火中の連
分かっている人、分からない人。学ぶ人、学ばない人。 |
大学時分、私に一番大きな影響を与えてくれた先生の専門はカントの哲学でした。先生は講義のときに、【純粋理性批判】のテキストを読みながら、「ここが分からない、あそこも、何回読んでも、やはり分からない」と、私たち学生を前にして公言しました。さぁ、たいへんです。先生が「分からない」といってしまいました。もちろん、カント哲学についてのあらゆる学説、 先生なら特に承知しているはずです。先生ご自身だって、カントについてたくさんの書籍を出していますから。どうしてその先生が「分からない」というのでしょうか。その理由は、先生はあくまでも「第一人称の哲学」にこだわっていたからです。カントを第三者の、歴史上の人物としてとらえたのではなく、彼の哲学を現代を生きている自分に置きかえって、理解し納得しようとしていたのです。「カント哲学」ではなく、自分の哲学としてです。それができないとき、「カントが分からない」といわれるのです。先生は決してカントを「教えよう」としたのではなく、カントから「学ぼう」としていたのです。学生の先頭に立って、自分も学生であったのです。 私たち学生はその姿勢に刺激され、先生の「分からない」という言葉を聴くたびに、「自分の頭で考えねば」という強い衝撃を受け、また、「僕はこうだと思う」「いや、俺は違う意見だ」と、先生に向かって盛んに発言するものもいました。
日本の京都大学にも二年間留学した経験がありますが、残念ながら、こういう先生には日本で一度もお目にかかったことがありません。日本の先生は、カントであろうがなんであろうが、それぞれの専門分野にはとても詳しく、分からないようなことは一つもないようです。質問されても、分かったような顔をして、分かったつもりの答えを学生に返します。しかしそれはあくまでも第三者としてのカントなり、その他のフランスやドイツの大哲学者の論理であったり、学説だったりします。けっして第一人としての、先生本人のなまの哲学ではないのです。 ですから、学生のなかにも、自分の問題として、自分の頭で哲学を追求しようという気持ちがわいてきません。日本の学生のたいがいは、最初は熱心でも、いずれは学校に足を運ばなくなってしまいします。それは学生の士気が低いからではなく、着いていくのに値する師匠がいないからです。少なくとも、私が見てきた京都大学はそうでした。
「分からない」ということは、「学ばねば」という意味です。「分かった」ということは、「学ぶ必要はもはやない」ということです。日本のお偉い先生方は皆、よく分かった方々のようです。先生は学ぼうとしないから、学生もとうぜん、その気にはなれません。お互いに、自分の頭で考える作業を放置してしまっています。何の工夫もなく、マニュアルを丸暗記することだけが日本で「学問」とされているようです。
さて、今はほとんど忘れられてしまっていますが、一ヶ月前の平和な日本を騒がせていたトップニュースは大学入学試験のカンニングでした。試験の問題を試験の途中にネットサイトに投稿し、回答を得られた学生が問題になりました。最初は複数の人間が絡んだであろう、愉快犯とも思われました。なにしろ、試験の最中にも関わらず、学生は回答者にお礼を送信しています。本気で試験に受かろうという一人の受験生なら、とてもそんな余裕はないと言われていました。しかし、彼は一人でメールのやり取りをし、礼儀正しく「ありがとうございました」と、試験中に返事もし、試験の翌日に届いた遅れた回答にもちゃんとお礼を送ってます。 そして早稲田大学などをいったん合格しましたが、カンニングがばれて無効となってしまいました。
禅に聞けという本の中で、澤木老師は言います。
受験予備校でカンニングする奴がある。受験予備校でカンニングするようでは、本当の試験のときカンニングせねば通れぬのに決まっておるが・・・そのばかさ加減は折れて曲がって念が入って、風流すぎる。
しかし、じつはそれと同じばかさ加減を、世の中すべてやらかしておる。
澤木老師にものを申すつもりはありませんが、今回の受験生に限って言えば、彼こそいまの世の中を救うかもしれない「なにか」を持っているという気がします。その礼儀正しさはもちろんのこと、聞き手の右手で解答を書きながら左手で股に挟んだ携帯を操作するという「神業」もかいたいです。しかしそれよりも、時代にあった形で分からない情報を自主的に収集する能力を高く評価します。分からないことがあって当然です。分からないことがあれば、その回答を求めればいいのです。形はどうであれ。 優等生は回答集を丸暗記してしまいますから、彼のようにカンニングする必要もないでしょう。しかし、未知の問題に遭遇したとき、優等生たちはどうするのでしょうか。大学側はこうしたカンニングの起こる可能性すら想定していなかったらしいです。とくに京都大学は、警察に犯人の捜索を頼んだことで、国中の笑いものとなってしまいました。犯人の身元くらい、受験者の回答とネットサイト「ヤフー知恵袋」に寄せられていた返答の比較で、かんたんにばれるというあからさまな事実にも思い当たらないのでしょうか。カンニング名人の想像力の百分の一も持ち合わせていないようです。まぁ、万が一からが受験に受かっていたとしても、京大での四年間で彼のせっかくの才能も台なしにされてしまったのでしょうから、落ちていてよかったと思います。
できれば、彼を安泰寺にほしいと思います。私の弟子の中にも、彼くらい能力のあるものがいれば・・・と思うからです。最初に寺に来るとき、料理が下手でもいいです。料理が下手なら、ネットでリシピを調べればいいではありませんか。無農薬の農法も、車の修理も、銃器の操作も、外国語も、そして仏教のことも、誰だって最初から分からないものです。そんなことは問題ありません。問題は、分からないことをいかに自覚し学ぶか、それだけが問題です。一日の内、少ない自由時間を使って「ヤフー知恵袋」でも何でも使って、分からないことを学ばなければなりません。私自身も。この寺の住所行くになって、こうやって無数の「分からないこと」を学んできました。
このころテレビ画面に現れる原子力保安員や東電の重役、大学教授や政治家などの顔ぶれは何でしょう。みな分かったような顔です。しかし、本当は何も分かっていない。何も分かっていないのに、それすら分かろうとしない。だから、学ぼうともしません。自分たちに想定力がないなら世界中の専門家に呼びかけ、分からないもの同士で知恵を出し合おう、なぜそんな簡単なことはなかなかできないでしょうか。カンニング名人から学ぶべきです。彼のような人が一人でもあの現場にいれば、あのような自己には発展しなかったと私はよんでいます。残念ながら、日本では本当に能力のある人はふるい落とされ、おばかさんだけがトップにたどり着くようです。
今の日本について、信頼性のある情報を入手しようと思えば、ドイツやフランスのメディアを頼りにするしかないようです。日本の未来を担う世代には、ある揺る手を尽くして的確な情報を収集できる才能を持ってほしいものです。マニュアル丸暗記の東大や京大の優等生たちに任せてしまえば、日本の将来はないのですから。
ミュンヘンでの反原発デモ。ドイツでは、たくさんの人々がたくさんのことを学んだ2011年3月11日ですが、日本では・・・?
(ネルケ無方、2011年3月31日)
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