キリスト教、仏教、そして私・その23

仏教には愛がない?

くの欧米人が「仏教に愛がない」と勘違いしているのは、《無我》の教えを理解していないからだと思います。例えば、イギリス人のメアリーが私に聞きました。
 「仏教にも『ラビング・カインドネス(慈悲)』という言葉があるけれども、安泰寺ではそれをぜんぜん感じ得ないわ。禅僧は愛をどう実践しているのかしら?」
 それには、道元禅師の「菩提薩埵四摂法【ぼだいさったししょうぼう】」の教えで答えました。
 「具体的には、四つの方法がある。布施・愛語・利他・同事。『布施』は英語で言えばドネーションだけど、ちょっと意味が違う。私があなたに何かをあげるとか、あなたが私にものをくれるとか、そういう関係ではないのだ。そもそも『私のもの』や『あなたのもの』という考え方をやねることが布施の意味じゃないかな。安泰寺に来れば、『私の時間』とか、『私の空間』というものもないでしょう? 時間と空間、労働力と食べ物、そして自分自身を共有する、それが愛の基本だよ」
 「それで安泰寺では『滞在費はいらない』というのね」
 「そう。滞在費は要らない。逆に、お小遣いも与えない。それは『お布施がいらない』という意味ではないよ。ここで過ごす時間はぜ~んぶ『お布施』なんだから」
 「しかしそれは安泰寺だからできることで、一般社会では無理でしょう?」
 「たしかに、難しいと思うよ。だからこそ安泰寺のような場所を私は守りたい。でも、良寛さんという有名なお坊さんからは次のような話も伝えられている。ある夜、泥棒に入られた。寝ていた良寛さんはそれに気づいたが、思えば庵には盗むものは何ひとつもない。あまりにもかわいそうだから、寝返りを打つふりをして、泥棒にせめてそのせんべい布団を盗らせた」
 「それは、怖くて布団から落ちただけじゃないの? 普通にあげた方がインパクトがあったのに」
 「違うと思う。確かに、もし良寛さんがキリスト教徒だったら、『この布団を神からのプレゼントだと思え』と言って渡したかもしれない。仏教徒だから、そうもったいぶらないよ。良寛さんにとって、『あげる』も『くれる』もない。そして泥棒があったあとには、彼はこういう俳句を残した。
 『盗人に 取り残されし 窓の月』、それこそ良寛さんからのお布施だよ」
 「なるほど。言葉もお布施になるのね」
 「そう。それが道元禅師のいう『愛語』。なにも優しい言葉だけではによ。『マイ・ディア』や『ハニー』、『スイートハート』だけじゃないよ。日本人はよく『あいさつ』を言うでしょう? 『挨拶』の本来の意味は禅の師匠と弟子の問答だよ。でも本当は、そんな難しい話ではない。『おはよう』『元気?』『ありがとう』『お陰さま』『ただいま』『お帰り』『いただきます』『ごちそうさま』『お疲れさま』『お世話さま』『おやすみ』、それでいい。それが愛語だから」
 「なんで安泰寺で皆がやたら『ご苦労さま』『お疲れさま』というのがやっと分かったわ」
 「言葉に気持ちがこもってなければ、もちろん意味はないんだよ。ようするに、相手の立場に立って、相手が何を必要としていることを考えること。チームの中で作務している時も、台所で典座が料理をしている時も、いつも『利他』を心得なければならない。そして最後の『同事』は、相手と自分が同じ命を生きているという実感だ」
 「世界をよりよくするために、キリスト教はいろいろなボランティア活動を起こしているでしょう? 仏教にはそんな積極性をあまり感じけれども?」
 「仏教がいまいち社会活動に踏み切っていないというのは事実だと思うよ。しかし世界を変える以前には、自分を変えることが大事じゃないかな。よくお坊さんが子供たちにする話がある。
『大きな食卓の上に、おいしそうなご馳走が載っている。しかしその周りの人々は、一メートルよりも長い箸を手に持っている。それでは食事を口まで運ばれない。もしそこでイライラをし、お互いを箸で殴りあえば、この世の地獄。周りを見渡せば、今の世の中は実にそんな感じだ。ちょっと見方を変えていれば、「自分の口にはご馳走を運ばれないが、テーブルの向こうに坐っている人に進めることができる」と気けば、互いに食べさせてあげられる。そうすれば、この世は地獄から天国に変わる』」

