キリスト教、仏教、そして私・その25
お布施の精神
日本の仏教界では今日も、人間の平等を説きながら戒名に関しては相変らずの格差社会です。立派な方につけられるのが院号です。院号がなくても、必ず道号(四字からなる仏教の名前、例えば「大道無方」など)をつけ、最後には位号です。曹洞宗では「居士」と「大姉」もおられれば、ただの「信士・信女」もいます。その中間とされているのは「禅定門」というやや珍しい位号です。どのような号をつけられるか、昔は社会階級に左右されていました。昔の戒名を見れば、その人が「士農工商」のどの辺に属していたか大体見当がつきます。この世の階級をあの世でも通用させるために、江戸幕府はたとえば農民の「院号」や「居士」を認めていなかったのです(百姓院号禁止令)。今はそんな決まりはもはやありません。封建時代が資本主義に変わり、今の戒名はもっぱら、戒名料(すなわち「お布施」)の金額のみで決まるらしいです。その戒名をつける権利を握っているのは、お坊さんです(とはいっても、戒名は誰でもつけることができ、自分でつけても法律違反でもなんでもないです)。そのお坊さん自身が死ねば(いや、僧侶の場合は「遷化する」といいますが)特別な号をもらうのは当然で、お墓の形までがちがうのです。私たちお坊さんはいわばバラモン階級の現代版です。釈尊が二五〇〇年前に廃止したはずのカースト階級とそっくりの制度を使って、生活の糧を得ているのですから。戒名格付け制度を使って、同じ人の子としてうまれた人間を今はお布施の額で振り分けて、あの世に送り込んでしまっているのです。「戒名なんて、もういらない」という日本人が増えているのは、なんら不思議ではありません。
二〇一〇年には、「イオン布施目安提示事件」が起きました。不透明な戒名料やお葬式・法要のお布施について、イオンはカード会員向けの葬儀紹介サービスにて「布施の価格目安」を打ち出しました。明瞭な目安を公開することで、悪徳な僧侶から法外な戒名料を要求されることも少なくなるであろうという賛成の声もあったようですが、その時の全日本仏教会は「布施に定価はない」といって反発し、結局は「布施の価格目安」がイオンのサイトからひっそり削除されました。私が思うには、そもそもの問題がお布施の「高い・安い」以前に、お布施の精神が理解されていないということです。
「布施」といえば、お寺に支払うお金だとしか思い浮かべない人もいるでしょう。院号付きなら一〇〇万円は下らないといわれている戒名料も、一応は「お布施」ということになっています。法外な「お布施」でも、お布施ですから、宗教法人と収入として課税されません。そうなると、なんとなく汚いイメージを呼び起こすのがこの「布施」という言葉です。
「布施」の語源は梵語の「ダーナ」で、「施す」ことです。「喜捨」という仏教用語も「布施」と同じく、喜んで手放すというのがその本来の意味です。ダーナの音訳は「檀那」または「旦那」。檀那・旦那という言葉は転じて「施す人」、つまりパトロンという意味で使われるようになりました。お寺に施しをする家を「檀家」と呼ぶのはそのためです。徳川時代に檀家制度が導入されてから、日本のどの家も一つの菩提寺(檀那寺ともいう)に属して、そのお寺に先祖の供養を託するようになりました。寺請制度とも深く関係しているこの制度では、日本中のお寺は今の役所のような役割を持ち、宗門人別帳といい国民全体の戸籍を作成・管理していました。「寺請証文」といって、住民票のようなアイデンティティ・カードも発行していました。寺のIDがなければ、旅行もできないし、結婚もできないし、何もできなかったわけです。
どの時代でも問題になってくるのが施しの内容、そして施す人とその施しを受ける人の力関係です。建前として「男女平等」という看板を持ち上げている現代日本でも、妻を「奥さん」と呼び、夫を「ご主人」や「旦那さん」と呼んだりします。いかにも男性が実権を握っているふうですが、裏では必ずしもそうではないような気がいたします。一方「俺は飯をくさせてやっている」というおごりもあれば、「あの人をいかに動かせるか」という知恵も働くわけです。お寺でも同じではないでしょうか。お寺に施し、住職に「飯を食わせてやっている」はずの檀家よりも、そのおごりで生活している住職が大きな顔をしていることも珍しくないでしょう。実は、古代インドのときからそうであったようです。そのために「遺教経」というお経の中では、お坊さんたちは次のように諭されています。
人の供養を受けては自ら取って悩を除け。多くを求めて、其の善心を壊することを得ること無かれ。譬えば智者の、牛力の堪うる所の多少を籌量して、分に過ごして以てその力を竭さしめざるが如し。
