安泰寺

A N T A I J I


イエスとの距離
キリスト教、仏教、そして私・その8




神の子はなぜか、たった一人
 
 繰り返される公会議で絶えず論点となったのは、イエスの人間と神としての両面性、二つの位格です。この二つが「一滴の酢が海に溶けるごとく」ひとつのものに吸収されるという説は頑なに否定され、位格をごちゃ混ぜしてはいけないことになっています。どうして一方ではイエスという歴史上の人物において、人類と神の具体的な接点を示しながら、他方で人間と神の壁を崩そうとしないのでしょうか。どうせなら、私たち一人ひとりが一滴の酢のように神という大きな海に溶ける教えを示すことはできなかったのでしょうか。
 イエスは聖書の中のどこにも、「私が神だ」といっていません。神を「アッバ」(「父」を意味する愛称、現代の「パパ」)という言葉で呼んでいるだけです。その理由から「神の子」とされています。もしそれ以降のキリスト教がイエスを三位一体の中に位置づけず、「神の子」をもっと広げていたらどうなったのでしょうか。次のようにいう人が現れてきたかもしれません。
 
 「イエスが神の子であるように、私たちの一人ひとりも皆、神の子ではないか。イエスのような生き方、イエスのような死に方をすることこそ、私たちが神の子として生きる道だ」
 
 この考え方はある意味で、私が後ほど説明したい大乗仏教の教えに近いと思います。また、神聖化される前のイエス自身も、本当はこう伝えたかったと私は考えています。
 
 「私の中に永遠の命が生きていると同じように、あなた方の一人ひとりも例外なく、永遠の命に生かされて生きているのだ。私は決して特別な存在ではないではない。私が自分の生き方を通して神との接点を表現しようとしているだけ。あなた方も私とも共に歩み、私ではなくあなた自身の中に『神』を見つけてみないか」
 
 つまり、イエスを神ではなく私たちの同行者としてみることはできないでしょうか。
 今日の正当なクリスト教から見れば、このような主張は神やイエスへの冒涜にすぎないでしょう。イエスは人間でも、私たちは逆立ちしてもイエスのようにははなりえないからです。キリスト教の教えでは、神であり人間であるのは、イエスたった一人でなくてはなりません。それはそもそも、イエスが「神になった」のではなく、「神がイエスとして受肉した」からです。神が人類の地平線まで降りたのであって、私たち人間が自力で神に一歩でも近づくことは不可能です。三位一体のドグマによって、神の「受肉」と「磔」という形で人類との接点ができたと同時に、イエスは神として人類から切り離されてしまったのです。私たちに開かれた道はたった一つ、神の受肉を信じること、イエスの磔による罪の贖いを信じること、そして懺悔することのみです。
 キリスト教のドグマによれば、神はイエスというわが子を生贄にし、磔によって人類の罪を贖ったことになっていますが、普通に考えればイエスを犠牲にしたのは人類ですから。イエスの弟子たちですら彼を裏切り、彼の死を許してしまうわけですから、それによって「罪が贖った」とはあまりにも偏屈な考えではありませんでしょうか。そもそもその考えが可能にしたのは、イエスの神聖化です。イエスの神聖化によって彼を人類から切り離し、イエスという一人の同行者を犠牲にしたわけです。人間の罪を贖うために神が受肉したのではなく、「罪を贖ってもらった」と信じさせてもらえるために、一人の人間が生贄にされ「神」にされてしまったにすぎません。
 公会議で問題になっていた「聖母」マリアも同じです。ヨセフという大工の妻であった彼女こそ、何の変哲もない普通の女、私たちと同類だったはずです。しかし彼女をただの「人間の母」と見なせていたならば、マリア信仰は発祥しなかったはずです。「神の母」であるからこそ、「私たちのマリア」なのです。そのために、彼女をワン・ランク上げる必要がありました。マリアが「神の母」となりうるために考え出されたもの、それは「無原罪の御宿り」すなわちバージンのままでの懐妊のストーリでした。普通に妊娠していれば、マリアもイエスも普通の人間になってしまったはずです。
 人間はどうしても神との具体的な接点がほしくて、名前も形もある崇拝の対象をもとめていました。最初はイエスを「神」にしてしまい、それからマリアにも「聖母」として神との接点を持たせましたが、それによって、この二人は人類から切り離されてしまいました。永遠に叶わない恋のように、手の届かないものほど愛しいわけです。
 

イエスの名を知らない宗教はうそ
 
 キリスト教はどうして、人間が誰でも「神の子」として生きる道を示さなかったのでしょうか。どうしてイエスを神の「一人っ子」にしてしまったのでしょうか。
 それはおそらく、そのほうが一番楽だからです。私たちの一人ひとりがイエスのような生き方をしなければ救われないとなれば、とても大変な気がするでしょう。無原罪の御宿りでもなんでも信じてしまい、イエスのほうから救ってもらったほうが楽に決まっています。しかし「何でもいいから、信じれば救われる」というと、やはりわけが違います。やはり具体的な接点が問われています。
 キリスト教の場合、信仰の対象はどうしても「イエス・キリスト」のたった一人でなければなりません。イエス以外には、マリアの崇拝がかろうじて許されているのです(マリア信仰の影もプロテスタントにおいては非常に薄い)。楽である一方、そこはキリスト教の非常に厳しいかつ排他的なところでもあるのです。
 日本のもっとも有名な近代哲学者、西田幾多郎の弟子に滝沢克己という人がいます。彼は西田の勧めでドイツに渡りカール・バルトというプロテスタント神学について学びます。キリスト教徒と日本の浄土真宗の類似点に気づいた滝沢はある日、バルトに尋ねました。
 
