笠原

托鉢の帰りに

托鉢の帰りのバスの中で、この文章を書いている。事前に法衣の着け方を教えてもらい、般若心経をギリギリで暗記して、5日前神戸へ向けて出発した。私は托鉢僧を見かけたことはほとんどなく、もちろん布施をしたこともないので、本当にお金が入るのか、道中半信半疑だった。初日は神戸三宮駅で降りて、まず先輩にデモンストレーションしてもらうと、ものの数十秒で鉢盂にお金が入ってきて、いきなり驚いた。その後は一人で托鉢を続ける。覚えての般若心経を結構間違えて、心中では動揺したが、なるべく堂々と冷静沈着を装って立ち続けた。すると、そんな私に対して、「ご苦労さま」「がんばってください」と声をかけたり、手を合わせたりしながら、次々とお金を入れてくれる方が現れるのである。とくに、こちらが布施を頂いているのに、「ありがとう」と言って行く方がいるのは、不思議な感覚であり、また感動的であった。安泰寺に来て半年しか経っていない、しかも得度をしているわけでもない私が、衣を着て、般若心経を唱えるだけで、こんなことが起きるとはどういうことだろうか。たぶん私に対して布施をしてくれたのではないだろう、私に仏陀やその継承者たちの姿と行いを見たからこそ、そのようなことが起きるのだろう。

春からの輪講では、『道元禅師清規』を取り扱った。そこでは、仏祖から伝わる作法を守ることが口うるさく言われているのだが、作法の大切さ、仏陀と同じ行動をすることの大切さは正直いまいちピンと来ないところが多かった。しかし、現実には、仏陀へと連なる袈裟を着けて、応量器を持って立つことで、自分の財産を捨てるという有り難い行為を人々に起こさせるのである。するも感謝の気持ちが自然と生まれて来るのだが、私にできることは心を込めて低頭して、般若心経を唱えることしかなかった。

托鉢中だけでなく、歩いているだけで礼をしてくれたり、「朝から雲水さんにお会いできてよかった」と声をかけてくださる方もいた。なんだか法衣を着けて街へ出ると、自分が自分でないような、大袈裟にいえば、仏法僧を体現する存在になったような気がするのである。するとやはり道元が言うように、袈裟を着けること、僧侶としての行いを守ることには大きな意味があるのだろうか、それこそが仏法なのだろうか。結論が出るわけではないが、テキストを読むだけでなく、現実に何かをやらないとわからないことがあるものだと思った。

しかし、自分自身托鉢を受けるほど、真剣な日々を安泰寺で送っているのかというと自身がない。いつも目の前のことが見えずに何回も同じ失敗を繰り返してばかりいる気がする。この「今この瞬間にしっかり気づいていること」は安泰寺の実践の肝であると思う。

最近こんなことがあったのを覚えている。安泰寺では食事の後皆で後片付けを行う。皿を洗う人、拭くひと、掃き掃除をする人などに分かれるのだが、決まった役割があるわけでなく、毎回それぞれが自分のやるべきことを判断して、速やかに行わなくてはいけない。しかし、その日は皿を洗い始める人が中々現れなかったのである。洗わなければ、拭き始めることもできないのに! そこで堂頭さんから、もっと周りを見て、状況に適した行動をしなければいけないという話があったのである。自分はそんな当たり前のこともできずに、言われるまで気づくことすらできないのかと思った。

それと同じ時期に、ティーミーティングで自分の中に閉じこもる座禅ではダメだ。座禅中も経行中も周りの状況に気づいて開かれていないといけないという言葉もあった。座禅だけではない。作務でも典座でもいつも周りの状況に気づいている。そして安泰寺ではただ気づいているだけでなく、状況に相応しい振る舞いを判断して、行動に移すところまでが求められる。言うは易く行うは難しでらそれが本当に難しいのだが、だからこそ自分に取って必要なことなのかもしれない。

他に安泰寺の修行で大切だと思うことは、自分の考えを捨てることだろうか。内山老師の言葉で言えば「思いの手放し」である。座禅中では「足が痛くてもう座れない」とか、作務では「疲れてもう体が動かない」とか思うことがあるが、大抵頭がそう言ってるだけで、体は以外と平気なものである。典座でも、自分のこだわりを手放せないでいると大体うまく行かない。自分の頭の中の考えよりも、そのときその場で何がベストかという判断をしなければいけないのである。そうすると、前にのべた、状況に気づくことと、思いを手放すことは一セットだということになる。「思いを手放して、現実に覚めること」と一つにまとめて言えるかもしれない。

話が随分逸れてしまったが、今回の托鉢は、自分の日々の過ごし方を振り返るいい機会にもなった。安泰寺での生活は余計なことに邪魔されずに修行できる恵まれた環境だが、その分自分たちの世界に閉じこもって、自己満足に陥る可能性もあるかもしれない。托鉢に行って、布施を頂いたことで、自分の実践が自分だけのものではなくなったような感じがして戸惑ってもいるが、仏道に関わるものとして、他者と接する貴重な時間だった。