 この世が天国になるか、地獄になるかは、おのおのの態度次第です。
私が住職している安泰寺という山寺の門をたたいている人には、それくらいの自覚を持ってほしいものです。残念ながら、多くの場合は救いを求めて仏門をたたいたとしても「寺男」くらいのつもりで、決して自分も菩薩であるという自覚はないのです。そこで私がたとえ、「一緒に菩薩の実践をしようよ」といっても、「いやいや、私にはまだ早い」と謙遜され、驚いて逃げ出す人さえいます。
「自分が菩薩? 冗談ではない!」それではだめです。今までくり返し申し上げたように、《菩薩》とは遠い将来の「成仏」のための手段ではないのです。誰でも、どこでも、菩薩の実践ができるのです。私だけではなく、安泰寺に滞在している一人ひとりが「何とかして助かりたい、人に救われたい」という思いを「自分こそ主人公」という自覚へ転換しなければなりません。済度の対処から、済度の主体にならなければなりません。そのためには仏祖を向こう側において仰ぐのでは不十分で、仏の心を自分の実践の中で実現しなければなりません。その実践こそ「安泰寺を創る」ことをも意味し、そこからは自分の人生を拓くこともできれば、社会の変革への第一歩も踏み出せるのです。しかし、多くの日本人はその一歩手前でとどまっているケースが多い、と私には見受けられます。
「今日から修行をさせていただくことになった者です。どうか、よろしくお願いいたします」
 安泰寺に上山したばかりの参禅者が夜のティー・ミーティングでそう挨拶するのは珍しくありません。日本語の挨拶として違和感のないセリフですが、ドイツ人の私がいつも思うのです。
「そもそも安泰寺で修行しようと思い立ったのはあなた自身ではないか? あなたに無理やり修行をさせるのが、私の仕事ではない。ここでは皆、主体性をもって、自分の意思でやっているよ。」
 そして、何があったか分かりませんが、上山した翌朝にこういう人もいます。
「予定より早く、帰らせていただくことになりました。ありがとうございました」
「させていただく」、そういうふうに表現したくなる日本人の心の文化をバカにするつもりはありません。それにしても、誰も「帰れ」とはいっていないのにどうして「帰らせていただく」といいたくなるんのでしょうか。どうしてそこまで自分に主体性がないをアピールするのでしょうか。そして相手も決して
「えぇ? どうして帰ることに決めたのですか」
 とはいいません。ドイツ人の私ですら、間違っても
「そうだ、俺がお前を帰してやったのさ」
 とはいいません。そっけなく
「もうお帰りになるの? お気をつけてね」
 と言います。こちらも、いかにも相手の行動に主体性がないかのように振舞うのです。晴れの予報だった天気がいつの間にか雨になったと同じように、相手が予定より早く山を下りることを決定したことの責任は誰も取ろうとしません。
 欧米なら、「私がそう決めたから」と必ずいうでしょう。ハンバーガー一つでも、何々ソースがいいとか、レタスは要らないからチーズを二枚入れてくれとか、注文が絶えないのが欧米人です。「お任せします」という言葉は日本人にしか通用しません。英語にも”As you want”や”It’s up to you”といった表現がありますが、これは「あなたのことだから、自分の好きなようにすればいい」という意味で使われることがほとんどで、自分に関係したことを一貫して自分で采配しようとします。
 
 仏教を実践するためには、〝ブッディスト〟(仏教徒)として仏教を第三者の目で見るのではなくて、「私こそ主役だ」という自覚を持つことが必要です。つまり仏教にに一人称か、三人称か、で関わるかの違いです。日本語で言わなくても分かる一人称は、ときと場合に応じて「私」「僕」や「俺」だったり、あるいは「われ」「自分」「小生」などに変わったりするのも、欧米人からみれば不思議です。相手も「あなた」「君」「汝」や「お前」、「そちら様」から「きさま」まで、さまざまです。ということは、日本語における話者の主体はどうやら、欧米人が考えているような固定した、確固たる個人ではないようです。自在に変身できるアメーバといえば過言かもしれませんが、欧米人がそのころころ変わる一人称を聞くと「結局、あなた、いや君? お前? そのアイデンティティはなんなの?」と聞きたくなります。英語なら”I”はいつも”I”。それは王様から一般庶民まで一緒で、家庭の中でも、仕事場でも、友達同士でも同じです。この”I”こそ、自分の変わらないアイデンティティであり、采配する持続的主体でもあり、自分の行動に対する責任を負う人格なのです。それがはっきりしていればいるほど、主義主張もはっきりします、そのぶん喧嘩にもなりやすい。「敵を愛せよ」というイエスも結局、愛するためには敵を想定しなければなりませんでした。
日本語に一貫したアイデンティティを表す言葉が「ない」というのは、仏教の「無我」の教えに非常に近いかもしれません。日本人があまり喧嘩しないのも、「敵を愛せよ」と言う以前に、相手と対立しようとしないからだと思います。

(2014年8月3日、ネルケ無方)