流転海07

安泰寺文集・平成19年度


達生 (明光寺内・六十九歳・センセー)


「手紙なんかよこさなくていいから、明光寺に行ったら、安泰寺と比べたりしないで、そこの世界に全身全霊を投げ入れて励むことだ」と無方堂頭から、安泰寺をあとに博多の明光寺専門僧堂へ向かうにあたって注意を受けた。またそれより先櫛谷宗則師からも手紙で、安泰寺と明光寺を比較して見るといったことのない様にと言われていたが、しかし他方「安泰寺を外から見ると、そのユニークさも分ってくる」とも述べられてあった。それでこうした注意なり指摘なりを心にとめおきながら、ここ明光寺でこれまで九ヶ月ばかり過ごしてきたのであるがーだから比較の積りはないながらそれでもやはりーそれなりに気付かされるところはあった。それからの二、三を、比較の意味合いでなく、以下にピックアップしてみようと思う。
 さて、安泰寺の特色として気付かされた点の一つは、(安泰寺にいたときにはそんなことは当たり前のことと思っていたのだが、)堂頭が年がら年中かつ四六時中寺に居るということである。年末・年始と春先の托鉢に京阪神方面へ出掛けてゆくとか、夏のお盆の棚行の手伝いのため一週間ほど寺をあけるとかする以外は、一年中べったり寺から離れないということだ。そして坐禅(朝夕の坐禅と接心)、作務はもちろん、冬場の輪読会にあっても、大衆と共々に坐り、汗を流し、議論に参加するのである。三度の食事を共にするのは言わずもがなのことである。そうして、まるで獲物を狙う猛禽さながらの眼で四方八方に睨みをきかしてくれているのだ。時には雷が落ちることもある。ただ十の注意が十とも正当だったと思えないこともあるし、また注意するにしても外国人と日本人との間で依怙贔屓がないではないと思えることもありはする。しかしそれでもその折々の注意がのちのちの自分にとって有り難いものになってくるのは、やはり毎日ひにち身近にいて、厳しく見守ってくれているからこそのことだ。つねに子供の近くにあって温かくまた厳しく見守っている母親にしてはじめて我が子が育てられるようなものだ。
 第二の点は、坐禅が叢林の修行生活の中心をなしていることは歴然としているが、その坐禅にしろ、あるいは作務にしろ、はたまた輪読会にしろ、すべてが徹底的であって厳しいということだ。安泰寺の中にいると、まわりの者が皆そうするから、それに励まされて引っぱられて自分も共々にやってゆけるのであって、一人では到底やれないだろうと思われる。大衆の威神力というものだ。例えば坐禅だと、朝夕各二_の坐禅なら一人でもやれるかも知れないが、月二回の接心(月初め五日間の第一接心と、月半ば三日間の第二接心、いずれも一日十五_)となるとまず無理だろう。
 作務もきつい。午前八時に始まり、二十分の中休みをはさんで正午まで。午後は、主として自分が担当の仕事をする。自給自足体制をとっていて米・野菜は自分たちで作るのだが、何しろ十二月から三月迄の四ヶ月間は雪に覆われて戸外での仕事が出来ないものだから、その分残りの八ヶ月間に凝縮してやることになるために、いきおい作業がハードになるのもやむをえまい。とりわけ自分にとってきつかったのは、堆肥作りのための山の斜面の刈り草集めだった。夏の炎天下、蒸せるような熱気のなかで、刈られた草を熊手で集めてゆくのだが、腰痛もちの自分には腰にこたえてつらかった。畑仕事の方に回った日などはむしろホッとしたくらいだ。好きな作務は薪割り。要領が分ってくると仕事もはかどって楽しかった。ともかく作務には事欠かないというよりも、無尽蔵にあるという感じだった。
 他方冬場は雪にとざされて戸外での作務が不可能となるので、代って勉強会(輪読会)の日々となる。「典座教訓」とか「正法眼蔵随聞記」とか「知事清規」とかをテキストとして、それを輪番制で読みすすめながらその内容について担当者が自身の見解を発表する。そのあと皆で議論するというものだが、なまじっかな発表だと突っこまれ理解の至らなさを曝すことになる。そしてまたこの様にひと冬かけて読んだものについて、あるいは自分にとって関心あるテーマで、最後にレポート(五十枚)にまとめて提出する事を要求されるのだが、これも真面目に受け止めれば随分とシンドイ仕事となる。少くとも自分にとってはハードな課題だった。いずれにせよこうした坐禅なり作務なり学習なりで一日が張りつめていて毎日がアッという間に過ぎてゆくか感じだった。
