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キリスト教、仏教、そして私・その12

失楽園その2:仏教とミルク・スキン

教の中には、「失楽園」のような物語はないだろう、と思っている人もいるかもしれないが、実はそれがパーリ経典の『起世因本経(“Agganna Sutta”)』にあるのです。ご紹介しましょう。

仏教の背景にあるのは古代インドの思想ですが、その宇宙観では世はビッグ・バーンから始まり、ビッグ・クランチで終わるのではありません。そうではなく、宇宙は絶え間なく膨張と縮小を繰り返すのがインド人の考え方です。つまりビッグ・バーンとビッグ・クランチは一回限りの出来事ではなく、無数に起るのです。とうぜんビッグ・バーンのようなときには、人間はこの世では生きていられません。そういうときには、六道に輪廻転生し続けている生き物はどこにいるのでしょうか。

宇宙が最小限に縮小した時点では、全ての生き物は実は天上界に住んでいるそうです。ほかには、居場所がないからです。宇宙が再び膨張し始めると、やがて人間界もまた現れてきます。しかしその時の人間にはまだ男女の差がなく、食事を取る必要もありません。周りにはまだ天地もなく、太陽も月もなく、明暗がなく、四季も当然ありません。いわば、お母さんのお腹の中のような状態です。

宇宙が膨張するにつれて、熱かった乳が冷めるときと同じよう、世を充たしていた液体の表面に膜ができたとパーリ経典に書いてあります。その膜ができたことによって、天と地、海と陸が分かれてしまいます。また、その膜がとてもおいしそうなにおいがしたそうです。かつてのアダムがりんごを食べたように、インドの宇宙の原住民も、それを口にしてしまいました。罰が下ったわけではありませんが、それを食べたとたんに、明暗が分かれ、太陽と月が現れ、日夜ができて、四季が巡るようになったそうです。その膜を食べた人間にははじめて身体ができて、美しい人もいれば、そうではないい人もいるということに気づきました。アダムとイブが自分の裸に気づき、恥ずかしくなったことを思い出されます。

ところが、膜の上にはやがてカビのようなものが生えてしまいました。そのカビを食べてみると、それもお人間たちの口にとても合いました。次にはいろいろなツルが地上を這うようになりました。やはりそれもおいしく食べられたそうです。草の実が出来たときも、人間はそれをおいしく食べることができました。

しかしここから、インドの失楽園の物語が加速します。このころから、人間が男女の差に気づきます。男は女を求め、女は男を求めるようにんあります。とうぜん、夫婦の行いをすることになるまで時間がかかりいませんでした。そして「俺の妻」「私の夫」と言い始めました。自分の配偶者を取られないためには、それぞれの家族はマイ・ホームを建てました。そして人間は贅沢をいうようになりました。それまで食べるたびに山に入って草の実を採っていたのが、一回で一日分、二日分、四日分、八日分、やがて一六日分をいっぺんに採ることにしました。つまり、食材の蓄えを持つようになりました。いつの間にか、人間はそれぞれ別の場所で自分の家の分だけを栽培するようになっていました。気づいてみたら、栽培していた草は稲になり、米はモミ殻に覆われていました。

田畑を個人で所有するようになってから、他人の作物を盗む者も表れました。それまでは「みんなのもの」しかなかったので、とうぜん所有の概念もなければ盗みもありませんでした。ですからはじめて盗みをした人は「僕は何も悪いことをしていないよ」としらんぷりをしたのも理解できなくはありません。しかし、その人は相手に殴り殺されてしまったそうです……。そうして、「浮気」「盗み」「うそ」「殺し」が発明された、というのが『起世因本経』の教えです。聖書の物語とこのお経にはたくさんの違いもありますが、驚くような類似点も少なくないと思います。いつ、どこかで、両者が影響しあったと考えることもできなくはありません。あるいは、両者の本となった物語がもっと昔から中近東あたり存在していたかもしれません。しかし、古い時代のほど確かな文献は少なく、はっきりしたことはいえません。

(ネルケ無方、2013年5月28日)