安泰寺

A N T A I J I


回心のメカニズム
キリスト教、仏教、そして私・その9




放蕩息子
 
 父と子のたとえを使って、キリスト教の救いのメカニズムを分かりやすく説いているのがルカの福音書の中に出てくる「放蕩息子」というたとえ話です。この場合の「父と子」は神とイエスの関係ではなく、神イエスと私たち一人ひとりの関係です。非常に大事な話なので、要約しながら紹介したいと思います。
 
 ある日、イエスは収税人や罪人と話していた。その時に、ユダヤ教の正統派であるパリサイ人に悪口を言われた。
 「ほら、見ろ。この人はまた罪人を相手にしている、食事も一緒にとっている」
 …《中略》…
 そこでイエスは言った。
 「ある人に息子が二人いた。弟のほうは生前相続を要求し、財産を分配してもらった。数日もたたないうちに彼は外国に出かけて、しばらく放浪の旅を続けたが、そのうち財産をすべて使い果たし、一銭も持たないホームレスになってしまった。おまけに、その国を飢饉【ルビ ききん】が訪れ、彼は食うことに困っていた。そこで彼はある人の豚の世話をすることにした。その豚たちが食べていたイナゴマメのエサをねたむくらいに彼は腹が減っていたが、豚のエサすら分けてもらえなかった。そこで彼は反省した。
 《お父さんのところの雇い人は十分食えるのに、この私は飢え死にしそうだ。お父さんのところに帰って、謝ろう。そしてせめて雇い人にしてもらおう》
 それから、彼は父のいる家に向かった。遠くから息子を見つけた父は家から走り出し、息子を抱きキッスした。そこで息子は言った。
 『私は天に対しても、あなたに対しても、罪を犯してしまいました。私にはもう、あなたの息子である資格がありません。雇い人にしてください』
 しかし父は周りのものにこう呼びかけた。
 『息子に一番いい服を着せなさい。手には指輪を着せ、足には靴を履かせなさい。肥えた子牛を殺し、それを食べて楽しもう』
 ところが長男が畑から帰ってきたとき、彼は音楽の音を聞いて人が躍っているのを目にした。驚いてそのわけを雇い人に聞いたところ、初めて弟が帰ってきたことを知った。そして、長男は父に怒った。
 『私はこの何年もの間、お父さんに一つも文句をいわず従ってきた。にもかかわらず、お父さんは私にヤギの一匹もくれていないではないか。どうして相続した財産を娼婦に使い果たしたこのダメ弟なんかのために、子牛を殺してしまうのだ』
 父は答えた。
 『息子よ、君はずっとわしの側にいたのではないか。君の弟は迷子になっていなくなってしまったのに、今は見つかった。彼はいったん死んでいたのに、再び生き返った。そこで喜ばないわけにはいかないではないか』」

 
イエスの「悪人正機説」
 
 イエスの意図は明瞭です。「どうして罪人なんかを相手にできるか」という善良なるパリサイ人よりも、罪人を相手にしたほうは神の意志に適っているのです。神は善人のうぬぼれより、悪人の反省を喜ぶからです。先ほども引用した使徒行伝のペトロの言葉の中にも、それは表れています。
 
 「…諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じる…」
 
 ここでいう「くびき」とはユダヤ教の律法のことではないでしょうか。追いきれない律法を守ろうとする試みを、ペトロは「神を試す」こといっています。律法を厳密に守ろうとするパラサイ人こそ、自覚しないその「善人ぶり」によって神に逆らっているわけです。悪人が自らの罪深さを自覚してこそ、懺悔もできるし、神の憐れみによって赦される…、それがキリスト教の救いのメカニズムです。ある意味で、日本で有名な親鸞の「悪人正機説」に非常に近いと思います。
 
 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、『悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや』。」(歎異抄・第3章)
 
 人はいう、「悪人でさえ極楽にいけるのだから、善人の往生はなおさら確実だ」……しかし、そうではない。善人でさえ極楽にけるならば、悪人こそ確実だ。浄土真宗の場合は、そういうカラクリになっています。それはよいことをするよりも悪いことをしたほうがいい、という意味ではもちろんありません。どうしようもない自分に気づいて、この自分を救ってくれると約束した阿弥陀にお任せすることを説いているのではないでしょうか。自らの努力で成仏を目指すことは浄土真宗では嫌われているようです。キリスト教も同様、自分の努力で神に近づけられるとは説いていません。救いのプロセスは
 
 罪の自覚→懺悔→神の憐れみ→赦し
 
 です。

 

神の愛と兄弟愛
 
 私が放蕩息子の話を読むたびにどうしても引っかかるのは、二人の兄弟の関係です。同じ父の子なのに、あの妬みは一体どこから?
 そこで思い出すのが、私がまだ子どものときの日曜日の日に、ケーキが食卓に出されたときのことです。大人気ない私は二人の妹のさらを見て、思わず叫びました。
 「ぼくのよりべレナのケーキが大きい、いや、ゲジーネのが一番大きい!」
 その時、父が聞いてきました。
 「同じケーキの分け方でも、三種類あるの知っているか。一つ目はキリストによる分配。二つ目は正義による分配。三つ目は兄弟による分配。さて、君たちはどの分配の仕方にする?」
 「……」
 なにしろ、キリストは隣人愛・兄弟愛を教えているし、それがすんわち正義ともされているので、答えようがありませんでした。父はさらに諭しました。
 「それぞれのケーキをちょうど同じ大きさに切るのが正義。しかし、それはなかなかできない。どうしても人の分が大きく見えてしまう。『ぼくのは一番小さい』と泣いている、それが兄弟。『ぼくは一番小さいのでいい』、それがイエス」
 そこには四人兄弟の次男として育っていた父自身の経験も反映されていたかもしれません。キリスト教の世界観はここによく表れているのではないでしょうか。「人類皆兄弟」といっておきながら、同じキリスト教徒同士でも結局、皆は「自分が一番」なのです。
 
 聖書の中でイエスが律法のあらゆる戒めを簡潔にまとめている場面が有名です。一番大事な戒めを訊ねてきた一人の律法学者の質問に、イエスはこう答えます。
 「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37〜40)
 それを「隣人愛も大事だけれども、それよりもまず神の愛だよ」と解釈するクリスチャンもいるようですが、私はこう解釈してもいいのではないかと思います。
 「神と同じように、隣人をも自分の命をかけて愛せよ」
 むしろ、そのほうが自然ではないでしょうか。さらにいえば
 「隣人を愛することこそ、神への愛の表現である。隣人さえ愛せないものは、どうして神を愛するといえるか」
 
 かく言う私こそ、熱心なクリスチャンに説教されるかもしれません。
 「長い間で異邦でさまよい、まずいメシを食っているのは誰だ?まさに、邪教の『外人じゅうしょく』をしているオマエ自身のことではないか。くだらないことをいわないで、悔い改めなさい。まだ遅くないから、早く教会に帰っておいで!」
 しかし、その気にはどうにもなれないので、しばらく日本で禅寺の住職を続けるしか仕方ないでしょう。いや、仕方ないからやっているのではありません。本当の救いへの道を、私は今の仕事にこそあると信じています。実は、仏教にもこの放蕩息子に驚くほどよく似たたとえ話がるのです。法華経の「長者窮子」の話ですが、この話の肝心要な部分はやはりキリスト教の話とずれています。しかし、その話に入る前には次回から、まず仏教がいかに発展してきたか、キリスト教と照らし合わせて検討しましょう。
 

(ネルケ無方、2013年04月10日)

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