流転海07

安泰寺文集・平成19年度


正覚   (大阪府・六十三歳・弁理士)


 入院中の父親はあと七日ばかりの命とお医者さんに言われている。
 私と父親の関係を振返ってみた。
 幼年期と少年期は理想的な関係であった。父親は勤務先にもたびたび息子を連れて行き、自慢していた。国内の小旅行にも何度も連れて行き、好奇心の塊の幼年期・少年期の息子の質問にもすばらしい回答を行ってくれた。
 一九五〇年代の小学生は皆んなよ〜く働いて家の助けとなっていた。私も、風呂の水汲み、風呂焚き、家の戸締り、食事の買い物、タマネギの皮むき、溝そうじ、家の大そうじ、正月の飾り付け、リヤカー押し等々、喜々として楽しく働いた。小学生及び中学生の息子は父親をとても尊敬していた。父親は息子を自慢の種としていた。
 ところが、息子が大学卒業と共に、親元を離れて、神戸市や佐野市(栃木県)で働いて社会の苦労を味わってみると、私の父親がホンマモノないことに気付き始める。つまり、社会人として、責任逃れを巧妙に行う自己中心主義者であって、かつ、上手にカムフラージュしている人間であるという点に気付いた。


   二十九歳になった息子の私が、人生の最大の勝負をしようと考えた際、父親は父親として最低の言葉を発してしまった。

(1) エンジニアとしてS株式会社で五人前も働きに働いたので、同僚や直属上司から足を引っ張られ、出る杭の頭を叩かれていた。自分の特技と性格を見極め、弁理士を目指したいな〜と、故郷の大阪に帰ってきた。その際、父親は「息子は会社で失敗して帰ってきた」と母親に言ってしまった。

(2)故郷の大阪に帰って、四ヶ月間、中ノ島図書館で毎日弁理士試験の勉強をしていた。父親は、「二十九歳にもなって青い書生みたいに勉強なんぞして!」と叱るが如く息子に言った。

(3)故郷の大阪で五ヶ月目に兵庫県西宮市のK社でエンジニアとして再就職し、そこで仕事をやりながら弁理士をめざすことを父親に伝えた際、「K社は二時間も掛ってしまう。家から通勤できんぞ。歩いて通勤できるM工業なんか良いのでは!」と勧めてくれた。K社は私のエンジニアとしての才能を高く評価して、職場も開発部に決定しており、若いエンジニアとして誇りに感じ希望に燃していたのに。

 それから、約二年間、私と妻と娘二人は宝塚の小さな借家に住んでK社へ毎日通勤し、無事に弁理士試験にも合格できた。
 父親と母親は「隠居する」と言ったのは私が三十二才のとき。私と妻と娘二人は再び大阪の故郷に帰って、両親と同居を開始した。父親の「隠居」とは、以下の通り。
(1)中谷家の一切の義務及び責任は息子が負うべき事。
(2)最終決定権、各種権利、利益、名誉は父親が保留する事。
 頭が人の七倍も良く、オタメゴカシを演じ、巧妙に表面を美しく飾って、結局、十一年間の長きにわたり、上記(1)(2)を実行した。
 十一年目には車で十分程の新興住宅地に移った。私をして、多額の借金をしてでも、転居を決意せしめたのは、父の一言であった。その一言は、具体的にはここに書きたくない。要は、父親・母親の指示通りに私と妻が動かない点を強調した一言であった。
 それから二十年間弱の期間は、私と妻にとって、自由で幸福な生活であった。時々、「田の草刈りに来い」、「ゴミを捨てにゴミ捨て場まで行け」「溝そうじに来い」等の電話が掛る程度となった。
 三年前に私の母親が亡くなり、一人暮らしとなっていたので、一年半前に私と妻は父親と同居を始めた。九十才を超えても、当主の息子に、「植木の枝を運んでおけ」「猫が近づかないように板を立てろ」等と細かな指示を与える。さらに大きな指示をも発する。「私が死ぬまで、古い家の壊しや庭の改造をやるな」と言う。息子も六十才を越しているのだから、今、必要な改築・改造を行わないと、体力・気力も無くなると説明して、今年六月から工事に掛った。父親は七月に虚血性腸炎で入院してしまった。庭には、多数の果樹等が茂っていて、畑か林か判らぬ程であったが、父親にとってはお気に入りの庭であったかも知れない。息子は一切を切り倒し、かつ父親が二十歳台に建てた建物も壊した。何もかも無くなった庭を見て、父親は心を痛めたのが腸炎の原因であったかも知れない。
 二週間程度で退院できるはずが、食物を気管に入れて、肺炎となって、今日に至っている。
(以上)


伸記:
 父親と私の関係は、濃密な「立体的な」人間関係にあり、もっともっと複雑な多角立体型であります。今回は、人間として尊敬していても、その行為としては心から許し難く思っていることを書きました。                

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