平井

昨年の春、『何も求めずただ坐るだけ』というタイトルで安泰寺のドキュメンタリー番組がNHKで放送されました。この番組はコロナ禍という影響もあってか反響が多かったようでその後何度も再放送され、この番組を観て安泰寺に参拝に来られる方も多くおられます。ところで、安泰寺が紹介される際、一年間に1800時間も坐禅をしているという点が常に強調されているように思います。しかし厳密に言うと、「一年間に1800時間坐禅をする」と言うより「一年間に1800時間坐禅のための時間が与えられている」と言うべきでしょう。そしてこの1800時間を坐禅をする時間とするか、考え事をする時間とするか、居眠りをする時間とするか、ぼーっとする時間とするかはまったく参禅者の各々に完全に依存するのです。

ところで一体坐禅とは何なのでしょうか。どのような坐りをしていたら坐禅と言えるのでしょうか。安泰寺のように、坐禅のための時間が十二分、いや百分ぐらい与えられている環境に身をおく場合、一体坐禅とは何で自分の坐りは坐禅として成立しているのか、こういったことを絶えず疑問し参究する姿勢が不可欠のように感じます。この姿勢がなければまったく道元禅師が「諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり、住持より諸僧、ともに坐禅するを本分の事とせり、學者を勧誘するにも坐禅をすすむ、しかあれども(坐禅とは何かを)しれる住持人はまれなり、…あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを…」と言うように1800時間を功夫なき痴坐としてしまうことになりかねません。そこで、坐禅において狙うべき心のありかた(調心)について今年度の文集で考えてみたいと思います。

 

道元禅師が坐禅を主題として扱っているテキストはいくつかありますが、いずれにおいても道元禅師は薬山大師の次の問答を必ずと言っていいほど引き、これこそが坐禅の本質であると述べています。

“薬山弘道大師坐次、有僧問、兀兀地思量什麼、師云、思量箇不思量底、僧曰、不思量底、如何思量、師云、非思量”

この問答は次のように現代語訳できます。

薬山弘道大師が坐禅している時、ある僧が尋ねた(薬山弘道大師坐次、有僧問)

「そのように微動だにせず坐しておられて(兀兀地)、何を考えておられるのでしょうか(什麼思量)」

薬山が言った、「思量でないこと(箇不思量底)を思量している」

僧が言った、「思量でないこと(不思量底)をどうやって(如何)思量するのでしょうか」

薬山が言った、「非思量」

この問答のうち、特に「思量箇不思量底、不思量底如何思量、非思量」の箇所は普勧坐禅儀ではこれこそが坐禅の要術と説かれている箇所です。それゆえ、この箇所を読むことで坐禅において狙うべき心のありかたについて考えてみたいと思います。

初めに、やたらとたくさん出てくる思量という語の意味は “思い量る” という字面からも伺えますが、たとえば「ただ一切善悪、全て思量するなかれ」(六祖慧能)、「心、法界に帰すれば万象は一如なり。思量を遠離すれば智は法性に同じ」(荷沢神会)などの語に見えるように、考えること、思うこと、分別・揀択することなどを指す語です。

次に不思量底の意味ですが、底は漢和辞典を引くと動詞などの下について名詞を作るとあります。不は不可能(~できない、cannot)の意味に取る読み方もあるかもしれませんが、ここでは単なる否定(not)に取って「~しない」と素直に訳してみます。すると不思量底は「思量しないこと」という意味になると思います。しかしそうすると「そのように坐っていて何を考えておられるのでしょうか」という僧の問いに対する薬山の答え「思量しないこと(不思量底)を思量する」とはどういう意味になるでしょうか。私は内山老師の次の言葉が「思量しないこと(不思量底)」の意味を正確に表現していると思います。

“ここで祇管打坐の実際について一言申し上げておかねばなりませんが、われわれ坐禅している時でも頭に思いが浮かんで来ないわけではありません。いろいろ思いが浮かんで来る。しかしもしこの思いを追ってしまえば、それはたとえ坐禅の恰好していても、それはもはや考え事をしているのです。それでこの時「いま自分は坐禅しているのであって、考え事している時間ではない」と姿勢を正し、思いを手放して坐禅に帰るべきです。これを「散乱からの覚触」と言います。”『坐禅の意味と実際』

