安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2009年 5・6月号

安泰寺の雲水たちと私

22才の時、安泰寺で餅つき。


 1990年の秋と冬、初めて安泰寺に留学生としてきた時の話の続きです。

雲水たちの会話

 「夜坐」の後、雲水の溜まり場になっているのが外食堂です。明くる日の暁天坐禅までの時間は基本的に自由で、いつ寝るのも個人に任されています。雲水頭でもある典座の覚玄さんは押入から一升瓶を出すのではありませんか。先日OBから送られてきたといい、皆に勧めています。覚玄さんは当時四十歳で茨城県出身。元々は中学校の教師をしていましたが、三十歳のときに臨済宗の僧堂で得度、六年前安泰寺に掛塔しました。いわば同じ禅リーグの臨済チームから曹洞チームに移籍したわけですが、このように修行僧が臨済門と曹洞門を行き来することは、戦前まで良くあったようですが、現代ではきわめて異例のことです。私も後に、この覚玄さんの強い勧めで、京都にある臨済宗本山の僧堂に入門することになります。覚玄さんは、最古参の一人ということもあって、眼力といいオーラといい、それは凄まじいものがありました。

 「よく降るなあ。いつになったら晴れるんだろ。ここは一年の三分の二は雨じゃあないのかね。」と、彼が窓の外眺めながらつぶやいていたら、堂頭さんも頷いた。

 「くらー。まったく、性格もいじけてしまうってもんだ。」なにしろ、全員が太平洋側の生まれです。

 「しかし、今回の台風の被害はひどいもんでしたね。一杯の土砂や木の根っこで埋まったダムの掘り上げも進んでほっとしました。一時はどうなることかと思いましたけど何といっても飲料水確保が第一だし、これで泥んこ風呂ともお別れでしょう」という外向的で前向きな性格の雷童さんは当時三十三歳の奈良県出身。書店に勤めたそうですが、考えることがあって三年前に安泰寺で出家したようです。文才で話も活発ですが、坐禅中のイネムリ名人でもあります。彼も、多くの刺激を与えてくれた先輩の一人です。

 堂頭さんはもっと悲観的。「そううまくいくかな。ダムを掃除して、さあ新しい水だと思った途端、まさに感応道交、待ってましたとばかり泥水がどっと流れ込んで来たじゃないか。」

 「いやあ、あれには参った。しかし、なかなか思うようにいかねぇもんだ。台風前には去年と同じように薩摩芋をイノシシに全部失敬されたし、この台風で、今迄予定していたものが全部ご破算になってしまったんだから。お米と山菜と牛と、計画していたものがすっかり流されてしまったよ」という覚玄さんを雷童さんが 「こちらの意志通りにはいかないということをはっきり事実として示されたようなものですね。儘ならぬは諸法無我の世界かな」と、仏教的に解説すると堂頭さんがまた皮肉たっぷり「何気取っているんだ。しかし、まったく有難いご修行をなされておりますなあ、安泰寺さんは。」

 「今年はしんどい思いして草取りしたので、来年は少しは草が減るかと期待していたのに、山田が流されてグランドキャニオンじゃないか。来年は山門下の田圃で初めっからやり直しだ。」先日、寺まで案内してくれた恵海さんは当時三十三歳で群馬県出身。東北の大学を卒業してから農業の実習をしていましたが、六年前から安泰寺で修行生活をしています。当時は、雲水の中のナンバー・ツー。釈尊のような生活がしたいと私に語り、「仏の恵海」という愛称どおり、優しい性格で、アンパンマンのような丸顔、まさに菩薩の鏡のような人でした。

 「こんなところで集まっている私たちって、一般社会から見た場合よほどの物好きでしょうね」、とその年の夏から安泰寺に来ていた永心さん。彼も覚玄さんと同じ茨城県出身、恵海さんとあわせて、当時の安泰寺の雲水の過半数は関東出身ということになります。永心さんは以前ある地方僧堂で雲水として修行をしていましたが、先輩のいじめと仏道に相反している態度に耐えられず、飛び出しました。しばらく日本を放浪していましたが、やがて安泰寺に流れ着いたようです。

 「現実問題として冬の野菜はどうすんの。今年は雨にたたられて、下の村でも青物は痛いらしい。実を結ぶ時だったから。小豆も雨にやられたな。」どうやら、覚玄さんは「現実問題」という言葉が好きらしい。

 「まあ、無い時は無いで、ある物で済ませるさ。この台風で全く状況が変わってしまったんだから。作務の予定がすっかり変わったように、それに応じた対応をせねばならんということさ。普通だったら今頃は草刈でもやっているんだが、今はそうもしておれん。車も通れないから、切ってあった薪も運べないし、冬籠り用に典座の物や軽油など担いで上げなくちゃならん。大変だぞー」、あまり励ましにならない堂頭さんに寒がりの永心さんが聞きます。

 「今年の冬は、雪はどうでしょうね。降って欲しくないなあ。」

 「わからん。早め早め用意しておくこった。あっ、もうこれしか。よく飲むなあ。食べるものとアルコールも充分用意しとかなくちゃな。」

 酒が進むと話題も安泰寺の現実問題から世界政治へと変りました。

 「この新聞の自衛隊派遣のこと、一体どうなっているんでしょうね。知らず知らず動いてますよ。危険ですよ。これは」この前、村で受け取った郵便物の中、一週間分の新聞に目をやりながら恵海さんがいうと、名古屋大学で盛んに学生運動の関わっていた雷童さんは「この前の戦争のとき何故反対できなかったのだと、戦後世代が軽く批判したけれど、いつの間にか同じ流れに乗っかって、気付いてみたら、後の世代から同じ批判を受けていたという結果になりそうな危険がありますね」とコメントをしましたが、それからいきなり私に「どう、日本のぴちぴちギャル?」と話を降ってくれました。不意を突かれました。

