流転海07

安泰寺文集・平成19年度


貞夫 (横浜市・七十一歳・元新聞記者)


 四半世紀も前の冬のことです。ドイツがまだ東と西に分かれていたころです。北海に浮かぶ小さな島、ランゲオーグ島(西独)を訪れました。島の墓地に眠るドイツ人女性歌手、ララ・アンデルセン(本名リゼロッテ・ヴィルケ)の墓碑の写真を撮るのが目的でした。あの「リリー・マルレーン」を歌った歌手です。
 夏、リゾート地として賑わう島も、真冬のその時期、海鳴りと風の音だけがうら淋しく聞こえたものでした。タクシー代りに馬車が一台走っていました。馬車のお陰で、墓地には簡単に行けたのですが、さて、それからが難儀でした。目指す墓がなかなか見つからないのです。町に人影は全くありませんでした。いわんや、墓地に案内を請える人がいるはずもありません。
 途方にくれていた将にその時、墓の小道を、こちらに歩いてくる母子連れの姿が認められました。忽然と、という表現がぴったりの現れ方でした。母親と手をつないだ小学二、三年のその男の子が、ララの墓を知っていてくれて、ほんと、助かりました。少年の小さくて、冷たい手と交わした別れ際の握手の感触は忘れられません。
 長い前置きになりました。
 涼しさがやっと信用できるようになった、この十月中旬、伊豆に幼友達の墓を訪ねました。四つの病気との苦闘の末、この四月に友は逝ってしまいました。私自身といえば、昨夏の手術の尻尾に絡みつかれて、体調の芳しくない日が続きました。その友人の葬儀にも出席できず、何か宿題を抱えたような気持ちのまま日が経ちました。
 その宿題のせいでしょう、墓参りに行かなければ、という思いが猛暑の中、折に触れ胸を過ぎりました。十月、長くしつこかった猛暑を何とか打って棄って、よし出かけるか、となったわけですが、ここで、はたと立ち止まってしまいました。墓地の所在は分かっていたのですが、友の墓碑の区画が不明だということに気づいたのでした。友人は六年前に最愛の奥さんを先に送っており、遺族も遠方にいて、などなどの事情が重なり、どうしても区画を突き止められないのです。
 墓地の管理人は、どうやら極々限られた人数であるうえ、墓地の手入れ、清掃のみをカバーしている様子で、電話でやっとつかまえても、全く埒があきません。いみじくも、と言ったらいいのか、ゆくりなくも、と言うべきか、ランゲオーグ島の記憶が鮮やかに甦りました。墓地の名称から推し量るに、ランゲオーグのそれよりもはるかに規模は大きいように思えます。
 区画も知らずに出かけ、いざ墓地の入り口に立って呆然とする己の姿が、いやでも見えてしまいます。区画は事前に、是非知っておかなくてはならないぞ。インターネットやら、役所やら、思いつくものを手当たり次第に活用し、かつ連絡をとって、ようやくのこと管理会社を突き止めることができました。やれやれです。
 「憩」と刻まれた友の墓碑は、伊豆の海が臨まれる丘の上にありました。丘陵の最上部にあるそこからは、ほぼ墓地全体に目が届きます。区画調べを途中で投げ出さなくてよかった。墓地の広がりを眺めながら、つくづくそう思いました。墓参の人影は、ついぞ一人も見かけませんでした。管理人の姿もありませんでした。墓地の拡張工事が進められているらしく、かなり離れた所にブルドーザーが動いているのが遠望されただけでした。区画が分からなかったら、それこそお手上げだったにちがいありません。
 墓前で、持参の一枚の写経を燃やし、人の気配が全くないことをいいことに、大声で般若心経を唱えました。合掌の手を解いたあと、思わず口をついてでたのは、その友人の名前だけでした。名前の後ろに、友との思い出がくっ付いていたわけではありません。何も無いのです。真っ白です。いや、真っ白というより、真っ透明(?)なのです。二回、三回……。一体、何回呼んだのか。お経の続きの気分だったのでしょうか。友の追憶に感極まって、なんていう心境とはかけ離れたものでしたが。とにかく、呼んで呼んで呼び通しました。お経だったんでしょうね、きっと、私だけの。
 墓地の坂道を下りながら、思いもかけず不意に「おしまいだな」と友に呼びかけました。私自身には随分と馴染みになっている科白です。私は死後、友人、知人に送る挨拶状を家族に託すことにしています。「これでおしまいです」と、挨拶状を始めています。いったん棺に収まった身に、顔を洗い、散歩し、テレビを見、酒を飲んでという日常は、二度と再び訪れることはありません。人生は一回限りのもので、尽きたら、もう未来永劫のサヨナラです。これを骨の髄で、何かの拍子にひょいっ、と感じたりすると、底のない寂寥感にほんの一瞬ではありますが、呑まれます。
 実は、この「これでおしまい」は、私の専売特許ではないことを、最近知りました。先日、書庫の整理をした折のことです。山田風太郎氏の「人間臨終図巻」「あと千回の晩飯」に並んで、同氏のインタヴュー構成本を見つけました。その書名が「コレデオシマイ。」でした。「へえー」、と思いながら頁を繰って拾い読みをしました。この一言は山田氏のものではなく、あの勝海舟が今わの際に発した、今生最後の言葉であることが記してありました。その件を読んで、今度は、「ふーん」でした。「へえー」と「ふーん」、つまり著名作家と歴史上の人物による相乗効果で、気分は何となく、"自慢ぽく"なったものでした。 「これでおしまいだな」と、いきなり呼びかけられた友は、一体、どう受け取ったのだろうか。来世があるのかどうか分からない自分が、分からなくてもいいと思っている自分が、こうしてあの世の友に呼びかけるのには、自身、矛盾を感じてはいます。が、墓前に額ずき、合掌したことで心は十分、満たされました。「お前が満足したなら、それでいいじゃないか。そういうことどもも含めて、もうすべてオレには関わりないよ。」天のどこかから、そんな声が聞こえてきます。「そうだよなあ」。私はそう答えます。
 ランゲオーグ島のララ・アンデルセンは、寸刻も絶えることのない、荒々しい冬の海の潮騒に囲まれていました。
 伊豆を愛し、望み通りその地に終の栖を定めた友人夫妻は、十月のやや曇りがちのその日、白く霞んだ海の眺めを楽しんでいました。
 今は、墓参をする側ですが、やがては……。そろそろ、この墓参の記も、これでおしまいにしなければ。

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