流転海07

安泰寺文集・平成19年度


哲一  (安泰寺内・二十五才・雲水頭)


自分は人間が好きです。子供が好きです。おじいちゃんや、おばあちゃんが好きです。でも最近の大人達は、あまり好きになれません。もちろん、自分もその大人達ではありますが。

 今の日本はちょっとおかしいと思います。シルバーシートに平気で座るおっさんや高校生。なんの恥じらいもなく電車の中で厚化粧する女子高生やOL。簡単に自分の命を絶つ人達。他にもたくさんありますが、とにかくそんな人達を見るとかたっぱしから、むしょうに殴りたくなってきます。某有名アニメの様に修正してやるみたいな感じで(笑)そして言いたいです。「お前は自分一人でこの世界で生きているつもりか?」ってね。

 そもそも自分が安泰寺に来た理由は二つあります。一つは将来、未来ある子供達を導ける大人になりたい。そのためにはまず自分が生まれ変わらなければ成し得ないということ。もう一つは日本人として仏教というものに触れたい思ったからです。  

 前者は最初の文章で書いた人間が好きというのが根本的な理由で、それに子供達は世界の貴重な財産であると考えているからです。誰の子供だろうと関係はないって思っています。すでに二十六歳の自分が大人になりたいっていうのは、とてもおかしく聞こえますが、それほど現代の大人は自分を含めて幼稚化してると思います。このことについては堂頭さんも同じことを言っておられます。

後者については、安泰寺に訪れる前の自分は右よりの考え方でした。ですからここに上山した時はあまりの外国人の多さに驚いたものです。初めは外国人が日本人の猿真似をしたところで所詮解りやしないとか、ろくに正座もできんのに興味本位でわざわざ遠い日本までよく来るなぁとかです。 しかし、安泰寺で他の外国人修行者と生活してると色々いい体験ができました。

 自分は機械の扱いが下手でよく壊してしまいます。 ある夏も終わりかけた日、自分は一日に二つも草刈機を壊してしまいました。運が良く機械に詳しいドイツ人がいたので自分はまぁ、どうにかなるやろーみたいな軽い気持ちでいました。しかし、実際プロである彼に見てもらうとこれはちょっと難しいみたいなことを言われ内心焦りました。もう頭の中は堂頭さんにまた怒られる、また怒られると自分自身のことしか考えてませんでした。しかし彼は、自由時間になっても自分の為に一緒になって直そうと必死にがんばってくれました。しかし懸命の努力のかいもなく両方とも動きませんでした。彼もとうとうあきらめ帰ろうとした時、自分はこんなに彼が頑張ってくれたのに報われないなんてあんまりだ、ちくしょうなんて具合に執拗にスターターの紐を引っ張り続けました。彼は、もういいよ自分が一緒に謝ってあげるから、あきらめて風呂でも入ろうよなんて言ってる時ズズっと微かなエンジン音が聞こえました。彼はその音にいち早く気づき、Maedaワンモアっていいました。自分は慌ててもう一度引きました。するとエンジンは勢い良く回転し、まるで今まで奮闘していた私達を空を切り裂くような金きり音であざ笑うかのようギュィィィーンと雄叫び始めました。すると彼はMaedaぁぁぁって、まるで子供のように大声を張り上げながら自分に抱きついてきました。他人と抱き合う文化が無い私達ですが(しかもこんなおっさんと)この時はそんなことも忘れ一緒になって騒ぎました。なんと書けば今読んでる方々に、その時の幸福感を伝えることができるか解りません。とにかくその時自分は国境を越えた幸福感に包まれていました。こういう出来事がこの半年で多々あり、今では日本人だから、ドイツ人カナダ人だからって何?外国人がローマ字書きの経本使ってお経読んでるからってなにか問題あの?って思えるようになりました。これはじぶんにとって驚きの発見でもあり、すばらしいことだと思います。

 安泰寺は坐禅と作務のお寺ってイメージが強いらしく、よく坐禅が大変とか農作業や力仕事がきついって愚癡をこぼす人が多々います。確かに坐禅は公式記録では年間1800時間と、他の禅寺より圧倒的に多いし、作務だって普通の寺より断然多い。しかし私が思うには、作務についてはそんなに大変だと思わないし(何故なら、そんなこと農家の人ならばやってることだし、今に始まったわけではない)坐禅に関しても、流石に楽勝なんて言えないけれど、世の中にはたくさん坐禅をしたいのに仕事が忙しかったり等の理由でできない人達もたくさんいるし、それを省いても一般に働いてる人達よりもけっこういい暮らししてると思う。何故こういう考え方ができるかというと安泰寺には最低限必要な物しかなく、あんまりお金や物質に囚われなくなってくるからです。しかしそれはあくまで上山中の場合であり、自分自身一度下山すると餓鬼のように甘いものを貪り尽くしてしまいますが・・・・・。ですから本当は安泰寺を出てから如何に自分自身を煩惱から抑制しえるかがキーポイントじゃないでしょうか。なんにせよ安泰寺の修行の捕らえ方は自分しだいどうにでも変わるということを自分は言いたいのです。

 しかしここはただの安宿にもなり得る危険性を秘めていることも忘れてはいけません。じゃあ、どうすれば安宿じゃなく修行道場としてやっていけるのでしょうか。その答えはいつも堂頭さんが言ってらっしゃる、安泰寺はお前が作る、そしてお前なんてどうでもいいんだを実践していくしかないんじゃないでしょうか。言うのは簡単ですがこれほど難しい要求はなかなかありません。受け取り方を間違うととんでもないことに成り得るからです。この言葉は深いです、本当に深いです。はっきりいって自分にはまだ理解不能です。でも、安泰寺の修行生活の中で見出すしかないと思います。

 最後に自分にとっての最良の人生とは何かについて書きたいと思います。自分が考えうる最良の人生とは、死ぬまで何かを求め続けることです。その何かはまだ解りませんが、たった一回の人生ですから何かを極めたいという事です。そのヒントは安泰寺にあるのかもしれません。そもそも禅を学びたいと思ったきっかけは知り合いが自殺したことから始まりました。その人は空手で全国制覇を成し遂げ、喧嘩なんて負け知らず、おまけに起業した会社は大成功と、普通の人ならば誰もが羨む人生の真っ只中でした。そんな彼が突然謎の自殺を遂げました。彼には妻と二人の子供がいましたし、幸せの絶頂にいた筈です。少なくとも自分はそう思っていました。全くもって理解できません。その時から「あぁ、人間の人生なんて儚いもんだな」と思うようになりました。だから自分は知りたい、人は何のために生まれ、そして死んで逝くのかと。自分は本や人の話などでは納得がいかないような性分なんで、こんな雲を掴む様な疑問を持っているんでしょう。そんな馬鹿な自分がが書いた文章を最後まで読んで下さってありがとうございます、心から御礼を申し上げます。   

十月二十二日  秋色に染まりゆく安泰寺にて

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