流転海07

安泰寺文集・平成19年度


良和 (鳥取県・清宗院住職)


 田んぼのことです。こちら山陰地方、今年は春から夏が来るまで晴天の日が少く、山に囲まれたこの地では稲は日照不足気味で姿は小さく、それが最後まで尾を引いて、収穫は今一つ上がりませんでした。それでも八月に入ってから以降のあの連日の暑さで病っ気は吹っ飛んで、穂の実る頃の好天気に穂の充実度は良く、くず米は少く、最終的にはまずまずの年でした。
 田畑の仕事を手がけるようになって三十年ほどになります。その間、何だか心配していたのは天気のことだけだったような気さえします。四季のある穏やかな自然、この恵まれた条件の下でのはたらきの中で、人としての感性を育てて来た私共日本人、今、この恵まれた自然条件に狂いが生じているということ単にマスコミが流すウワサばかりではなく、どうも事実だということです。四季のある穏やかな気候と申しましても、その間には年毎に、部分的に異変があるのは当然のことです。平年並みということも、どこまでも統計上のことであり、一年を通じて平年並みが平年にあるのではないということ承知しているつもりです。天候変異は、むしろいつもあり、昔から 飢饉の年があったことも承知しています。たゞ、大地に直接する田畑の仕事にあって感じますのは、これまでの天候異変とは質的に違うのではないかということです。最近野菜でも種をまく時期がわからなくなって来ました。例えば秋の大根です。種をまくのが早過ぎると害虫にやられて全滅です。遅過ぎると雪が来るまでに成長が間に合いません。こちらでは九月十日から十五日の間でした。それが、最近ではそうとばかり言えなくなりました。たゞ、農薬を使うのでしたら、こうした気遣いは不用です。害虫も農薬一ふりで片づきます。農業技術(品種改良・農薬・ビニール等の資材など)の進歩で、少々の天候異変にはどうにでも対応出来るようになりました。四季には関係なく、たいがいの作物はその気になれば何時でもつくれます。天候についてそう神経を尖らさなくても大丈夫です。世の中の構造も変り、生鮮野菜ですら外国から輸入出来ます。こうしたことは一面では、例えば、世界に今も飢えに苦しむ国が在ることを聞いたりしますと、私は大変喜ばしい時代、場所に今居ると、心底そう思います。しかし、です。このことは他面では、天候に狂いが生じていること、そのことをいくら口で言ってみても、それがどういうことなのかの実態について、今一つ膚で感じる切実さから遠ざかることにつながりはしないか。私はこのことを恐れるのです。
 猪を代表とする鳥獣の人の生活圏への侵入のことです。この春は猪ばかりではなく、ヌートリア(ネズミを猫ほどに大きくしたような動物)に悩まされました。近年、カラス、サギ、カモ……と鳥獣の人の生活圏への侵入は、年々ひどくなって来ています。こうした鳥獣の出る範囲が広がって来たのは、山を含め田畑に人が入らくなって来たからでしょう。多分、鳥獣の目線に立ったら、人が大地から浮いた暮らしをしている、その間隔がガラ空きとなってスキだらけになっているのが見えるのでしょう。この村では、ほとんどが、山・田んぼ・畑での働きでもって生活の収入源とはしておりません。むしろ、他から得たお金をこれらに注ぎ込んでいます。お金のことから言ったら、山・畑・田んぼはやらない方が賢いです。それでもやっているのは、これまでに培って来た心情として基本的に、大地が荒れるのが忍び難いからです。しかし、農業従事者は高齢化し、それももう限界に来ています。この村がそうであるなら、この傾向、程度の差はあれ、日本中、どの村でも同じではないでしょうか。国家、歴史と大上段に構えるのは私の好みではないのですが、村に暮らしておりますと、ゴマカスものとて何もなく、世の実態が隠しようもなく露わです。恐らく、日本の歴史上、これ程までに国土の荒廃した時代はなかったでしょう。特に江戸時代以降、日本というクニ・ココロを実質的に支えて来た稲作を軸としたムラは、今瀕死の状態です。

 例えば、この異常気象のことです。国土の荒廃のことです。私が改めて言うまでもなく、今では誰でも知っていること、心配していることです。その上に何を今更、ということでしょうが、それでも敢えて私が言いたいのは、その「知っていること、心配している」その切実さです。情報社会と言われる昨今のことです。情報が手軽になり繰り返し言われると却ってその切実さが希薄になって来る。村に居て、田畑に関わっていて、こんなことが頭の中をよぎる此頃です。

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