「なにせ、摂心は五日間の頭の中で続くポルノショー。楽しいことを考えないと損ですよ、ネルケセンセ」

 外食堂でのやりとりが雲水たちの本音を知るための一番の近道でした。

 当時の日本では、都会でさえ子供に「アメリカ人だ!」と指さされるのは日常でしたが、この山寺では逆に外国から来た物珍しいヤツという扱いをされませんでした。それは安泰寺に一九六〇年代から多くの外国人が出入りしていることにも関係していますが、ひょっとしたら、安泰寺に来ている日本人雲水だって一般社会から「変わり者」と思われているからこそ、私を暖かく仲間に入れてくれていたかもしれません。

安泰寺の雲水たち

 安泰寺の雲水は一人も実家がお寺、という人間がいませんでした。これは現代の日本仏教では珍しいことです。このことをもって安泰寺が、他の檀家寺から「仏縁がない」と貶されることもしばしばありました。しかし、世襲が出家の理由となる方が、私から言わせるとおかしいのです。在家として生まれ、現実生活の中でいろいろな気づきを重ねてから、自ら発願し出家するのが本来の仏教の在り方です。お寺に生まれて、気がついたらお坊さんの格好をして、父親を「師匠」と呼ぶんなんて、私からすると大いなる茶番としか思えません。仏門と家業を混同しているだけで、元来の出家の在り方ではないのではないでしょうか。

 一番仲の良かった雲水が永心さんです。彼は高学歴の多かった雲水の中で珍しく中卒でしたが、多くの職業を経験し、農業にも詳しく頼りになりました。実家が電気屋のため、機械類の整備、電気やガスの溶接、重機の操縦など、いろいろな重要な仕事を任せられる器用な人で、安泰寺では大変重宝されました。ただ、彼は定期的に行われる「輪講」という、雲水が交代で仏典を読み、解釈し、その内容を説明した上で自らの修行生活に照らし合わせるディスカッションが苦手でした。輪講はエスカレートすると、激しい口調で互いを批判しあうこともあります。議論が苦手な彼は、私の作務以上に苦痛だったに違いありません。そのことでよく彼も先輩から叱られていたので、夜坐が終わった後、二人で不平不満を言い合っていたのも今では良い思い出です。

道元と私

 寺が雪に埋もれる冬場は私も毎日行われている輪講の当番に当たるようになりました。当時読んでいたテキストは道元禅師の「典座教訓」でした。その中で道元は典座、つまり台所の仕事の大切さを力説します。道元自身は若い時に「本物の仏教」を求めて、中国に渡りました。当時の日本人にとってなかなか得られないチャンスでした。天台宗の比叡山で大蔵経を三回も読みながら、「何のために修行をしなければならない」という疑問に対する答えを得られなかったという道元にとって、命がけの旅であったはずです。

 無事中国に到着しても、入国手続きにしばらく時間がかかりましたから、船で泊まることになりました。そこにある大きな僧堂の典座が訪れ、日本の椎茸を買い求めます。「待ってました」といういわんばかり、道元禅師は問答をかけます。ようやく「本物の禅僧」に出会ったのです。ところが、その典座は「明日の朝ご飯を作るために、早く寺に戻らなければならない」と、なかなか熱心な道元の質問に応じようとしません。

 「朝ご飯の支度くらい、誰だって出来るではないでしょうか。仏道のギリギリのところを求めて私が中国まで来たのですから、今日は船で一泊して、いろいろ私のために教えてください。どうか、お願いします」と、道元は頭を下げても、「どうやら、君は修行のイロハすら分からないね」とその典座があっさり断って帰ります。

 中国上陸を果たした道元禅師は後ほど、キノコを日干ししている別の老典座を目にしました。背中が曲がり、眉毛は真っ白でした。年は六十七歳だといいます。

 「熱いのに、そんな年で労働などしないで、教典を学んだり、坐禅をしたりしたらどうですか。そのキノコを別の誰かが干したらいいではありませんか」と道元が訪ねると、

 「ワシはその『だれか』ではない」と、道元に「この自分がやらなければ」ということを示します。

 「それならこの真っ昼間の炎天下ではなく、もう少し日が低くなってからはどうでしょうか」という道元に、「今やらなければ、いつやるつもりだ」ととどめを刺しました。

 しかし、これを輪講の場で「道元禅において、いまここ、この自分が大事なんだ」というふうに説明しようとしていたら、「もっと自分に引きつけて考えなさい」と注意されました。

 「道元のことはどうでもいい。お前の生の声が聞きたい!」

 ごもっともな理屈ではすまされない、この私自身のことを表現しろというのです。これこそ「安泰寺をオマエが創る!」という意味でした。そのためには道元禅師の書物も、先達の叱りの声も必要ですが、最終的に問われているのが自分自身です。

 考えてみれば、老典座との問答を終えていた道元も「典座という役がいかに大事か、よく分かりました」といってその場を早々離れてしまいます。若い道元ですら、まだ傍観的な立場を捨て切れていません。私はなおさらでした。

 入山してから半年、一九九一年の春、当初予定していた通り私は安泰寺を降りました。大学を卒業してから、就職などせずまたここに戻りたいとすでに心の中で決めていました。そのときは留学生としてではなく、出家して一人前の雲水として入門するつもりでした。なぜなら、安泰寺で初めて生きる実感を得ていたからです。どこそこの会社のデスクよりも、こここそ私の創造すべき世界があると感じました。 

(ネルケ無方)

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