 次に現在の安泰寺の特色としては、長期・短期ひっくるめて滞在者の三分の二が外国人だということだ。それにはおそらく堂頭がドイツ人だということが大きな要因をなしているであろう。それにまた、「来る者は拒まず」というのが寺の方針だから、人づてやらインターネットなどで安泰寺のことを知った者、仏教を学ばんとする熱意において熱心な者たちが、容易に世界の(主としてヨーロッパの)各国からやって来ることになる。そのため日本の中のお寺でありながら英語が公用語のようになっていて、日本語がむしろ肩身の狭い思いをしている。これに類する寺が他にあるのかどうかよくは知らないが、このようにヨーロッパ人が日本のお寺に増えてきているといった傾向は、彼らがそれだけ熱心に仏教の教えを求めているということであって、仏教(とりわけ禅仏教)が今後彼ら自身によってヨーロッパに伝えられ広められてゆくようになることの一つの徴候であり、かつまたそれがあるいは時代の趨勢なのかも知れないと思われたりもする。
 それにしても安泰寺での安居者に日本人が少いのは、一つにはこの叢林でたとえ何年修行しようとも、僧侶としての資格がつかないということが考えられる。というのも、どこかの寺の住職たりうる資格を取得しうるためには、本山か地方の専門僧堂で然るべき期間安居せねばならないことになっているからである。そのため寺の子息としてはいきおい本山なり僧堂へ行くことになるので、安泰寺のような叢林(サンガ)に長期滞在する日本人はいたって少く、やって来る日本人のほとんどはただ接心のときにのみ上山する在家者ということになる。こうした実情を見ていると、本物の仏教はやがて日本からヨーロッパへ移っていってしまうのではあるまいかと危惧される。
 次に安泰寺での六知事的な役割は長期滞在者に割り当てられるのだが、そのうちで典座は(原則として二ヶ月以上の滞在者に)二日毎のローテーションで回ってくる。自給自足を生活の基本としているので、米はもちろん季節の野菜類のほとんどすべてを栽培していて、それが食材となる。ところが野菜は穫れだすと限られた期間に次々と出来るものだから、典座としては同じ食材を使っていかに料理に変化をもたせるかが工夫の仕どころとなる。というのも料理に変化をつけるための買い物などまずもってかなわぬからである。最寄のバス停まで四キロの山路をくだり、さらにそこからスーパーまで一日数本しかないバスで三十分もかかるからだ。燃料はすべて薪なので火力の調整の点でもむづかしい。そして、午前の作務でお腹を空かして戻ってきた人たちが十二時かっきりにすぐ食べられるよう準備をととのえるのも決して容易なことではない。ともかく自分のようにそれまで自ずから料理などほとんどなかった者にとっては、この典座は大変な役目だった。しかしまた離れてみて考えると、学ぶところの少くなかった、そして工夫の仕甲斐のある仕事でもあったと知らされる。

 外から見たときの安泰寺の特色は一応そのくらいにとどめて、次には明光寺の特色と思えるものについても少しふれておこう。それは先にも言ったように、決して両者を比較するためではなく、この文集を読む人の大方がまずおそらくは明光寺については何も知らないであろうと思われるからで、いわばその紹介のつもりで、ごく簡単にその特色と思えるものの二、三を取り上げてみようとするまでのことである。