(人の供養を受けるときは、生活できる最低限のものを受けなさい。多く求めて、せっかくの善心を害してはいけない。それは例えば、知恵ある者が自分の牛の力加減の多少をよく心得て、その背中に荷物を載せているようなことである。牛の場合も、負担をかけないようにしないといけない。)
「施主の身にもなりなさい」といっている一方、施主を「牛」と比較しているところはかなり微妙ですね。今のインドでも、南方仏教が広がっているタイやスリランカでは、施しを受けている行者や仏教僧は決してぺこぺこしたり、感謝の言葉を述べたりしていないそうです。
そもそもお布施には三種類あるといわれています。財施(ざいせ)、法施(ほうせ)と無畏施(むいせ)です。物を施すのも、法を説くのも、恐怖の除くのも、すべてがお布施です。財施と法施について、道元禅師は「菩提薩埵四摂法」の中で説明しています。
一句一偈の法をも布施すべし、此生他生の善種となる。一錢一草の財をも布施すべし、此世他世の善根をきざす。法もたからなるべし、財も法なるべし。願樂によるべきなり。
(一句一偈の法語も施すべきである。この一生において、やがて芽生えするであろう善の種になりうるから。この一生で芽生えすることはなくても、それ以降に芽生えしやがて成長する善種もある。同じように、一錢をも一本の草をも施すべきである。この行為によって、この世をもどの世をも、仏国土として耕し、その中に根を下ろすことができるのだ。法も宝ならば、財も宝である。いずれも、安楽を願って施すからである)
一番分かりやすいのがやはり財施でしょう。お金やその他の物を施す行為です。お坊さんに直接お金を私はいけないという南方仏教の国々では、スーパーが「お布施セット」を売っています。中身は缶詰・栄養ドリンク・薬などです。お袈裟を布施として渡すこともあります。これも手頃な値段でスーパーの棚に並んでいます。托鉢のたびに比丘たちはそれらの既製品をお寺に持ち帰り、寺の管理人は有り余っている「お布施セット」を市場で現金に換えて寺の運営に当てるそうです。すこし変わったシステムです。このシステムを支えているのが、「お布施をすれば徳が積める」という信仰です。つまり、施すことによって自分の安楽を願っているのです。ですから、施しを受けている比丘が頭も下げずに、「ありがとう」とも言わずにその施しを受けるのは、相手に徳を積む機会を与えているからです。もし頭を下げてしまえば、相手からせっかくの果報を奪ってしまうという考えすらあります。
それと同時に、托鉢をするという行為自体が仏道修行の一つですから、托鉢僧の姿がそのまま仏法の具現であるという考え方も成立します。つまり、財施を受けている僧は、自分では法施をしているのです。托鉢とはそういう意味において、単なる「あげる・もらう」という関係ではなく、「施し合い」でなければなりません。日本でも私たちは托鉢に出かけています。南方仏教の比丘と違い、お布施を受ける際には網代傘を被った頭を深く下げますが、やはり「ありがとう」とは言いません。代わりに短い経文を唱えます。
財法二施(ざいほうにせ) 功徳無量(くどくむりょう) 壇波羅蜜(だんばらみつ) 具足円満(ぐそくえんまん) 乃至法界(ないしほっかい) 平等利益(びょうどうりやく)
(物を施し、法を施すという二つの布施行の功徳は計り知れないものだ。修行の完成に至る6つの行(六波羅蜜)の最初であるダーナが具足円満し、それが全宇宙にもおよび、あらゆる者を平等に利益するように)
この文の中にも施し合いの精神が現われています。そして、その施しあいが二人の間にとどまることなく、全世界に広がるように、という願いもまた大事です。そうなれば、「願楽」はもはや「自分の安楽を願う」ことではなく、相手の安楽のみを願うのでもなく、一切の者の安楽を願うことになります。
安泰寺のホームページにはかつて「参禅案内」という項目がありました。そこには滞在費について「お志で(安泰寺は托鉢と参禅者からのお布施で維持されています)」とのみ記していました。これに惑わされている方もおられたようです。
「志といわれても、具体的にいくらをあげればいいのかが分からない。一日三〇〇〇円とか、明瞭な価格を示してほしい」
そういうふうに問い合わせている方の気持ちは、分からなくもりません。実際に十年ほど前までは「一日玄米四合、もしくは一〇〇〇円」と明示していたときもありましたが、今はそれを止めました。なぜやめたが、説明したいと思います。
