キリスト教、仏教、そして私・その2

我らが法王

〇一二年三月のある日のことです。「教皇【きょうこう】が死去!」というニュースの見出しを目にしたとき、私はびっくりしました。
「あらまぁ、それは大変なことだ」
仏教徒のつもりの自分も、どこかドイツ出身のあの人に親近感を覚えていたかもしれません。
「教皇」といえば、キリスト教の一番偉い人です。「法王」とほぼ同じ意味です。日本のメディアではどちらかといえば「法王」という言葉をよく見かけますが、教会ではむしろ「教皇」という言い方を好んでいるようです。英語では「ポープ(Pope)」、ドイツ語では「パプスト(Papst)」、イタリア語では「パパ(Papa)」です。

ベネディクト十六世が二〇〇五年、ドイツ人としては五〇〇年ぶりにカトリック教会の教皇に選ばれた翌朝、ヨーロッパ全体でも一番多い発行部数を誇る「Bild(ビルト)」というタブロイド新聞を飾っていたのは一二の大文字でした。
「WIR SIND PAPST (我らが教皇!)」(上の画像はその時のビルト新聞の表紙)
この言葉が後に大流行するほど、ドイツ中が沸きあがっていました。方や左翼日刊の代表「taz(タッツ)」 はのフロントページ一面を黒いインクで塗りつぶし、たった一〇字の皮肉を載せていた。


「Oh, mein Gott!」とはいうまでもなく、ドイツ語の「オー・マイ・ゴッド」。
ワールド・カップでもないのに、その熱狂ぶりはとにかくすごかった。
ところが、ニュースをよくよく読んでいると、去年なくなったのは私が思っていたベネディクト十六世ではなく、同じく「ポープ」といわれていたシェヌーダ三世でした。調べてみると、シェヌーダ三世はすなわちコプト教皇(正式には「アレクサンドリア教皇並びに聖マルコ大主教管区総主教」)の名前でした。父親を意味するラテン語の「パパ」で教皇を呼ぶこともあり、また日本では「法王」という名称も使われています。教会によってその正式な名称は違い、正教会の場合は「全地総主教」という日本語訳もあります。ベネディクトは言うまでもなく、健在です。


(シェヌーダ三世)

そのベネディクトですが、これからはコンクラ―ヴェといって、一〇〇数名の枢機卿【すうききょう】によって新しい教皇が選出されるはずです。本当は枢機卿が二〇〇人以上もいるのですが、そのうち選挙権を持つのは八〇歳未満のものだけです。その数を厳密に言えば、一一七人です。そのうち一〇三人は、すでにバチカンに集まって、教皇選挙の準備に差し掛かっているそうです。彼ら枢機卿の訳四分の一はイタリア人です。なにしろ、バチカンは彼ら地元ですから、発言権が強いようです。アジアで圧倒的に枢機卿の多い国はインドです(七人のうち、選挙権を持つのが五人)。韓国にもタイにもそれぞれ一人いますが、すでに八〇歳を過ぎているため、選挙権はありません。東アジアで選挙権を持っているのが、フィリピンの三人の枢機卿のうちの一人と、香港の二人のうちに一人、ベトナムの一人とインドネシアの一人で、合計四人だけですが、インドネシアの枢機卿は健康状態がよろしくないため、欠席する予定。もちろん、日本人はいません。
なお、インドネシアの枢機卿のほかには、欠席者は一人だけです。それはスコットランドのキース・オーブライアンで、彼は最近になって他の神父数人からセクハラ疑惑を掛けられています。一方、神父の手による児童の性的虐待事件を知りながら、それを長年隠し続けたとされているロス・アンジェレスのロジャー・マホーニー枢機卿は虐待の被害者をはじめ、多くの一般人の反対を押し切って、選挙に参加する予定です。
二〇〇数人の枢機卿の内、一〇〇人あまりにしか選挙権がないということはつまり、半数はすでに八〇歳を超えていることを意味します。そして被選挙権は、カトリック教徒の男性なら、誰にでもあります。もちろん、日本でもOKですが、カトリック教徒以外の者、またカトリック教徒であっても女性はダメです(おかまは可)。




