Hensho
最近、お釈迦様はやはり偉大だなあと思うことがあるのですが、特に四聖諦の教えは本当に偉大な教えだなあと感じます。改めて抜書きしてみますと、その四聖諦の第一の苦聖諦は次の教えになっています。
比丘等よ、苦聖諦とは、此の如し、生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり。怨憎するものに会うは苦なり(愛別離苦)、愛するものと別離するは苦なり(怨憎会苦)、求めて得ざるは苦なり(求不得苦)、略説するに五取蘊は苦なり(五取蘊苦)。
私達は自分が望んでもいないのになぜかこの世に生を受け、そして最終的にはやはり自分が望んでもいないのにただこの世から立ち去らなくてはいけません。そしてその生の内容は如何と考えてみますと、自分が好ましい・欲しいと思ったものには執着し無事手に入ったら大喜び、自分の好みでない嫌なものには目を塞ぎ毒を吐き憎悪の炎を燃やし立てる、こんな二極の間をぶらぶらと揺り動きながらただただ自分の思いをがっしりと握り掴んでそれを後生大事にして生きているだけなのです。そしてこんな私達の生き方が実は苦そのものでしかないこと、このことを苦聖諦ははっきりと述べているのだと思います。しかしこの事実を認識することがいかに難しいことでしょうか。弘法大師は“三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し”とうたっていますが、まさしく我々凡夫にとってはこの苦聖諦を認識することが本当に難しいのであり、だからこそ単なる苦諦ではなく、苦聖諦とまで言われているのだと思います。
そして私が思うに、仏教すなわち釈迦牟尼仏ならびに仏祖らが問いた教えとは我々の凡夫的生き方がまさに苦でしかないこと(苦聖諦)を深く認識し、その認識を第一義にどう生きていくべきかを問い実践することなのではないでしょうか。その意味で、仏教の本質とは何か、という問いも修行とは何か、という問いもすべて苦聖諦にその基盤を持ち、多種多様化した宗派や修行の様相も全てこの問いに対する対応に由来しているのだと思います。そして容易に架橋し難い大乗仏教と部派仏教の思想根本理念の違いは、苦(dukkha)を単なる苦しみと捉えるか、あるいは与えられたこの自己の存在を見失うこと、今を生きないこと等々とさらに解釈敷衍して捉えるかから生じているように思います。
しかし私の安泰寺での3年間を翻って思うに、この苦聖諦の認識がどこか根本的に欠けていたように思います。現成公案には“万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく生なく、滅なし”という一節がありますが、ここにおける“われ“とは自己の生き方が苦そのものであること(苦聖諦)を深く感じ発心した修行主体としての私を意味しているのだと思います。その意味で言えば、私の安泰寺での修行生活はまさに”われにあらざる時節“であり、自分がまどひの存在であることも業報輪廻に苛まれた苦の存在であることも感じておらず(一体なぜこの自覚なしにさとりや諸仏、修行といった諸規範が自身を導くものとして真摯に受け止められるのでしょうか!)、ただひたすらエゴを固めて肥大化し自是他非の精神で不平不満を勝手につのらせながら過ごしてしまっていただけであったと今になってようやく気がつきます。
私は来年から他の僧堂に行く予定ですが、ここ安泰寺で学んだこと・自分が積んだ反省すべき点を踏まえつつも一度安泰寺のことは全て忘れ、その僧堂の教えと規矩に従って修行していきたいと思います。最後になりますが、3年間私のようなものに指導してくださった堂頭さんならびに共に修行してくれた安泰寺の皆様にお礼申し上げます。皆様の修行が円満に歩まれることを願っております。至祷至祷。
返照 九拝