 明光寺での一番の特色と思えるのは、法要がその中心を成していることである。その法要には二つあって、寺で行われる法要を寺法といい、檀信徒の家で行われるものを檀務と言っている。寺法として行われるものには初七日にはじまり忌明けの四十九日の法要にいたるものもあるが、多くは一周忌とか○○回忌といったものである。何しろ明光寺には檀家が千軒もあるので、土曜・日曜にはまず間違いなく寺法があるし、多いときには一日に二つ三つと続けざまのこともある。他方檀務というのは、檀家さんの家で営まれる法要であって、枕経とか葬儀はもちろん初七日から四十九日の法要、さらには月詣りなどもある。こちらはまずほとんど毎日あり、それが多いときには一日に五つ六つと重なることも稀ではない。そのときには安居者の雲水が出向くし、それで足りないときには役僚さんも行くことになる。そうして寺に残っている者の全員が、寺法の方に出るのである。ともかくいずれの法要も唱えるお経はだいたい決まっているので、同じお経を繰り返し唱えることになるのだが、そうしている間にそれまで気付かなかったお経の文句の意味合いがふと理解できたりすることがあって、それがこうした法要に加わることの有難さかと思っている。それにまたこうして唱えているうちにお経を憶えてしまうことは、寺の子息たちがほとんどの明光寺での安居者にとっては、自分の寺に戻ったときの即戦力としてたちまち役立つことなのである。一方こうした法要のほかにも、「朝課」と呼ばれる毎朝の法要(おつとめ)があって、これまた安居者たちにとっては、自らの寺において同じように必要とされるものなのである。 他方、坐禅は朝晩各一_ずつあるし、また接心も年二回臘八接心、涅槃会接心がありはするが、坐禅が寺の生活での中心となるには程遠いというのが実情である。それからまた作務も、午前・午後とも各一時間半くらいであり、かつ多くは屋内外の掃除的なものなので、決してハードなものではない、というよりやる気さえあればむしろ楽なものである。
 明光寺での生活にあって自分にとって何よりの楽しみとも言えるものは、何か特別の法要のさいなどには説教師さんによる法話が聞けることである。また人権学習とか布教講習会とかいろいろと学ぶ機会があって、それらにも参加させてもらえるのは本当にありがたい。一方月に一度「やさしい禅に親しむ会」という一般の人むけの集りがあって、そのつど異なる講師による話が聴けるのもうれしい。ともかくこうした聞法の楽しみは、おそらく七十歳ちかい年令のせいで、飲食への楽しみとか肉体的な楽しみへの欲求が次第に減退してゆくのに反比例して、心の栄養を求める思いがそれだけ少しずつ強くなってきていることに由来するのではあるまいか。
 現在の明光寺の堂頭は、佐世保にある洪徳寺のご住職の山本成一老師が兼務しておられる。この洪徳寺は檀家数が二千件というから、いろいろの点できっと多忙であるにちがいない。そのためでもあろうか、明光寺には月の半分くらいしかお見えにならない。お見えになっている間は僧堂全体に何かしら張りつめた空気が漂う。逆に不在のときには何となしにリラックスしたムードになる。つまり堂頭というのは、ただそこに存るだけで大きな力を発揮するものだということを思い知らされる。ただし実際には居られないことが多いので、そのため寺の諸行事の運営などは役僚さんたちに任されることもままあるようで、従ってすべてにわたって堂頭の目がゆきわたり意が反映しているかどうかは分りかねる。しかしそれにしても、七十五歳という高齢であるにもかかわらず、車で佐世保と福岡のあいだを往き来されて、二つの寺を導いていっておられるそのタフさにはまったくもって脱帽させられる。その上野菜作りが趣味らしく明光寺での畑は、役僚の善照さんが手伝いはするものの、耕運機などを動かして大方はご自身でやっておられる。これまた脱帽だ。
 ただそこで作られるものは限られていて、春には玉ネギ、夏場にはキューリ、オクラ、大根、秋口には里芋といったものが主だった収穫物である。もちろんそれらは典座に回されて食台にのぼることになるのだが、しかしそれらのみで十名前後の安居者の食材がまかなえるわけではないので、典座としては必要に応じて近くのスーパーへ買い出しに行くことになる。そうした点は町なかにある僧堂の便利なところであろう。燃料も都市ガス使用なので、その点でも典座としてはやりよいのではあるまいか。