内山老師はここで思量することを1.思いが浮かぶこと、2.浮かんだ思いを追うこと、の2つの段階に分けて捉えています。実際、坐禅している時の私達の思量、心のありようはどのようなものかと言うと、私が好もうが好むまいが初めに何かしらの思い、たとえば「今日はつかれたなあ」とか「明日は何をしようか」といった思いがどこからともなく立ち現れ浮かんできます (1)。そして時にはそういった浮かんできた思いに直ちに同一化し、「今日はつかれたけど、明日はもっと大変な仕事があるしいやだなあ」とか「もうちょっと仕事が上手にできるといいんだけどなあ」といった新たな思いをそこから作り出し、思いの奴隷のごとく必死に思いを紡ぎ続けます (2)。「思量しないこと(不思量底)」において否定されていている思量とは、この1つ目の浮かんでくる思いではなく、2つ目の段階である浮かんだ思いの奴隷になりそれを追うことでしょう。そして坐禅において狙うべき心のあり方、すなわち坐禅における思量である「思量箇不思量底」とは「浮かんだ思いを追わないこと(箇不思量底)」を「正身端坐の姿勢をもって絶えず狙う(思量)」ことと言えるでしょう。

しかし坐禅をしていると本当に一体、この浮かんでは消えていく思いというのはどこからやってくるのか、そしてこの浮かんでは消えていく浮浪雲のような思いを自分とみなしている普段の生活とは何なのか、不思議に思えてきます。例えば普段なにか嫌なことがあった時、まず真っ先に起こることは「あー嫌だなあ」などと頭の中で独語することでしょう。しかしこの頭の中の独語も厳密に言うと私が「あー嫌だなあ」と独語しようとして独語するのではなく、ただひとりでに「あー嫌だなあ」という言葉が頭の中に現れるだけなのです。しかしながら私たちはこの独語をもって私が「あー嫌だなあ」と思っていると考え、「なんでこんなめんどくさいことしないといけないんだろう」とか「なんで自分は他の人よりできないんだろう」などなどさらに思いをつなげていきます。しかしそもそも一体誰が、何が「あー嫌だなあ」と最初に思ったのでしょうか。それは「もちろん私である!」と言いたいところですが、全く冷静に見てみますとやはりそれは「私が思う」というような能動的な出来事ではなく、ただ思い即ち言葉が私の意思とは関係なく頭の中にひとりでに現れただけなのだと思います。しかしながら私達の普段の生活はこの不思議な事実に一切気づくことなく、まったく正体不明出自不明の虚出没の思いに振り回され現実を見失っているというのが実際の姿でしょう。

それゆえ坐禅における思量である「思量箇不思量底」とは、全神経を集中させこの虚出没である思いの挙動に注視し、普段自己と同一視しているこの思いが実体のないものであることを観察し続けることとも言えましょう。それはぼんやり坐っていて「おっとっとまた考え事をしていたいけないいけない」といったような気の抜けたあり方ではなく、たとえば「なんでこんなめんどくさいことしないといけないんだろう」という思いだったら「な」の時点で直ちに気づき、そこで直ちに思いを終わらせるような全力をあげたあり方でなくてはいけないのです。この有様を道元禅師は正法眼蔵坐禅箴で「僧のいふ、不思量底如何思量、まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり」と記述しています。ここにおける如何は什麼とほぼ同義でしょう。不思量底の思量とは思いを思いとして結晶させず思いにただ気づくことで思いを空転させそこで意味を断ち切ること、そうである以上不思量底の思量においては思いはもはや思いでありながら「~は~である」といった形の思いとして成立しないため、不思量底=如何=什麼の思いと言えることになるのだと思います。

ところでいざ実際に坐禅をしているとどうでしょうか。思いに気づくことがどれぐらい可能でしょうか。面白いことなのですが、確かに集中していればさっきの例で言えば「なんでこ…」あたりで思いに気づくこともあるのですが、どれだけ集中していても全く思いに気づくことができず、「なんでこんなめんどくさいことしないといけないんだろう。しかしお腹が空いたなあ、今日のご飯はなんだろう。ああ、そういえばそろそろ典座当番が回ってくる、今使える食材はなんだっけ。大根が使えるから大根をつかっ…」あたりまで来てようやく気づくことも、そしてそれより早く気づくことも、もっと遅くに気づくことも頻繁にあるということです。先に内山老師に倣って思いは虚出没という表現を使いましたが、実は思いが虚出没なら気づきもまた虚出没であることにここで気が付きます。道元禅師は普勧坐禅儀において坐禅における心のありかたを初め「念起こらば即ち覚せよ、覚せば即ち失す」と書いた後、清書では薬山大師と僧の不思量問答に書き改めていますが、書き換えの理由もここの消息にあったのではないでしょうか。「念起こらば即ち覚せよ」とはまるでもぐらたたきゲームさながら、「もぐらが現れたならば(念起こらば)、叩いて追い出せ(覚せよ)」と同じような物言いですが、念も気づきも外からやってくるものである以上、このようなモデルを使った表現は正確なものであるとは言えません(もっと言うと、初めにあるのはそもそも念ではなく気づきでしょう。初めになぜか気づきなるものが生じ、そこから「念がありそれに気づいた」のだと解釈され客観的時間が構成されるのでしょう。だから真に虚出没なのは念ではなく気づきと言えます。ここまで来ると普勧坐禅儀における書き換えが必然的なものであったことに気が付きます)。

