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キリスト教、仏教、そして私・その10

仏教とはどういう宗教なのか?

本でよく「世界三大宗教」という言い方を聞きます。それはキリスト教、イスラム教と仏教を指す言葉らしいです。ところが、欧米で「三大宗教」といえば、 アブルハムの宗教ともいわれているユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三つの一神教のことだけです。その中のユダヤ教は信者の数が千五百万人でもっと も少なく、はたして「大宗教」といえるかどうかが議論されているのも事実です。しかし、欧米人としてはキリスト教とイスラム教のいわば《本家》であるユダ ヤ教をこのリストに載せないわけにはいきません。そして世界宗教となると、リストが五つ以上まで膨らむことが常です。『プロテスタンティズムの倫理と資本 主義の精神』といった著書で知られているドイツの社会学者のマックス・ウェーバーは一九一五年から発表された『世界宗教の経済倫理』の中で儒教・ヒン ドゥー教・仏教・キリスト教・イスラム教という五つの宗教にユダヤ教を加えて世界宗教と呼んでいます。ドイツの宗教学者グスタフ・メンシングの『民族宗教 と世界宗教』(一九三八年発行)では、儒教だけがそのリストから落ちていますが、ユダヤ民族との結びつきがユダヤ教は世界宗教に数えられています。ユダヤ 教は布教こそしませんが、民族とは関係なく誰でも入信が出来る、普遍性のある宗教だからです。いっぽうの儒教は、宗教よりも道徳と見なされていたのでしょ うか。

近年のドイツの宗教学では、七つもしくは八つの世界宗教のリストはいくつもあげられています。儒教と並んで道教が含まれていたり、仏教 と同じ時期にインドで誕生したジャイナ教、あるいはパールシズム(今から一二〇〇年前にイランからインドとパキスタンに入ってきたゾロアスター教の現代 版)が数えられる場合もあれば、十九世紀にイランで誕生したバハーイー教という一神教が世界宗教として認められている学者もいます。

宗教こそ古いものが多いですが、「宗教」という言葉の用法の歴史はそれほど古くはないようです。少なくとも、今の意味合いで使用される ようになったのは明治維新の頃だそうです。英語のreligion(レリジョン)という言葉の翻訳に困っていた日本のインテリ層は幕末から明治初頭にかけ て、「宗法」・「宗門」・「法教」・「教門」・「聖道」や「神道」まで、いろいろな訳語で試行錯誤を繰り返し、ようやく「宗教」に落ち着いたようです。レ リジョンと宗教は、必ずしも同じものではありません。Religionの語源については、諸説があります。紀元前一世紀に生きていた哲学者キケロはre- legere(再読する)をその語源と考えていましたが、本当はre-eligere(新しく選出する)という人もいます。もっとも有名になったのは、ア ウグスティヌスのre-ligare(再び結びつける)という語源説です。いったん神の国から追い出された人間が、再び神と約束を結ぶという意味でしょ う。しかし、反対に語源としてrelegare(追いやる)と主張する人もいるようです。この場合は、恐れ多いもののまえにひれ伏すというニュアンスに なってしまいます。

いっぽう仏教用語だった「宗教」という言葉のもともとの意味は単に「宗旨」すなわち根本真理です。つまり「広い世の中には、仏教という 宗教もある」という考えは、それまでの仏教にありませんでした。むしろ「仏教の中には多くの教えはあるが、その根本をなすのは一つでしかない《宗教》なの だ」というのが、仏教者の解釈ではないでしょうか。宗教の中に仏教があるのではなく、仏教の中に宗教があるというわけです。

そもそも、仏教を現在の意味で「宗教」と呼べるかどうかが疑わしいです。仏教では何かを再読したり、何者かを選出したり選出されたり、 結びついたり恐れたりするわけではないのです。また西洋人が宗教で議論をしているとき、何を信じるか何を信じないかが焦点になります。しかし、仏教では信 じることがあまり問題にされていません。ですから仏教では一神教のように、絶対者の設定も必要ではありませんでした。苦しみの世界から解脱した釈尊という ブッダはそこにいますが、釈尊は決して神ではありません。そこが「啓示宗教」と呼ばれるキリスト教やイスラム教との大きな違いの一つです。ブッダを信じる かどうかではなく、ブッダの教えを実践するかどうかが仏教のポイントです。元祖の釈尊は神の存在にも、死後の世界にも言及しておらず、もっぱら私たち人間 が自らブッダになる方法だけを説き続けていました。一神教では人間が逆立ちしても神にはなれませんが、仏教では誰でもブッダになれるのです。仏教はそうい う意味ではレリジョンというより、人間が人間のために説くブッダの実現方法です。