 明光寺で最も感心させられるのは、(僧堂ではそれが当り前なのであろうが、)応量器を用いての食事である。まるで茶道における作法のごとくに、一歩のすきもなく、いかなる無駄をも排して、まさに徹頭徹尾理にかなった所作にしたがって流れるがごとくに食事がすすめられてゆくその様は、「美しい」と形容して過言ではあるまい。食事作法としてこれ程までに洗練された形はおそらく世界でも他に例を見ないのではあるまいか。威儀即仏法と言われることのまさに実物見本である。それだけにまた自分のように一向に応量器の使い方がマスターできない者は、古参の雲水たちのよどみない流れの中にあってはそのもたつきがいかんとも露わになり、なんとも見苦しいかぎりとなる。ともかく明光寺にあって、自分にとり今もって最も難しいのは応量器を用いての食事作法である。

 最後に、明光寺にいる現時点から安泰寺をふり返ってみると、そこでの坐禅なり接心なりが、まさに「無所得常精進」の坐禅であることを知らされる。体の調子の悪いときなどには、とりわけ接心などでは、坐るのが本当につらく、はたして最後までやり通せるだろうかと危ぶまれることもしばしばだった。だからともかくも終ったときには、ヤレヤレ何とかすんでくれたとホッと一息つくのだが、しかしまた間なしに次の接心が始まるといったことの繰り返しだった。だがそのようにして坐禅に精を出したからといって全く所得なし、それこそ「何にもならない」のだ。そんなことは最初から分っているのだが、それをまさに体でもってたたき込まれるというわけだ。その点明光寺では接心でも日々の坐禅でもはるかに楽になる。ところが不思議なことに、そうなるとこんどは逆に、時間が空いたりすると、ひとりで坐りたくなるのである。そして自主的な坐禅というものは何とも落ち着くのだ。只管打座とはこういうことを言うのかと納得される思いになる。
 一方、最近とみに自分がトシだということを痛感させられている。というのも高校入学前に肋膜炎を患ったため、右肩下がりに骨格が固ってしまっているのだが、それがこの頃どう仕様もなく露わになりだしたからだ。つまり、本人としてはまっ直ぐ坐っているつもりでも、いかんとも右に傾いてきて、たまに警策をまわす人からはその都度直される。しかし直されたままの姿勢ではどうにも不自然でぎこちない。そのためまたやがて徐々に右に傾いてゆくことになる。この事をひと頃は悩み、これではとうてい坐禅する資格などないと落ち込んだりもした。しかしそのうちに思いなおして今は、まっすぐな杉のように坐れなくてもよいのではないか、曲った松は曲ったなりにそれでまっ直ぐなのではないか、と自分を慰めてみたりしている。
 それからもう一つ、トシをとるとは記憶力がとみに減退することだとも痛感させられている。たとえば、読書は前々から好きで今も本はよく読むのだが、そして読んでいるあいだは一応理解しているつもりなのだが、読み終えてしばらくしてからその内容を思い出そうとすると、まるで頭の上をツルリとすべり落ちてどこかへ行ってしまったかのように、ほとんどが記憶のうちにとどまっていないのだ。思い出せないのだ。読書だけではない。これまで記憶していたことまで次々と消えてゆき、思い出せなくなっている。そのようにして人間の記憶なり知識なりの空しさを繰り返し味わされていると、もう知識などにたよってみても何にもならない、知をもって何かをしようとしてみても始まらないと思い知らされる。そうなると、結局のところ、今ここで出来ることをするしかなくなる。つまりは、自分にとって残るのはただもう坐ることのみとなる。かくして、トシゆえの傾いた姿勢のまま、ただもうひたすら坐禅に打ち込むよう努めるしかなくなる。仏智の一切がこの坐禅のうちに含まれていることを信じながら、また仏の姿を真似て坐ればそのままで仏を修し証しているのだと信じながら、無所得の坐禅に只ひたすら精進してゆく、もうそれしかないと思い定める此頃である。  
           (二〇〇七年十月二十四日)

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