そこで坐禅箴の続きを見てみますと薬山大師の問答の最後である、非思量に関して次のように述べられています。「大師いはく、非思量、いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり、非思量にたれあり、たれわれを保任す」。私の意志とは関係なく立ち現れてくる思いと気づき、この私の埒外にある思量をここでは非思量と言っているのだと思います。「非思量を使用すること玲瓏なりといへども」ここでは非思量を使用する、と主語が省略されていますが、主語は非思量でしょう。非思量が非思量を使用する、とは坐禅における思量(思い、気づき)の主体がもはや私でないことを強調するための表現だと思います。坐禅をしていると特にこの、思量の非思量性がよくわかってくる、そのことを玲瓏なりと言っているのでないでしょうか。「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり」ここでも主語が省略されていますが、今度の主語はおそらく非思量ではなく私ではないでしょうか。坐禅においては気づきももはや私の働きではないのですが、だからといってなにも工夫せずぼーっと坐っていればいいわけではない。私が気づこうとして気づけるわけではないのですが、しかし六根を鋭敏に働かせ、常に気づこうという意識と努力が初めに根本になくてはいけない。非思量に任せるべきなのですが、しかしまず私が全力を挙げなくてはいけない。ここの次第を非思量をもちゐると表現しているのだと思います。この非思量という第三の思量により初めて坐禅における心のありかたが腑に落ちる気持ちがします。そしてこの非思量に打ち任せることで初めて「ああ、また気づくことができなかった」とか「今度はすぐに気付けた、よしこの調子で頑張ろう」といった気づきに対する自己採点を免れ、ただ端的に一切の余念を交えることなく気づいていくことが可能となるのでないでしょうか。私はたしかに不思量底を思量すべく力を尽くして坐るのですが、坐禅における気づき、思量の主体もはやは私ではないこと、まさしくこの次第こそを道元禅師は「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり、非思量にたれあり、たれわれを保任す」と述べているのでないでしょうか。

以上、坐禅において狙うべき心のあり方を現時点での私の理解をもとに述べてきました。しかし坐禅とは一体何で、そもそもなんのためにこんなことを行うのでしょうか。この点について考えるためには帰家穏座という坐禅の別名を思い起こすのが一番良いと思います。「坐禅=帰家穏座=家に帰り穏やかに座る」という表現からは「家とは一体何を意味するのか」、「なぜ坐禅をすることが家に帰ることになるのか」、「普段の私たちは一体家とどういう関係にあるのか。家の存在を知っているが家の外にいるだけなのか、家の存在をそもそも知らずにさまよっているのか」、「なぜ外で活動することをやめて家になど帰らなくてはいけないのか」、「その家は快適なくつろぐを提供してくれるのか、帰るに値するのか」等々といった疑問が湧き起こってきます。そしてまさにこれらの問いを考える事により、坐禅とは何で、なんのために坐禅を行うのか、さらには坐禅と修行の関係、苦、涅槃とは何か、といったことにまで理解が及んでいくのだと思います。そして私自身のことに関して言えば、まだこれらの問いに対して十分に考えることができていないため、文集としてはここで一度終わりにしてこれらの問いに対しては今後の実生活ならびに冬のレポートを作成する中で考えていきたいと思っています。

 

思い返してみると私が安泰寺に来てからもうすぐ2年経ちますが、坐禅に対する熱意は安泰寺に来る前がピークで、安泰寺に来てからはなんだか単に堕落して適当に坐っていただけなように感じます。それゆえいまいちど坐禅に対して気持ち新たに向き合うため、今年の文集のテーマとして坐禅を選んだ次第です。しかし言葉で坐禅を捉えることは比較的簡単ですが、実際に坐禅をしてみるとやはり坐禅は掴みどころがなく難しいものです。今後も精進していき、そして坐禅が坐禅で完結せず日常にまで坐禅が連続するよう心がけていこうと強く思う次第です。