしょり、足がパンパン腫れていた時の坐禅の長かったこと……。

 後にベルリンで弟子丸泰仙系列のグループに通いました。こちらは五階建ての昔の工場のコートヤードに設けられていたロフトに畳み式の禅堂があり、木製の床と玄関横に下駄箱という日本風の道場に毎朝十人から二十人、週末には三十人ほどが集まりました。キリスト教のグループの中では私一人が若かったですが、こちらは私と同年代の者が多くて、リーダーの天竜テンブロイルさんもまだ三十一歳という若さ。その中の多くの人たちが頭を丸めて袈裟を身につけていたました。少し胡散臭いという思いと、こちらこそ「本物」に近いかもしれないと言う両方の思いが入り交じっていました。しかし、それでもやはり日本で「本物」の修行をしなければならないと言う思いは消えませんでした。1990年、一年間京都で留学することになった時、天竜テンブロイルさんから昌林寺の奥村正博老師のことを紹介してもらい、その縁で最終的には安泰寺に辿り着きました。

(ネルケ無方)

<<< 前号 目次 次号 >>>


Switch to English Switch to Spanish Switch to French Switch to German Switch to Italian Switch to Polish Switch to Dutch Switch to Russian