sasaki

キリスト教、仏教、そして私・その21

禅とセックス・スキャンダル

メリカから安泰寺にやって来たピーターは隣人愛より男女愛に疑問を持っていました。

「安泰寺の堂頭が結婚しているには驚いたよ。妻に対する執着はないのか?」

「それはあるよ」

「仏教では『愛別離苦【あいべつりく】』というだろう。愛は儚いもの。そう思わないか?」

「あなたがいう通り、『愛別離苦』と『怨憎会苦【おんぞうえく】』という言葉がる。しかしそれはたんに『愛する者と別離して、怨み憎んでいる者に会う』という意味ではないよ。むしろ別離していればこそ切ないほど恋しくなり、ベタベタしていればほど相手に呆れるということだ」

「じゃ、どうしてたった一人の女性に執着するのかね? それより普遍の愛が大事ではないのか」

「逆に聞くけど、たった一人の人を心から愛せなかったら、どうして多くの人を愛せるか? 家族を持つことがすなわち執着を持つことを意味しているのは確かだ。しかし菩薩として、その執着の環を無限に広げることが大事だと思うう」

「それならば、堂頭だけが結婚しているのはおかしいではないか。ほかの修行僧が結婚していない理由は?」

「なかなか鋭い。実は、安泰寺でも数年前は恋愛が自由だった時期がったよ。私が結婚しているから、弟子たちが互いに恋に落ちようが何をしようが、彼らの勝手だと思っていた。ところが、作務中にもベタベタしたり、嫉妬したり、しまいには二股をかける人まで表れ、『あの人が安泰寺にいるあいだ、私はここで修行ができないわ』といって山を降りて行く人もいた。もうぐちゃぐちゃだったから、今は安泰寺で修行中のあいだは恋愛禁止。山を降りてから結婚するのは一向に構わない。むしろそれも大事な修行だと私は思う」

「なるほど。最近、『ニューヨークタイムズ』の紙面をにぎわせた二人の日本の禅僧がいただろう。結婚していながら、弟子にまで手を出したとか。それがあなたのいう『執着の環を広げる』ことか」

ピーターはそこで、欧米の禅の世界で大きな波紋を巻き起したセックス・スキャンダルにふれました。日本の禅僧とは嶋野栄道と佐々木承周のこと。二人とも臨済宗の僧侶で、一九六〇年代からアメリカに渡りました。当初はヒッピーたちがフリーセックスを叫んでいた時代なので、彼らの性生活もさほど大きな話題にはならなかったようです。二〇一〇年になって初めて「セクハラ・パワハラ」として問題視され、嶋野は自らが設立したゼン・スタディ・ソサエティより解任させられてしまいました。弟子が師匠を首にできるのは、アメリカの禅のすごいところです。

カリフォルニアで活躍していた佐々木承周には、私も会ったことがありました。まだ学生だった頃に、大学の先生に紹介されました。「日本のお坊さんがオーストリアで接心をするそうだが、私に代わって提唱の通訳をくれないか」

そのアルバイトを喜んで引き受けたのは言うまでもありません。当時八五歳だった老師は提唱の中で「禅は本能のままに生きることだ」と言いましたが、理解に苦しんでいた私は後で老師の部屋で聞きました。

「本能のままとはなんですか」

「ベリー・シンプル」と老師はいい、横にいた隠侍【いんじ】(老師のアシスタントのこと)の女の子の胸に口を近づこうとしているのではありません。しかし、その時にたまたまいっしょにいた六五歳のオーストリア人の一番弟子が「老師は赤ちゃんではないから、やめなさい!」ととめていたので、私はてっきり冗談だと思っていました。その冗談が冗談ではなかったことは二〇一二年のニューヨークタイムズの記事で明らかになりました。「独参【どくさん】」と呼ばれる、老師と一対一のインタービューではそういったアプローチは日常茶飯で、2014年の7月27日、107歳のご高齢でなくなるまで、その噂は耐えなかったのです。そこで「さすが、禅僧の精力はちがう」と感心する人もいれば、「それはけしからん」と言う声もありました。日本ならば、建前と本音さえきちっと分けていれば、セックスのことで他人にあれこれ言われることはありませんが、アメリカ人にピューリタン精神の影響がつよい。

そのとき、私がピーターに言いました。

「私が思うには、僧侶が男女の関係を持ったことが問題ではない。師匠が弟子と関係を持ったことに問題がある。そこで師匠が一番悪いのは言うまでもないが、弟子もまた悪い。あなたは『婆子焼庵』の公案を知っているか?」

「ああ、聞いたことがあるよ。一人のお坊さんは長いあいだ庵の中にこもって坐禅をした。そうしたら、二十年間もそのお世話をして婆さんが彼をテストするにした。孫娘に彼を抱きつかせて、『ねー、私ってどう?』と質問させた公案だろう?」

「ビンゴ!」

「で、お坊さんが『わしの心は岩にしがみついている冬の枯松よりも冷たい』と答えて、婆さんは怒って彼の庵に火をつけたとか」

「はて、どうして火をつけたか、わかるかな」

「それが不思議でならない。まさか、精力がないからではないだろう」

「『どう?』っていわれて、お坊さんが『イエス・プリーズ』と答えても『ノー・サンキュー』と答えても、どちらでも失格なんだ」

「じゃ、どうすればいい?」

「お坊さんが『ノー』と言ったのは、自分がいかに潔癖であるかを証明するためだった。しかし『わしは潔癖だ』って、結局は自分のことしか考えていないだろう? あのお坊さんは婆さんや孫娘のことをちっとも考えていなかったからわるいんだ。アメリカのセックス・スキャンダルの場合、答えは『イエス』だった。一見して反対の答えだけど、、結局は師匠が弟子をセックスの対象としか見ていない。師弟の親子関係も困るけど、男女関係はさらに厄介だ。だから師弟関係の基本は『見つめ合わず、同じ方向を見つめる』ことだと思う」

(ネルケ無方、2014年7月28日)

【ニューヨーク・タイムズへのリンク:
Zen Groups Distressed by Accusations Against Teacher & Sex Scandal Has U.S. Buddhists Looking Within】