徴兵検査

キリスト教、仏教、そして私・その29

「つるぎをすきとし、やりをかまとし」

〝良心〟の審査
 1986年、私が18歳のときの話です。
 ドイツには「アビトゥーア」という資格試験があります。これは高校卒業証書と同時に、どこの大学へでも入学できる資格なので、日本のセンター試験というような側面もあります。私が聖クリストフォロス学校で学んでいた頃には、小学校の入学からアビトゥーアを受けるまでの年数が一三年間でした。日本や欧米諸国より一年間遅れて、一九歳でようやく高校を卒業する教育制度でした。その当時、ドイツにはまだ徴兵制があったので(二〇一一年には「中止」、事実上廃止となった)、二〇歳を過ぎた頃でないと大学入学はできない制度でした。男性は高校を卒業したあと、十八ヵ月間におよぶ軍事訓練を受ける義務があったのですす。そのため、一八歳の時にまず徴兵検査がありました。私のところに、一九八六年の春にその通知が届いてしまいました。
 学校の体育ですらまっぴら御免被りたいという私は、軍隊に召集されると考えただけでいやな気分になりました。何とかして、徴兵を逃れる道はないかと思い巡らしていたのです。運動嫌いでも、我慢が得意という〝持ち味〟を生かして、検査の日より二週間前から断食を始めました。おかげでふらふらした状態で検査に臨むことができました。相手は軍医だから、甘くはない。
 「そこで腕立て伏せ、十回!」
 二回やっただけで見事に貧血を起こしてしまいました。
 「もうダメです。僕には軍隊は無理かも」と弱音を吐くと、威勢のいい答えが帰ってきました。
 「カイン・プロブレーム・ユンガー・マン(若者よ、問題はない)! 軍隊で腹一杯のグラッシュを食わしてやる、来年あたりのお前の顔色も見間違えるほどよくなっているはずだ」
 「僕、ベジタリアンですけど」
 「どうりでふにゃふにゃだ。その偏食もついでに直してやるから、安心しろ。徴兵検査は合格だ!」
 幸いというべきか、抜け道はまだありました。国家は「良心の自由」を保証しているため、宗教的な理由などで義務兵役を拒否する権利があります。それもドイツが用いるコンコルダート制度のおかげです。
 いわゆる良心的兵役拒否者として承認されるためには、国の厳しい書類審査があります。どういう過程でその人の良心が形成され、いかなる理由で兵役の義務を果たせないかを詳細に説明しなければ、強制的に召集されることになります。
そこで「私はイエス・キリスト信じているから戦争には参加したくない」と言っただけではダメです。書類審査がすんだ後でも、面接で意地悪な役人につくまれることもあります。
「あなたは良心を理由に集団的自衛に反対だ言うが、赤軍が侵略してきて、あなたの家族の命が冒されていたとしても、冷たく傍観するつもりか」
そういうときでも、絶対に戦わないことを誓わなければ認められないのです。正直に「実際にそうならないと、なんともいえません」と答えてしまえば、この時点で落とされてしまいます。あるいは「運転免許を持っているのに、どうして銃をもてないといえるのか。車だって、人を死に至らしめる道具になりかねない」と突っ込まれることもあります。その時点で私はまだ免許を持っていなかったので、そこはうまく交わすことができました。
今まで見てきたとおり、「つるぎを投げ込むためにきた」というキリスト教は純粋な平和主義と相性が悪い。法句経の言葉を兵役拒否の理由づけにしようと思ったこともありましたが、ドイツには仏教の伝統がないので、日本でいえばモルモン教くらいの信憑性しかありません。そこでやはり役人にもなじみのある聖書を盾に島した。

「つるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし」(ミカ書4:3)

よくよく探せば、好戦的な旧約聖書の中にもこんな言葉も見つかります。あるいは、三世紀にキリスト教の神学を体系化したラクタンティウスはこう書いています。

「宗教は、殺すことによってではなく、死ぬことによって擁護されなければならない。また、残酷によってではなく、忍耐によって、罪によってではなく、良き信仰によって保たれねばならない。…[中略]…もしだれかが流血や拷問や罪深い手段を用いて宗教を擁護しようとしても、それを末永く擁護することは不可能であり、かえってそれを汚し冒涜することになるからである」

 こういう言葉をたくみに縫い合わせて、高校三年生の時に私の良心的兵役拒否がめでたく認められました。
(2014年8月19日、ネルケ無方)

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