火中の連
「やくざ大歓迎」宣言 |
日本仏教のある宗派の本山は、この間、権力側から「指定暴力団」というラベルを貼られているやくざの組の参拝を拒否したそうです。組の歴代の組長の位牌はその本山に安置されているようですが、今後はその位牌に参拝しないでくれ、とのことだそうです。その理由は、「社会風潮の考慮」だとか。 同じような動きは神社のほうにも強まり、組は来年の初詣も「自粛」する方針だとか。神道のことは私にはよくわからないので、仏教の立場だけから考えてみたいと思います。
もし、本山側がこういうふうにいっていたならば、私にも話はよくわかるのです:
「人は一人で生まれて来、一人で生きていて、そして一人で死んでゆく。経典にいわく『独生独死独去独来』。死後の行き先など、その人一人の生前の行いのみに決定されるのであって、残された人いくら拝んでも、お坊さんにお布施をはさんで『追善法要』というようなデタラメをやってもらっても、その効き目は皆無だ。
自分で蒔いた種は自分で刈り取る、それしかないのです。位牌への参拝も、坊主による葬式法要も、みな無意味だ。だから、お寺に来なくてもよい。俺たちも今後、そういった崇拝をやめて、原点に立ち返って仏道の追求の実践に励もうと思っているから、位牌への参拝は勘弁してもらうけど、一緒に修行するならいつでも来い。」
ところが、本山が通達したのは、そういう旨ではなかったらしいです。祖先崇拝をやめるつもりなど、もちろん最初からないのです。ただ、特定の集団には、来てほしくないだけのことです。いや、お布施さえ包んでくれたら、来てもいいけれども、少なくとも「指定暴力団の集団参拝」だとあからさまにわからないような形で来て頂戴、というのが本音ではないでしょうか。別に、僕たちが拒んでいるのではないのだけど、時勢も時勢だから、もう少し本山の面子にも配慮してくれ、ということでしょうか。
神社もおそらく同じでしょう。日本の神様なんて、悪人の参拝を拒んだりするような、「正義」だなんて「モラル」だなて、うるさくいう神様ではなかったはずなのに、どうして特定の人たちだけが参拝を自粛せざるを得ないのでしょうか。それはやはり、「社会風潮への考慮」に他ならないのです。
やくざの連中だって、充分悪いことをしているのだから、宗教団体もそれくらいの対応は当たり前ではないか、いや、むしろ今までの対応は甘かったのではないかという人もいるでしょう。しかし、私はドイツ人だからなのか、ここですぐにナチスドイツの歴史を思い出してしまいます。ヒットラーが政権を取った後には、「これからはユダヤ人を排除するぞ」とすぐに宣言したわけではありません。まずは、ドイツ人はドイツ人らしく生活しようではないか、というもっともらしい理屈から始まったのです。ユダヤ人もまた、ユダヤ人として生活すればいいではないか、と。もちろん、ドイツ人に迷惑をかけては困るのだけれども。もともと、ドイツに「ドイツ人」と「ユダヤ人」という二つの人種が住んでいたわけではないのです。人種でいえば、 ゲルマン系もいればラテン系もスラヴ系もいますが、混血が昔からあったのですから、人の顔を見て「こいつはゲルマンで、あいつは違う」とわかるわけではありません。同じ理由で、ユダヤ人を一見ユダヤ人でわかるわけでもないのです。そもそもユダヤは民族の名称でもあるのですが、宗教でもあるのです。入信しようと思えば、誰でも改心・入信できます。逆に、キリスト教徒の「ユダヤ人」も無心論者の「ユダヤ人」もいっぱいいたわけです。ですから、「ドイツ人はドイツ人、ユダヤ人はユダヤ人」という理屈は最初からなりたちにくかったのですが、その時点ではまだ反対を唱える人は少なかったのです。
ナチスにとって大きな問題であったのは、まず「ドイツ人」とそうでない「ユダヤ人」の違いを明確にすることでした。ユダヤ人を差別し、ゆくゆくは排除しようと思えば、まず「ユダヤ人」なるものを「指定」しなければなりません。 ホロコースト前夜のドイツでは、ナチスたちもユダヤ人の「差別化」にかなり頭を悩ませてのではないでしょうか。問題解決は「ダビデの星」でした。ユダヤ教の象徴であるこの星型紋様のバッジをユダヤ人と指定された人たちにつけさせたのです。 ユダヤ人にはユダヤ人専用の住宅街(ゲットー)、ユダヤ人専用の職業を与えられました。もちろん、「ドイツ人」と「ユダヤ人」の結婚も、恋愛する認めない。ユダヤ人は映画館にすら入ることが許されませんでした。誰が「ユダヤ人」か、指定のバッジで一見わかるようになりました。そして バッジをつけないで外出することは犯罪でした。
この時点でいよいよ、多くのドイツ人も「これはおかしいぞ」と思ったのでしょう。『ドイツはドイツ人のもの、ドイツ人はドイツ人らしく』といったって、いくらなんでも、やりすぎだ」、そう感づいた人も少なくなかったはずです。ところが、実際に反対の声を上げた人はほとんどいませんでした。どうしてか?そうです、あの「社会風潮への考慮」です。
「僕、個人的には反対だけで、時勢も時勢だからね」というやつです。日本にもありましたし、今もあります。
産経新聞に組長とのインタービューが載っています。リンクは以下です。
(上)全国で暴排条例施行「異様な時代が来た」
(下)芸能界との関係「恩恵受けること一つもない」
「異様な時代が来た」と組長はいうけれども、私も同感です。
