Temple_of_Artemis

かつてエフェソスにあったアルテミス神殿の想像図

キリスト教、仏教、そして私・その6

破門されてけっこう、のぞむところだ!

フェソス-最初の分裂

「神の子であるイエスもまた、神である。しかし、人間でもある。イエスの神性と、人間性との関係を説明すればよいか?」

人間は被創造物ですから、創造主である神が被創造物である人間としてこの世に登場すること自体に無理があったため、「三位一体」のドグマの正当化以降にも、人間・神のイエスの両面性がさかんに議論され始めました。三回目となる全地公会議は四三一年にエフェソスという町で行われました。エフェンスは世界の七不思議のひとつに挙げられているアルテミス神殿で有名で、やはり現在のトルコ(当時は東ローマ帝国)にあります。
そして、ここには教会の仲で初めて決定的な分裂が生じてしまいます。この会議の主役は二人、コンスタンティノポリス総主教のネストリオスと、アレクサンドリア総主教のキュリロスでした。ネクストリオスの主張はこうでした。

cyril_nestorius-icon

キュリロス
エフェソス公会議のメイン・プレーヤー:コンスタンティノープル大主教ネストリウスとアレクサンドリア総主教キュリロス

「神としてのロゴスと、人間としてのイエスはそもそも別である。イエスには人間としての『人格』と、神としての『神格』がある。人格は肉に宿り、神格はロゴスとしてイエスの福音書に表れた」

それでとりわけ問題になってきたのが、「聖母」とも呼ばれるマリアの立場でした。ネストリオスによれば、マリアは「神なるイエスの母」ではなく、単に「人間イエスの母」に過ぎないから、そもそも「神の母」と呼ぶべきではありません。それに反発したのが、キュリロスでした。

「神が受肉した以上、人間イエスこそまさしく神であり、イエスを孕んだマリアは神の母となった」

二人の主張を真正面から衝突してしまいました。実際の会議にはネソトリオスは出席せず、自分の支持者だけで「カウンター会議」を開きました。本会議ではネソトリオスの教えは異端とされ、本人は教会から破門されましたが、ネストリオスのカウンター会議では逆にキュリロスの破門状がでました。

B_Gregor_IX2破門を下すグレゴリウス9世 (1143~1241)

破門とは何か

破門という措置は初期のクリスチャンもすでに知っていたようです。これはパウロがコリント人へ宛てた第一の手紙からの引用です。

「兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない」(5:11)

しかしこういうケースよりも、ドグマをめぐる争いが原因した破門が多いようです。たとえ総教主といえども、異端とされれば破門を食らうことは古代の公会議では決して珍しくなかったようです。ローマ法王でさえ破門されたり、鞭打ちにあったりします。いまやカトリック教会ではトップダウン式が取り入れられ、教皇の破門など言語道断ですが、この当時ではローマ法王といえども単にローマの総教主、コンスタンティノポリスやアレクサンドリアの総教主とほぼ同等の立場でした。双方が互いを異端として告発したり、相互破門したりしたケースはまま起りました。破門が公会議で決議された場合でも、その会議が後に無効とされる場合もあったので、破門したあとで復権したケースも珍しくありません。ちなみに、ローマ・カトリック教会と東方正教会が一〇五四年に分裂したときも、ローマ法王とコンスタンティノポリス総主教は相互破門しましたが、それが無効とされたのは一九六五年になってからです。もちろん宗教改革の時のように

「破門されてけっこう、のぞむところだ!」

という態度をとって自分の教会をゼロから作りなおしたた人も多数います。マーティン・ルターもその一人です。

Nestorian-Stele-Budge-plate-III大秦景教流行中国碑 (781年)

少数派はペルシア、インド、そして中国まで

五世紀のエフェソスに戻りましょう。ネストリオスとキュリロスの相互破門した後、エフェソス公会議の主催者でもあった皇帝のテオドシウス二世は二人を逮捕し、ネストリオスをもキュリロスをも却けたようです。そのあとの妥協案では、二つの「位格」を認めていながら、その「一等」を強調されました。

「イエスは完全に神でありながら、完全に人間である。この二つの位格は混ざることなく、分離することなく、一等である。聖母マリアは神の母である」

これに従わなかったのは、後のアッシリア東方教会でした。この教会のみはネストリオスの教えを受け継いで、後にはペルシアを中心に広まりました。フランシスコ・ザビエルが日本に来る前に、インドで宣教師として活躍していたときに、彼はインドにすでに「トマス派」といわれているクリスチャンがいるという驚きの事実に気づいていました。今はトマス派のインドキリスト教が歴史上の十二使徒の一人であるトマスではなく、実際にはイランから渡ってきたアッシリア東方教会に起源を持つと推定されています。そしてシルクロードを伝ってさらに東へ、七世紀からは「景教」として唐代の中国にも一時期広まったようです。十七世紀に長安の崇聖寺の境内で発掘された「大秦景教流行中国碑【ルビだいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ】」にはこんなことが書いてあります。

大秦國有上德。曰阿羅本。占青雲而載真經。
望風律以馳艱險。貞觀九祀至於長安…【中略】…翻經書殿。
問道禁?。深知正真。特令傳授。

(シリアの国から、「アラホン」という徳のある方が雨や風に逆らい、危険を顧みず「真経」を長安に運んで来たのは六三五年。…書殿において行われた翻訳を観閲した結果、その真実を深く知ることができたので、その伝授を特令する)

(ネルケ無方、2013年03月24日)