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キリスト教、仏教、そして私・その14

「神の子」は方便だった?! ダライ・ラマ、イエスと仏教A

回ではキリスト教と仏教の相互関係について書きました。「イエスは仏教徒だった」という主張をする人すらいるのです。それはキリスト教側として、あまり 面白くない仮説です。彼らはとうぜん、イエスの教えの中で仏教の影響を認めたくありません。仏教側としては、そういう影響があってもぜんぜんかまわないわ けです。例えば、ダライ・ラマは「クリスチャニティ・トゥディ」という刊行物と二〇〇一年に行われたインタービューの中でこう言っていました。

「イエス・キリストも生前で生きていた。だから、修行などによって菩薩もしくは覚者といった高いレベルまで到達した」

“Jesus Christ also lived previous lives. So, you see, he reached a high state, either as a Bodhisattva, or an enlightened person, through Buddhist practice or something like that.”(英語の原文はhttp://www.christianitytoday.com/ct/2001/june11/15.64.html?start=6

それを聞いて、インタービューアーは鋭く聞き返しました。

「もしイエスが完全に悟ったならば、自分自身について真実を教えるのではないだろうか。だから、イエスが真実を教えたならば、彼は神の 子であったことになる。したがって、神は存在し、イエスは救世主だ。彼が悟ったなら、真実を教えたはずだ。真実を教えていなかったとしたら、彼はそれほど 悟っていないことになる」

“If Jesus is fully enlightened, wouldn’t he be teaching the truth about himself? Therefore, if he is teaching the truth, then he is the Son of God, and there is a God, and Jesus is the Savior. If he is fully enlightened, he should teach the truth. If he is not teaching the truth, he is not that enlightened.”(同上

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クリスチャンにとって、イエスを菩薩もしくは覚者と見なされても困るわけです。実にロジカルなこの質問で、聞き手の記者はこう言いたかったではないでしょうか。

「ブッダは『神』と自称しないはずだから、ブッダと神の子であるイエスを混同してはいけない」

ごもっともな指摘です。記事によれば、ダライ・ラマはこのとき大笑いをしてから、「真仮【しんけ】」の教えを説明したそうです。真仮は 仏教では真実と方便のことを指します。ダライ・ラマによれば、イエスが神の子であり救世主であったことは真実ではなく、方便だったそうです。「うそも方 便」というわけではありませんが、愛や慈悲を説くための手段なら、それくらいのリップサービスをしてもよいという意味でしょうか。方便の意味については後 ほど???詳述しますが、記者はダライ・ラマのこの説明に納得できなかったようです。五〇〇年前のインドに生きていたゴータマが説いた四聖諦や八正道と いった「真実」を、どうしてイエスは解けなかったかといった疑問で記事が結ばれています。仏教とキリスト教の間に広がるギャップを無視するわけにいかない と私も思います。

キリスト教の物語は世界の創造から始まりますが、仏教は創造を問題にしません。「この世界は誰の手によって創造されたか」と問われれ ば、「それは各々の業によって作られている」と答える仏教の哲学者もいるかもしれませんが、ブッダ自身はむしろ沈黙していたでしょう。あるいは聞き返した いたのかもしれません。

「あなたは世界は神によって創造されたというけれど、その神は誰の手によって創造されたのだろうか」

いや、そんなことを考えているのは、私だけでしょう。ブッダはそんな屁理屈をいうような方ではないはずです。

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キリスト教の世界観では、創造主である神と、被創造物であるこの世界には越えられない隔たりがありますが、仏教はヒンドゥー教の数多い神たちを認めてい ながらも、彼らの存在をまるで対等な立場で語っています。仏教のいう「神」もしょせん迷える者です。神々も修行をしなければ、解脱をすることはできませ ん。

キリスト教には神がイエスとして受肉しますが、仏教のブッダは決して神の子ではありません。ブッダは人間にも、神々にも解脱の方法を説 法しているわけです。また、イエスが十字架で人類の罪を贖うような発想は、仏教にはありません。仏教では罪ではなく、業のことはいわれますが、業とはつま り原因があれば結果があると言うことです。ブッダといえども、それを変えることは誰にでもできません。

キリスト教徒は信じることによって、天国に上って永遠の命を得ようとしています。仏教徒は執着を断ち切って、天上界を含む輪廻六道のサ イクルから解脱しようとしています。そのとき、誰も手伝ってはくれません。解脱をするためには、おのおのが自分でブッダになるしか仕方ないのです。少なく とも、仏教の出発点がここにあったのです。これを仮に「仏教A」という呼んでみることにしたいと思います。

こんな仏教が本当にあるかどうか別として、仏教Aをもういちど整理してみましょう。

仏教の目的は執着から自由になり、解脱すなわち再び生まれ変わらないこと。人の修行を助けることも、人に助けられることもできない。 ブッダを目指さなければならないのは自分であり、過去の釈迦仏はその実物見本に過ぎない。自分のよりどころは、自分しかない。仏教は信仰ではなく、修行の 方法論。そこには創造主もなく、救世主もなく、贖いもない。

これだけを見ていると、仏教Aはキリスト教とはあまりにも違いすぎる宗教といわなければなりません。また、他者のまったく視野に入って こないこの仏教Aをはたして世界宗教といえるかどうかも疑問です。仏教Aは「自分の問題だけ」を解決しようとしていますが、それこそ執着と言わざるをえま せん。執着から自由になるということは、逆に自分の問題を忘れることではないでしょうか。仏教Aだけが仏教であるはずはありません。

さらにすすんで、「イエスは実は仏教徒だった」という説を立てた人すらいます。これはニコラス・ノートヴィッチというロシアの戦争特派 員だった人が一八八七年に称えた説ですが、彼はインドの北部にあるチベット仏教のへミス修道院の図書館で『聖イッサ伝』なるテキストに出会ったと主張しま した。「イッサ」とは他ならぬイエスのことです。新約聖書の福音書はある意味ではイエスの伝説と言えますが、その中にはなぜか一三才から二九歳までのイエ スの人生については何も語られていません。そのため、これらの年月をイエスの「失われた年月」と呼ぶ人もいますが、ノートヴィッチによればイエスはこの一 六年間をなんとインドで仏教の勉強をして過ごしたそうです。それに注目したマックス・ミューラーなど最先端の仏教学者はノートヴィッチは仏教僧たちにだま されたのではないかと疑問をあらわにしていましたが、だましていたのはノートヴィッチ本人でした。へミス修道院に問い合わせたところ、『聖イッサ伝』とい うテキストは図書館になく、そもそもノートヴィッチがこの修道院を訪れたことは一度もなかったそうです。にもかかわらず、近頃の欧米のニューエイジの作家 の中にも頑なに「イエスはインドを旅していた」という人はいます。まぁ、そうであった証明もなければ、、そうではなかった証明もないのですが、私はそうい う説をまゆにつばをつけながら読んでいます。

(ネルケ無方、2013年6月5日)