「われわれが法を犯して取り締まられるのは構わないが、われわれにも親がいれば子供もいる、親戚もいる、幼なじみもいる。こうした人たちとお茶を飲んだり、歓談したりするというだけでも周辺者とみなされかねないというのは、やくざは人ではないということなのだろう。しかも一般市民、善良な市民として生活しているそうした人たちがわれわれと同じ枠組みで処罰されるということに異常さを感じている。」
まさに正論です。以前から、あちらこちらの役場の前に飾られている標語を見て、矛盾を感じていたのです。一方では、
「差別のない、明るい町づくり」
他方では、
「暴力団を排除せよ」
私にはもちろん、犯罪を弁解するつもりはまったくありません。犯罪と戦うのは大事ですし、警察だけではなく、社会人の一人ひとりの務めです。しかし、犯罪をなくすのと、指定暴力団を排除することは違います。また、そしてこれはもっとも大事だと思いますが、犯罪をなくそう、あるいは少なくしようと思えば、具体的な対処の仕方が問題です。たとえば、「暴力団=犯罪集団」とはっきり証明してくれたら、暴力団を一切禁止し叩き潰すという方法があってもいいと思います。しかし、日本人はそれをしません。暴力団を禁止することなく、排除せよというのです。犯罪をやめなさい、といわずに、「あっちへいって、目立たないところでジーとしていなさい」というのです。
日本には売春はないそうですが、ソープランドはあります。もちろん、特定の地域にです。一応、建前は風呂屋だそうですが、それならどこの住宅街に建ってもよさそうです。そうではなく、禁止もされず、かといって暖かく受け入れもされず、隅っこに追いやられるのです。日本にはギャンブルもない、しかしパチンコはあるし、パッチプロまでいます。もちろん、れっきとした職業ではないので、私と一緒に修行したことのある、寺の息子で東京でパッチプロやっている人も、「友達の会社を手伝っている」と、田舎のお寺の親父さんに帰るたびに報告していたそうです。あと、日本にないもので実はあるものとして「軍隊」を挙げることもできます。「軍隊」と「自衛隊」の違い、あれも日本人でなければ理解しづらいと思います。
私の妻は決してやくざではありませんが(やくざのような立ち振る舞いをすることもしばしばですが)、大阪城公園ですんでいた折に、一緒に銭湯に入ろうとしたときにたびたび困りました。体に刺青を入れるの勝手だけれども、「善良な日本人」と一緒に銭湯に入ってくれるな、というのです。犯罪に立ち向かえばいいのに、どうでもいい「刺青」を差別するのです。そうして同時に、「差別のない、明るい町を」と声を高々に・・・その矛盾に気づきませんか。やくざが犯罪を起こすことはいけないのであって、刺青を入れることがわるいのではありません。一般人も、犯罪を起こすことはだめであって、やくざと友達になることは悪くないはずです。どうして知人がやくざだから、仕事をやめなければならないということになるのでしょうか。
私の周りにはやくざがいないため、やくざとはいったいどういうものなのか、想像するしかできません。しかし、やくざなしには日本が語れないというような気もします。やくざを本当に日本から排除してしまえば、残るのは朝青龍が排除された後の相撲の世界のようなものではないでしょうか。 そう、「かす」だけです。そう思っている一方、やくざに対する疑問がないわけでもないのです。たとえば、組長のインタービューには「9割は破門になる」とあるけれども、9割ではとても多すぎます。9割が波紋になってしまえば、やくざは建前の日本社会から落ちこぼれた人たちの受け皿の役割を果たしているとはいえないのです。10人中、10人とも教育し、人間らしい人間に育成することは無理としても、狙いとしてなくてはならない狙いだと思います。 もと、自立した一般社会人として生きていける自信のない人がまず行こうとするのは、自衛隊ではないでしょうか。ただ、自衛隊では年齢制限もあり、日本の国籍も必要だし、犯罪歴も聞かれるでしょう。ですから、自衛隊にも入れない人のためにはやくざという昔ながらのギルドがあったのです。やくざの厳しい世界でも通用しない人はどうなったかといいますと、はい、そうです、お坊さんになるのです。 お寺に跡継ぎ問題がるので、暴力団が叩き潰されれば、出家志願者が増えて日本仏教が助かる一面すらあるかもしれません。組長のインタービューを読んで、やくざの世界にもお坊さんの世界と同様、建前と本音に大きな違いを感じました。その壁を何とかして乗り越えなければ、やくざも僧侶もサバイバルは難しいでしょう。やくざには、やくざとして胸が張れるやくざになってほしいのです。建前ではなく、本当の意味での任侠団体になってくれれば、これからの日本にとって「必要悪」ではなく、「必要善」とすらよべる、くさった国家権力と立ち向かうべき大きな反対勢力にもなりうる、・・・というのはゆめのまたゆめです。
夢は差し置いて、やくざであれ、だれであれ、自分の生き方を真剣に模索し、仏道に命をかけて、坐禅修行という形で自己を追求しようと言う人には、今もこれからも、広く門戸を開いています。祖先の参拝ではなく、修行への実参実究であれば、いつでもご来山をお待ちしております。
(ネルケ無方、2011年11月26日)
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