キリスト教もユダヤ教も、そしてイスラム教もこの世界を創造し、人間をも創造し、やがて人間を裁く全能なる神から出発しているという点 では、まったく同じです。それに対してインドのヒンドゥー教は多数の神々の存在が説かれていますが、その中心となるのがブラフマー(創造神)・ ヴィシュヌ(宇宙を維持する、慈悲の神)・シヴァ(破壊の神)です。この三大神の化身や子神も多く、日本では福神として知られている大黒天、毘沙門天と弁 財天も元はヒンドゥー教の神々の化身です。そして実は仏教の元祖のお釈迦様でさえ、ヒンドゥー教のほうではヴィシュヌ神の化身と考えられているらしいで す。そのため、インドでは仏教もヒンドゥー教の一派とみなされている人々もいるそうです。

しかし、仏教とヒンドゥー教の間には大きな違いがあります。それは仏教が神々よりどころにしないという点です。かといって、仏教は無神 論とも違い、神の存在を否定もしません。否定するどころか、供養の対象にすらします。実は私も安泰寺で毎日、伝統に従い「一切の鬼神」に供養をしているの です。それは「生飯(さば)を取る」という、禅寺の食事の際に行われる儀式です。応量器(おうりょうき)と呼ばれる食器から、一人ひとりの修行僧は親指と 人差し指でご飯の五粒~七粒くらいをつまんで、供養をします。その時に唱える経偈があります。

「汝等鬼神衆(じてんきじんしゅ)、我今施汝供(ごきんすじきゅう)、此食遍十方(すじへんじほう)、一切鬼神共(いしきじんきゅう)」

神々に呼びかけて、あなた方も腹が減っているのでしょうから、私たちと一緒に食べてもらい、そして全宇宙の生きとし生けるもの一切に も、この食事に参加してもらおう、という意味です。そこで神々を供養の対象にはしますが、崇拝の対象にはしません。私たちも生かされている生きている、神 も鬼も生かされて生きている、互いに支えあっているのです。その世界観はキリスト教のような一神教とも、多神教とも異なっています。

それでは、仏教のよりどころはどこにあるのでしょうか。それは他ならぬ「自己」です。

「自己のよりどころは自己のみ、自己のほかによりどころがない」

と『大般涅槃経』に書かれています。そこは神々、あるいはご先祖様、あるいは自然現象、あるいは共同体のキマリごとをよりどころとしている諸宗教との大きな違いです。仏教の出発点は自己なのです。お釈迦様は弟子たちに向かって、さらに言われています。

「犀(サイ)の角の如く、独り歩め」

これは『スッタニパータ』というもっとも古い経典の一つに出てくる言葉です。修行者たちは群れることなく、それぞれ自立するように、ということです。

「自由」という言葉を聞けば、キリスト教圏の専売品特許のように考えている人もいるかもしれません。しかし、それは逆です。明治時代に レリジョンの訳語として「宗教」が使われたように、フリーダムやリバティーを訳するために使われたの仏教用語の「自由」という言葉でした。その意味すると ころは、「自己に由(よ)る」ということでした。仏教の考えでは、自己以外によりどころがあれば、そのものに支配されてしまうことになります。

宗教の定義は宗教学者の数ほどあるといわれていますが、十八世紀から十九世紀にかけて活躍していたドイツの有名な神学者シュライエル マッハーの定義によれば、宗教とは「ひたすらなる依存感情」だそうです。その定義に従えば、釈尊が説いた教えは反宗教といわなければなりません。あらゆる 依存から自由になることこそが、釈尊の狙いであったからです。そう、仏教を宗教というならば、それは自由の宗教です。

(ネルケ無方、2013年5月19日)