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キリスト教、仏教、そして私・その13

失楽園その2:仏教とミルク・スキン

約聖書や大乗仏教の経典が書かれた時代には、地中海から一時期はインドまで広がっていたヘレニズム世界とインド亜大陸はすでにさかんに交流をしていまし た。紀元前三世紀には、インド亜大陸をほぼ統一することに成功したアショーカ王が残虐な戦争を反省し、自ら仏教に改心したといわれています。その時、イン ド国内やスリランカにだけではなく、シリア、エジプト、ギリシアにも宣教団を送ったそうです。そういった宣教団の活躍の影響でキリスト教の教えが広まる下 地ができたのではないかと推測する人もいます。

いっぽうキリスト教以上に偶像の作成に敏感だったっ仏教は、アレクサンダー大王がその王朝を北インドまで広げたときから、急に仏像も作 られるようになりました。そうです、ギリシャ文明との出会いがなければ、日本のお寺にも本尊はいなかったかもしれません。なにしろ、初期仏教ではブッダの 教えこそ大事としましたが、「自己をよりどころとせよ」という考え方からブッダを拝むことがなかったので、仏像の必要はありませんでした。また、仏教には 『弥蘭陀王問経【みりんだおうもんきょう】』というお経がありますが、その主人公は実はギリシャ人のメナンドロス一世です。彼が紀元前二世紀頃、ナーガ セーナという仏教僧と交わした問答がこのお経の内容となっています。こういった交流は後の新プラトン主義の中心となったプロティノスなどの哲学や、キリス ト教教会から後に異端とされたグノーシス主義にも影響を及ぼしたとする学者もいます。逆に、後の大乗仏教で見られ阿弥陀仏と浄土思想の発祥はキリスト教の 影響をなくしては考えられないという主張も聞きます。

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これはあまり知られていないようですが、十世紀前後のヨーロッパでは「ヨサファト」というインド人の伝記が広まり、彼はカトリックと東方正教会の両方から 聖人として祭られるようになりました。その物語の主人公はインドで生まれた王子です。生まれる前に、予言者は王に「あなたの息子は将来、聖人になるであろ う」と告げられていましたから、王はそうならないために息子を宮殿に閉じ込め、この世の苦しみを味わわせないようにしました。ところが、若きヨサファトは 順番に目の見えない人、身体障害者、ハンセン病の人に会い、そして仙人バルラームに会います。バルラームから洗礼を受けたヨサファトは父の反対を押して宮 殿を後にします。悪魔や美女に誘惑されても揺らぐことはなく、あらゆる哲学者の邪説を論破するそのヨサファトのモデルとなったのは、いうまでもなく仏教の 釈尊です。そうですう、釈尊は実はヒンドゥー教だけではなく、キリスト教教会でも聖人として祭られています。サンスクリット語の仏伝の中の「ボーディー サットヴァ(菩薩)」という言葉が「ブダサフ」としてアラブ語に訳され、ヨーロッパでは「ヨサファト」になったようです。

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さらにすすんで、「イエスは実は仏教徒だった」という説を立てた人すらいます。これはニコラス・ノートヴィッチというロシアの戦争特派員だった人が一八 八七年に称えた説ですが、彼はインドの北部にあるチベット仏教のへミス修道院の図書館で『聖イッサ伝』なるテキストに出会ったと主張しました。「イッサ」 とは他ならぬイエスのことです。新約聖書の福音書はある意味ではイエスの伝説と言えますが、その中にはなぜか一三才から二九歳までのイエスの人生について は何も語られていません。そのため、これらの年月をイエスの「失われた年月」と呼ぶ人もいますが、ノートヴィッチによればイエスはこの一六年間をなんとイ ンドで仏教の勉強をして過ごしたそうです。それに注目したマックス・ミューラーなど最先端の仏教学者はノートヴィッチは仏教僧たちにだまされたのではない かと疑問をあらわにしていましたが、だましていたのはノートヴィッチ本人でした。へミス修道院に問い合わせたところ、『聖イッサ伝』というテキストは図書 館になく、そもそもノートヴィッチがこの修道院を訪れたことは一度もなかったそうです。にもかかわらず、近頃の欧米のニューエイジの作家の中にも頑なに 「イエスはインドを旅していた」という人はいます。まぁ、そうであった証明もなければ、、そうではなかった証明もないのですが、私はそういう説をまゆにつ ばをつけながら読んでいます。

(ネルケ無方、2013年5月31日)