流転海07

安泰寺文集・平成19年度


大地 (愛媛県・五十六歳・龍現寺住職)


十月にアメリカで活躍されている池田永晋師に内子町でお目にかかった時に、
「アメリカでは、様々な宗教があるが、道元禅師の禅が最高峰ですよ。」
と、おっしゃっていました。六、七年前だったと思いますが、やはりアメリカに数年おられた方が、
「アメリカでは様々な宗教があって、道元禅師はその中の一つに過ぎない。」と言われたと人づてに聞きました。人によって、ずいぶん見方が違うものだと思いました。
 私は、勿論、安泰寺の禅が最高と思って修行させていただいたわけですが、以前安泰寺で修行された人の中でも、神秘体験だとか何とかの瞑想だとか言っている人がいて、こういう事では道元禅師の坐禅と他の坐禅を混同される恐れがあるのではないかと思います。
 永平広録巻八の法語十一には、
「余はその名を聞くといえども、仏祖の坐禅に同ぜず、ゆえいかんとなれば、諸宗の坐禅は悟りを待つを則となす。……吾が仏祖の坐禅は然らず、これ、すなわち仏行なり」
とあります。悟りを聞く為に坐禅したり、何か特別な境涯になる為に坐禅するのではないのです。坐禅が手段で、悟りや特別な境涯が目的ではないのです。何かを期待して行動する、こうすりゃこうなると思ってやっていると、今の自分以外の将来の自分を思い描いて、そこに自分の思惑が入ってきて、そこに自ずと我見、我執が出てきます。そうすると純粋な坐禅、本当の行にならないでしょう。修行と悟りが別々なのではなく、「直下第二人無し」修行はあくまでも現実の自己に立ち帰る事で、あるかないか、わからない未来の自分の為にするのではないのです。
 この体「色」でする修行が即、証「空」なのです。「色即是空」です。坐禅中に妄念が湧いてくる事もありますが、それは天地一杯のところ「空」から湧いてくる思い「色」です。「空即是色」です。修行と悟りが一つなのです。だから「空即空」「色即色」といわれるのです。
 発心修行菩提涅槃がバラバラなのではなく、発心修行菩提涅槃が同時なのです。具体的に言えば、今、ここ、履き物を揃えて置くという事が発心修行菩提涅槃なのです。
 我々は元々、大自然の中で天地一杯に生かされているのです。それを信じて坐るのです。「夢中説夢」諸法実相であるから夢も真実です。証(真実、夢)のまっただ中において、さらに証(真実、夢)を修する(説)のです。つまり、「夢中説夢」は「証中修証」なのです。坐禅を仏行と信じて坐るのです。「南無坐禅仏」というのが、道元門下の信仰なのです。

Switch to English Switch to French Switch to German