安泰寺修行  

恵光

昨年は一年を通してNHKの取材に来られました。季節毎の安泰寺の風景や修行の様子を撮影したいとのことでした。本格的な夏に入る前にディレクターさんから「夏の安泰寺で恒例になっていることは何ですか」と聞かれました。雑草が繁茂するこの時期、草刈りをし、刈った草を集めて山積みにして堆肥づくりをします。境内をひと夏に最低2周はまわります。かなりのハードワークです。私にとって夏の安泰寺の恒例と言えば炎天下でのこの草刈りと草集めです。これがなければ次の年の畑の施しができないのです。重要な作務でもあります。だから、「夏の安泰寺ではどんなことをされているのですか」と何度聞かれても「草刈りと草集めですかね~、あとは種まきや収穫かな~」と答えていました。ディレクターさんは納得できない様子で、さらに尋ねます。「夏の安泰寺でやっていることは何ですか」と。そこで思い出したのが、安泰寺出身の先輩が住職しているお寺に、毎年施食会のお手伝いに行っていることでした。そのことをお話しすると、是非同行させて欲しいと即答で、一緒に行き撮影されました。お寺ならではの風景を撮りたかったようです。

後日、ディレクターさんからまた質問があり次のようなやり取りがありました。「安泰寺ではお盆はどうされていますか?」「何もしません」「お盆に歴代住職さんなどのお墓詣りはされますか?」「していません」と。この時私の中に「それなら安泰寺ではいったい何をやっているのだ?」という声が降りかかってきました。一般的にお寺でやっていることを何もしないで何をやっているのかと。お盆行事をしていない安泰寺。安泰寺でやっていることと言えば年間1800時間ほどの坐禅と田んぼ、畑、木を伐り出し薪にする。時には屋根に上って屋根修理、機械修理、草刈りや鶏の世話、思いつくところはこのあたりです。「お経」といえば一番長いもので行鉢念誦、あとは略飯台の偈と搭袈裟偈、托鉢の時の般若心経くらいです。

お盆どころか朝課、晩課さらにはお葬式や法要をしないで、いったい自分たちは安泰寺で何をしようとしているのだろうか、と改めて問い直すきっかけとなりました。

 

この問いを考える際、まず一般的にお寺で行われていることはどのような意味があるのかを考えてみました。

お盆は自分までつながってきた先祖の御霊に感謝して、自分ひとりで生まれて生きているのではないということを自覚できる機会になるということ、お葬式は亡くなられた方の一生に敬意を表し、生前の感謝と御霊の安寧を願うものです。また、朝課では仏殿諷経で釈尊に向けて、応供諷経でご供養くださっている人々や一切の者、物に向けて、祖堂諷経で釈尊から自分の法系にいたる代々祖師方に向けて、開山歴住諷経でその寺の歴代住職に向けて、祠堂諷経では檀家さんや精霊に向けての供養です。晩課では六道を輪廻している精霊、あらゆる精霊に向けてお経を誦みます。

ではなぜこのような行為をするのでしょうか。それは今ここに私が生きていること、生かされているという事実は、数えきれない人の関わりや恩恵を受けている。普段は自分の力で生きていると思っているこの私中心の思いから、実は多くの人々、さらには多くの生き物たち、一見関係のないように見えるものまでも関係しあって、自分は支えられて、ここに生かされているということを思い出すための行為ではないかと思うのです。これを何かに向かって「拝む」という行為によって実感を持ち思い出していくため、そのようなことを忘れないためではないでしょうか。このことは「謙虚」に生きるという、人間の本来あるべき生き方ではないかと思います。「拝む」ことを通して「謙虚さ」を再認識して生きていこうというのがお葬式や日ごろの法要の意味だということに行き着きました。

 

安泰寺ではお盆に歴代住職のお墓詣りはしませんが、5日毎の放参に係の人はお墓掃除をして手を合わせます。朝課、晩課はしませんが、朝晩に坐禅をします。田畑を耕し糧を得るということについても自分たちが作物を作っていると思っていたのが、どうしても思うように育たなかったり、作業が天候に左右されたり、最近では野生動物との食物獲得競争にまでなっています。自ずと真剣になります。稲や野菜が、動物がどのように在るのか、大自然が語りかけていることを観る目をもって見なければ私が今何を為すべきなのか、自然と私の相互作用の歯車は噛み合いません。そのような時、私が作物を作っているのではなく作らせていただいていること、それにより生かしていただいていることに気付くのです。

