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キリスト教、仏教、そして私・その20

あなたの考えている仏教はどういう宗教なんですか」

回で辞めるつもりに参加した坐禅に私はどうしてはまり、日本で出家までしたのでしょうか。まずいえるのは、私は若い頃から自他が認め る理屈っぽい頭の持ち主だということです。だからこそ「信じれば救われる」というキリスト教ではなく、「自分の眼で確かめる」という仏教のスタンスに納得 しました。また、理数系の好きだった高校生の私の目には、キリスト教よりも仏教のほうが近代科学との相性がいいように映りました。

旧約聖書によれば、

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」(『創世記』1:28)

つまり、キリスト教の考えでは、人間は神にそっくりそのままにつくられたものだから、神に変わって世界を支配する権利があるとされてい ます。また、智恵の木の実を食べた以上、神の創造の世界図を紐解こうと思えばできるはずだと考えられてきました。創造された世界の理解と支配のための道 具、これはすなわち科学技術です。そのルーツはインドにも、中国にも、そしてアラブにもありましたが、それが爆発的に発展してきたのが近代に入ってのキリ スト教圏です。面白いことに、その発展に抵抗してきたのも、キリスト教です。十六世紀にコペルニクスが始めて唱えた地動説はバチカンの強い反対に会い、十 七世紀にはイタリアのガリレオも二回の宗教裁判の結果、自らが支持していた地動説を否定させられ、異端誓絶文を書かされます。そうして危うく火刑を免れま した。ドイツの宗教改革家のマーティン・ルターも、自然科学の分野ではけっしてバチカンより進歩的な頭脳を持ち合わせていなかったようです。彼はカトリッ ク教会の律修司祭でもあったコペルニクスの地動説についてこう言っています。

「このバカめ、天文学を逆立ちさせようとしている!」

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 ルターが自らの主張の立脚点としたのは、もちろん聖書の言葉です。ところが、太陽が地球を中心に回っているとは、聖書のどこにも記されていません。あるのは、旧約聖書の次の言葉のみです。

「ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。『日よとどまれギブオンの上に、月よとどまれアヤロンの谷に。』日は とどまり、月は動きをやめた、民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかっ た。」(『ヨシュア記』10:12・13)

ヨシュアは「止まれ!」といって、日をまる一日止めたと書いてありますから、普段は動いているのが太陽で、地球が止まっているに違いな いとルターが解釈していたようです。それだけの根拠で、精密な観測に基づいたコペルニクスの研究を否定としていたルターですが、はたしてどちらがバカと言 わねばならないでしょうか。

十九世紀に人類は猿から進化したという論理を発表したダルウィンにはさすがに身の危険こそ及ばなかったようですが、「ダルウィンこそ猿 だ!」と、神に象って創造されたはずだというプライドを傷つけられた人々の罵倒もあったようです。いや、現在でもいまだに人間が六〇〇〇年まえに土から創 造されたと信じているが頑固なクリスチャンの原理主義者がアメリカなどに数多くいるようで、彼らは「進化論は学校で教えるべきではない」と主張しているく らいです。

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 一方、仏教の中からは「創造の冠たる人間」という考えは生まれてきません。縁起でしか成立っていない人間は仏教的に考えていれば、宇宙の中の取るに足ら ない塵にすぎません。人間と言うこの有限な存在が一切を支配すべきでもなければ、一切を理解し究明できるはずもありません。支配ではなく、一切とのつなが りで生きることを仏教が強調します。しかしその仏教の世界観こそ、最新の科学の見解と実に近いのです。例えば、世の始まり。詳しくは後述しますが、キリス ト教の教えでは、神は七日をかけて天と地、植物、動物そして人間を何もないところから創造したことになっています。その前に何があったのも分かりません し、肝心な「神」の出どころも解明されていません。仏教(というより、インドの旧来の宇宙観)では、世界は最小限に縮小された状態からふくらみはじめまし た。そして、宇宙はやがては再び縮むというのもインドの宇宙観です。つまり、最新の物理学のいうビッグ・バーン、ビッグ・クランチの繰り返しです。ビッ グ・バーンとビッグ・クランチの間も、すべての現象は移り変わっていくのみ、一瞬とも立ちとどまることはありません。そこには神が定めた法律もなければ、 実体もないのです。諸行が「無常」というのは、極めて自然科学的な考えです。仏教によれば、私たちが生きている社会も、職業も、神が定めてのではなく、自 発的に進化した結果なのです。これも、現代の社会学者ならば、だれでもうなづけるはずです。

キリスト教の核心なのは、実体としての神なのです。そのキリスト教の神は、「人格神」なのです。そして前述したように、人格を持った神 は世界を創造し、その中に神に象って創られた個々人の私たちがいます。私たちもまた、人格を持っているのです。人格があるからこそ、自由でもあります。均 等に実体を持っているから、人間は平等だともいえるわけです。ところが、最新の脳科学に言わせれば、「自由の意思」も幻であれば、「実体としての私」も嘘です。あるのは、その時々刻々発火する脳内のシナプスとそれにともなう、その時だけの意識です。そのシナプスの花火は因果法則にのっとって打ち上げられ ているわけですから、そこにはホムンクルス(脳内で操縦する小人)と言われるような自由な主体はどこにありません。したがって、脳科学によれば、私のこの 意識は「私の」意識ではなく、私のこの身体も「私の」身体ではありません。「私」と言う思いはしょせん、幻でした。まさに、仏教のいう「無我」の法則で す。

それから「縁起」の法則があります。宇宙のすべての物事が網のようにつながっていて、実体はないもの、互いにたえず影響しあっていま す。惑星同士も影響しあえば、地上の生命体も複雑に絡み合い影響しあっているのです。それを二〇世紀になってから提唱し始めたのは、「北京で蝶が羽ばたく と、ニューヨークで嵐が起こる」といったテーゼで知られているカオス理論です。しかし、仏教は二五〇〇年も早かったのです。

素粒子物理学になると、なおさらです。長い間、物質世界の実体と思われていたのは原子でした。すべては原子に分解でき、原子はさらに分 解できないと思われていました。ところが、実は原子も陽子、中性子と電子に分解できると判明し、さらにクオークに分解できると発見され、いまやさらにヒッ グス粒子なども仮説として提唱され、キリがありません。量子論によれば、粒子は物質と同時にエネルギーの波でもあるので、実体があろうはずがありません。 結局は「無常」「無我」「縁起」でしか成立たない、「色即是空・空即是色」の世界です。

仏教と最新科学のあらゆる分野でのマッチも見えていたので、坐禅の実践はもちろんのこと、仏教の理屈もますます知りたくなりました。そもそも、私は仏教を「宗教」よりも「思想」や「人生哲学」として捉えていたかもしれません。

(ネルケ無方、2013年7月11日)