 「キリスト教では信者が自力で神に近づくことはできない。イエス・キリストの救いを信じることにのみ救われる……、これは日本の親鸞の信仰の構造と実によく似ています。他力本願といい、彼は自力による成仏を否定しもっぱら『南無阿弥陀仏』という念仏による救いを説きました」
 
 その時、バルトは言ったそうです。
 
 「それは似て非なる宗教だ。『イエス・キリスト』という御名を知らない宗教は、うそなのだ」
 
 それだけ、キリスト教は歴史上のイエスという人物とその名前にこだわっています。正教会でイコンというイエスの具体的な聖像が大事にされているのも、そのためではないでしょうか。イコンの変わりに仏像、「いえすきりすと」の変わりに「なむあみだぶつ」では、だめらしいです。曹洞宗の僧侶として「行雲行水」のような一生送っていた山頭火は
 
 「冬雨の石階をのぼるサンタマリヤ」
 
 という自由律の俳句も残していますが、神父の口から「釈迦牟尼仏」はまず出てこないでしょう。
 

失われてしまった結び目
 
 三位一体の教えをもう一度、振り返ってみましょう。まず天地の創造から私たちの世界に関わっていたのが、創造主としての父です。父なる神が直接に人類と関わったのは、しかしアダムとイブを創造したときやノアの方舟のときなどくらい、ユダヤ民族の記憶もおぼつかないころです。そのときにはまだ怒りっぽい性格の持ち主らしくて、人類にはちょこちょこ手を出して、ヨブのように悪戯としか言いようのないこともやっていましたから、皆は神を恐れていたようです。ところが、紀元前後のイスラエルに「父」はすでに完全に手を引いていた状態でした。
 それでも人類は救世主を必要としていましたから、今度は神が自ら人間となり、十字架で磔になり人類のあらゆる罪を背負ったことになりました。このときの「子」としての神はもちろんイエス一人のことで、人類全体ではありません。イエスと神の境界線を消すことで、イエスと人類の間にほとんど越えられない境界ができてしまいました。この境界を越えるために残されているのは「信」のみです。
 さて、三位一体のうちの「父」と「子」については以上述べたとおりですが、どうしてそこに三つ目の「聖霊」が登場する必要があったのでしょうか。そもそも「聖霊」という言葉自体は聖書のいくつかの箇所しか出てきません。決して頻繁に使われているわけではないのです。それなのになぜ、「父」と「子」と同格の扱いになったのでしょう。
 実は、初期クリスチャンは必ずしも聖霊を神だと思っていなかったようです。ユダヤ教にも、聖霊=神という考えはないようです。聖霊が必要になってきた理由の一つは、イエスの神性を説明するためでした。絶対者である神(父)はどうやって相対的な人間イエス(子)と結ばれたのか……、そもそも相対の世界の中に絶対なるものが現れるはずがないではないか……、そういった疑問に対して出された答えは
 
 「父と子は聖霊において結ばれている」
 
 現代日本っぽく言えば、聖霊が親子なのです。しかし、聖霊はさらに大事な役割を演じることになりました。聖霊は父と子の絆と同時に、現在の神と人類の唯一の絆なのです。そもそも、神との接点を見失っていた当初のクリスチャンがようやく見つけていた「イエス・キリスト」こそ神と人類の結び目だったはずですが、そのイエスもやがて死に、復活はしたものの天に昇ってしまいました。その「肌の感触」のようなものがまだ忘れられていないうちに、初期クリスチャンは
 
 「終わりの日が近い」
 
 と信じて、もうじき訪れるはずの最後の審判でイエスに救われると確信していたようです。しかし、一世紀も二世紀もいつの間にか過ぎてしまいました。はて、神はもうこの世には現れてこないし、イエスも天に昇ってしまった……、せっかく手に入れていた「結び目」がだんだん実感しにくくなってきたという現状があったと私は想像します。そして現実問題として、大きくなりつつある教会を誰がまとめて、誰が信者たち同士を結ぶのか、という課題もあったはずです。
 その答えも結局「それが聖霊の働き」でした。イエスが天に昇った後の人類の前には、父も子もついに姿を見せることはなくなりましたが、唯一「聖霊の働き」が認められました。あちらこちらで奇跡が起ったりするときも、やはり「聖霊の働き」。サクラメント(洗礼・堅信・聖餐・結婚など)も、「聖霊の働き」によってなされることになっています。また、一九世紀のバチカン公会議のとき確定されたローマ教皇の首位説や教皇不可謬説の理由付けも「教皇の決定は聖霊の導きに基づくもの」です。つまり、聖霊を神と同格に扱わなければ、その代弁者である教皇とその組織全体の権威が台無しになってしまうというわけです。
 もういちど整理をすると、こういうことになります。
 
 父=創造主・絶対者・人格を持つが名前も形もない
 子=受肉し、磔で死に、人類の罪を贖う・人と神の具体的な、歴史的な接点・神でもあり、人間でもある・名前は「イエス・キリスト」
 聖霊=神から出る「息」・働きかけ・父とイエスを結ぶ絆でもあり、神と人類を結ぶ絆でもある・聖餐など、サクラメントに表れる
 

(ネルケ無方、2013年04月5日)

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