 

私達は日常を感情や煩悩に振り回されて過ごしていると言えます。この感情や煩悩のベールをめくった下には真の自己が備わって、それですでに満たされているはずなのにどこかに、何かを外へ外へと追い求めて時間を過ごしてしまっているのが人間ではないかと思うのです。坐禅はそんな心もからだも動き回る人間的営みを一旦休み、手を組み、足を組んで体をジッとさせてただ呼吸をするだけ、ただ坐っているだけの行為をするのです。そうすると私の頭の中がなんと忙しいことか、心がこんなにも騒がしいことかということに気付きくことができます。この忙しさや騒がしさを止めることができない、自分で制御できない、ことに打ちのめされ、このままのこの私を受け入れざるをえなくなるという繰り返しです。そのうちそのような計らいの抵抗など為す術もなく、最後には「私は生かされている、生かしていただいているのだ」ということを感じるに至るのです。

安泰寺の本堂正面には六世、内山興正老師が書かれた「帰命」が掲げてあります。まさしくこのことだと思いあたるのです。さらに内山老師が引退される時に「黙って十年坐ること、さらに十年坐ること、その上十年坐ること」と教えられました。一度や二度、一年や二年坐禅をしたと言っても何にもならず、坐禅を続けることが大切だと言われるのです。坐禅をすることは本来の自己に気付き、謙虚に生きることを教えられ、慈悲の心を育てていくものではないかと感じています。坐禅が安泰寺の朝課、晩課になり葬式、法要、お盆行事になるのだと思います。

このいのちは十分に充足し、生かされているのに感謝も謙虚さもなく自己を振り返ることもなく、良いだの悪いだのとケチをつけて過ごしているのではないでしょうか。道元禅師は作法是宗旨とし、これは今生きている時間、毎日行うひとつひとつの行為がそのまま仏の行為であることを意味しています。仏とは何か、意識せずとも謙虚であり、感謝の姿勢でいられることが、ひとつの真の自己、仏の姿ではないかと考えています。

安泰寺での生活は全ての行為に仏が備わっていることを、自覚を持って過ごしていくということをしているのです。掃除のときには掃除になりきり、作務のときには作務になりきると師匠から教えられてきました。掃除のときは箒や雑巾と一体となって小さな自分の思いを差し挟まず、その場その時に最適な行為を行っていくこと、作務の時には鍬になりきり、ショベルになりきって小さな自分の思いを差し挟まないで、その場その時に最適な行為を行っていくことを学びました。ここのところを内山老師は「的中」と言われたのではないかと思います。
意識せずとも謙虚であり、感謝の姿勢になるには、心の坐り、ブレない軸のようなものが必要になります。釈尊の教えは奥深く自己の中を掘り起こしていくところに真の姿が現れる教えだと思います。

 

「丹霞焼木仏」「真仏坐屋裏」という禅語がありますが、偶像崇拝、固定観念に一石を投じています。うわべや形に囚われて真の仏を見失っていませんかと問われています。安泰寺では朝課、晩課、葬式、法要だけがお寺、僧侶のやることではないとお寺や僧侶の中身を問い、余計なものを取り除いてシンプルに実践して行こうとしています。

しかし真の仏は形や形式ではないと言っても、生身の人間がいきなり真の仏を自覚してそのように生きることができるか、というとなかなか難しいことです。安泰寺の生活で危ういと感じてきていることがあります。「オレが仏だ!!」という傲慢さを育てているのではないだろうかということです。お経やお寺の年中行事という「拝む」行為を最低限にしてその自覚を妨げているのではないだろうかと思うのです。

形より中身が大事だと言って一般的に行われている行事を省いた結果、中身まで見えにくくなり、本末転倒になっていることに気をつけねばなりません。何をしているかではなくどのようにやっているのか、表面だけでなく中身が問われていますが、中身が自ずと現れてくるようでなければ、安泰寺修行の意味はなくなってしまいます。ここのところが最大のポイントであり、一番難しいところです。行持をしていかなければなりません。だから修行が必要なのです。坐禅が必要なのです。

堂頭を拝命し1年、このようなことを伝えていくことは至難の業です。新たな舞台場面となり、己に問い直し、問い直し、大衆と共に汗にまみれ、泥にまみれてスッタモンダの禅修行の真っただ中におります