まず「玄米四合」ですが、これはいうまでもなく宮沢賢治の『雨ニモマケズ』にならって書いていたのです。しかし日ごろ肉体労働をしていても、実際には一日でそれほどの量を食べられません。賢治ご自身も食べなかったと思います。ましてや二、三泊の参禅はともかくとして、長期期間の滞在を考えている入門者が米の一斗や二斗を背負って山道を登るわけには行かないでしょう。そもそも、都会では玄米が手に入れにくいので、玄米を持って見えてくる人はほとんどいませんでしたし、安泰寺の田んぼでは毎年有り余るほどの収穫がありますから、もってこられても困るだけでした。
「一日一〇〇〇円」というのも決して高くはないと思うのですが、長期の参禅になると費用はかさばり、ある程度のたくわえがないと参禅ができないということになってしまいます。あるいは、短期参禅は有料でも、長期参禅を無料にすればいいかもしれません。安泰寺も昔、「一ヶ月以上滞在する者はただ」というルールがありました。ところが、いろいろな文句が出ていました。
「同じように働いて、同じ釜の飯を食っているのに、どうして俺たちだけ金を払わされているのか」
「金がなければ修行ができないとはどういうこと。仏道修行は金銭的な取引と関係のないところから始まっているのでは」
一日一〇〇〇円でもそうでした。とても一日三〇〇〇円は要求できないものです。しかも、これらの声は皆もっともらしいご意見だと思います。お金がなくても、修行はできるはずですし、皆と一緒に働けば一緒に食べれるというのが自給自足の大前提です。お金ではなくて、身と心を投げ出してほしいものです。一方、参禅者からたとえ一日一〇〇〇円のお布施をもらったとしても、自給自足で賄えない電気・農機具の燃料・道具など、あと曹洞宗に毎年収めている宗費はなかなか払えないものです。ましてや、将来の建物の修復を考えたら、それこそ旅館並みの代金を要求しなければならないでしょう。しかし、それでは商売になってしまい、修行道場ではなくなってしまいます。ですから、安泰寺ではあくまでも「志で」にこだわっています。
施すということは「これくらいあげれば、それくらいはもらえるはずだ」という考えをやめることですから、商品の取引とは基本的に違います。道元禅師はお布施の理念を次の言葉で説いています。
たとへば、すつるたからをしらぬ人にほどこさんがごとし。遠山のはなを如來に供し、前生のたからを衆生にほどこさん、法におきても物におきても、面面に布施に相應する功徳を本具せり。我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の實なるべきなり。
(お布施とは、例えば宝を赤の他人に喜捨するように、遠い山から花を持ってきて仏に供えることで、そこには、何の見返りを期待しない。前世からの宝である、この身と心をも生きとし生けるもののために使うことも施しである。施しは教えという形で表れることもあれば、物という形でも表れる。 自分の所有物ではないものでも、施せないということはない。一見、無価値に見えるものすら、施せばそれ相応の功徳を具えていることがわかる)(正法眼蔵・菩提薩埵四摂法)
物事に「わたし」という手垢をつけないこと、それが道元禅師の考えていた「お布施」ではないでしょうか。「これくらいのお布施をあげれば、それくらいのサービスはしてもらえるはず」という思いの中には、最初からお布施の理念が抜け落ちしまっています。
檀家の誰よりも大きな車を乗り回しながら、「立派な戒名をつけてほしかったら、それなりのお布施を包んでももらわなければ…」というお坊さんが「布施」の「ふ」の字も知らないのはいうまでもないでしょうが、一方お寺の会計が苦しいというお坊さんも少なくありません。ドイツの教会の場合は、洗礼から結婚、そしてお葬式まですべてが「ただ」です。ただといっても、キリスト教徒はすべて、所得税と一緒に教会税を毎月納めなければなりません。その額は所得税の3.5%です。いわば「宗教の国保」のようなもので、牧師・神父の給料も教会税で賄われます。その代わり、加入していればすべてのサービスをただで受けられるのです。教会税を毎月きちんと納めていれば、その額は一生の間でおそらく一年分の収入に上るでしょう。日本のお寺のお布施はドイツの制度と比べれば、「自費」に近い感じではないでしょうか。戒名料に目がくらむという人はいますが、一生涯お寺に一銭も納めていない人でも、いざ「ほとけ」になれば百万円で最高級の院号つきの戒名がもらえるそうです。ドイツの教会税を考えれば、日本の相場はむしろ安いといわなければなりません。
(2014年8月9日、ネルケ無方)