流転海07

安泰寺文集・平成19年度


直実 (千葉県・三十歳・高校教師)


安泰寺での参禅から二ヶ月が経ち、こうして文集を書く段になって、「あの十日間はいったい何だったのだろうか」と考え始めると、思いは次々と飛躍し、頭の中でぐるぐる回り、結局考えることに疲れ果てて「もうそんな事どーでもいいや、やーめた。」ということを繰り返している自分がいます。

安泰寺での参禅の前と後で、私は明らかに変わったと思います。やはり特別な十日間だった。と、書いたところで、もう一人の自分がツッコミを入れます。「それなら別に安泰寺を境にしなくたって、自分は日々変わってるじゃないか。安泰寺体験だけを取り立てて言うのはおかしいんじゃないか。」と。そしてさらにまた別の私が「『自分が日々変わってる』って言ったって、変化を続けているのは別に自分だけじゃない、この世界全体が常に変化しているんだから、『変化を続けている』ということにおいては何も変化してないのであり、こうした点において自分と世界との間に境界線を引いて区別することはできず、結局安泰寺だなんだといったって何にも特別なことはないんじゃないか。安泰寺が特別なら、ここ千葉県松戸のアパートだって特別だし、あの十日間が特別だって言ったって、地球はあの日も今日も変わらずちゃんと回っているんだし、この日常生活と安泰寺との違いは自分の生活態度だけであって、そこに有り難さ、特別さを見出さないのは結局全部自分の問題なんだよ。結局、日々の生活を大切にしてないだけじゃないか!このわからずやの思い上がりが!」と、頭の中がいっぱいになったところで、こんな『ぐるぐる』 が始まる前に居たいつもの自分が「ま、そんな事どっちでもいっか。悩んでも、悩まなくても、実際、時計の針が5分進んだこと意外は特に大した違いはないし、意味無い、早く風呂入って寝よ。」なんて幕を引こうとし、そこからさらにまたさっきの奴が「いやいや、無駄なことでも真剣に悩み考えたっていうことは、必ず意味があることだよ」って始まって・・・。結局あれからこんなことを繰り返している毎日です。思い起こせば、そんな風に頭で考えることに疲れたから、頭じゃなくて体でわかりたくて、坐禅をしに安泰寺に上山したはずだったのに(苦笑)。

 さて、そんな第二、第三の自分の介入を入れずに安泰寺での体験とその後の自分を省みてみると、やはり変わったところはあるんだと思います。まず、思い通りにならないこと、イライラすることがあったときに、「ま、人生いろいろあって当たり前。そんなときもあるよね。」と、ドツボにはまる前にふわっと浮かんでくることができるようになったことです。第二に、「あれこれ考えるより、まず行動。行動しながら考えよう。」と、以前より『行動』の割合が高くなったと思います。そのほうが後で後悔することは少ないんだと、段々わかってきました。これは私にとって本当に有り難いことです。

 安泰寺で体験したこと、感動したこと、出会った人たちのこと、グサッときた言葉、はっとさせられたこと、じわーっときたこと等々は、私の中にたくさんたくさん残っていて、今でも鮮明に思い出すことができます。でも、大切なことは、その思い出に浸って「あー、いい経験したなー」とノスタルジックになることではなくて、今この瞬間瞬間に、安泰寺も含めた今までの私の人生で得たことのすべてを投入して、全力で取り組んでいくことなのだと思うのです。そうすることが、私が安泰寺でお世話になった皆さんにできる唯一最大のご恩返しなのであり、同じように今までの人生で出会ったすべての方々、いや、生かされて生きているこの世界すべてに対してできる唯一のことなのだと思います。

 こうしてえらそうなことをつらつらと書いたって、実際の私は大して変わってません。でも、変わるとか変わらないとかじゃなくて、「とにかく『今』なんだ!『今』しかないんだ!」と自分に警策をいれながら、なんとか毎日を過ごしているのが今の私です。



なんて、また考えすぎてしまいました。

頭を使うのは、もうこの辺までにしましょう。



ありがとう、安泰寺。

ありがとう、安泰寺で出会った皆さん。

ありがとう、今までお世話になったすべての皆さん。

ありがとう、この世界。

合掌

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