(かぶきもの)

しかし、教皇になれる現実的な見込みのある人は、やはり選挙権をもつ八〇歳未満の枢機卿だけとされています。
現時点で、有力な候補者として、イタリア人勢力のメンバーの何人のほかには、ブラジル人、カナダ人、そして二人のアフリカ系の枢機卿の名前が挙がっています。新しい教皇が決まるまで、選挙が数十回繰り返されることも珍しくありません。なにしろ、一人の候補者が全体の三分の二の票を集めなければ、決定とは充たされません。さて、敵対している枢機卿もいる中、派閥争いが激しいそうな気がしますが、彼らをまとめるものはただ一つ、「聖霊の働きかけ」だけです。いや、それは教会の公式な見解です。本当はどうか、私には知るすべもありません。ただ、察すれば、「聖霊の働き」だけでは説明できない、いろいろな足の引っ張り合いもおありでしょう。

ちなみに、コンクラーヴェという言葉は「鍵がかかった」という意味らしいです。枢機卿たちは、新教皇が決まるまで、外へは出れませんし、外部との連絡も取れません。携帯も、パソコンも使用禁止。もっぱら、人の目の届かないところで、密談が続けられるのです。ところが、そのコンクラーヴェがまだ始まってもいない3月1日には、新聞に「新法王を選出」という見出しがありました。読んでいたら、ベネディクトが退位するその日、二月二八日にすでに決まったとか。そんなはずはない!この新法王も実は、ローマ法王ではなく、五〇年ほど前にエジプト正教会から独立を果たしたエチオピア正教会(テワヘド教会とも)の新法王アブネ・マティアスのことでした。これは若いときの写真ですが、エジプトの法王と似た格好をしていますね。ちなみに、法王に選べれるまではエルサレムの総教主だったそうです。


(新法王アブネ・マティアス)

ボブ・マーリーの世界的な人気のおかげでよく知られているラスタファリ運動も、キリスト教の聖書を立脚点としている宗教です。彼自身はおそらくレッキとしたクリスチャンのつもりでいると思います。しかし、二十世紀のエチオピアの皇帝であったハイレ・セラシエ1世(ラスタファリは彼が即位する前の名前)をメシアとして拝んでいるため、バチカンから見れば異端もはなはだしい。それはともかく、この宗教はエチオピアの旧皇帝を神の化身としていながら、ジャマイカの発祥した、ちょっとかわった宗教です。ウィキペディアによれば、日本にも信者がいるそうですが、それは単にボブ・マーリーを崇拝しているレゲエおじさんではないでしょうか。繰り返しになりますが、ラスタファリのカミサマはマーリーではなく、ハイレと言います。
ラスタファリたちのボキャブラリーはクリスチャンとほぼ同じですが、一般のクリスト教徒から仲間と見なされていません。しかし、もともとエチオピア正教会(テワヘド教会)とは無関係にできたラスタファリ運動の信奉者の多くはいまや、エチオピア正教会に入信しているそうです。


(右がハイレ、中央はマーリー、左はライオン)

実は、キリスト教には「教皇」や「法王」と呼ばれる人物が数人もいるようです。キリスト教圏出身の私でも、つい最近まではそんなことをまったく知りませんでした。日本でも、やはりローマ法王が一番湯名ではないでしょうか。しかし、そのほかには東方の正教会、そしてエジプトのコプト教会にも「パパ」といわれる最高指導者、つまり教皇がいます。
分裂の経緯については後述しますが、それぞれの教皇の誕生のルーツは、キリスト教教会が分裂する前にローマ、コンスタンティノポリス(現在のトルコにあるイスタンブール)とアレクサンドリア(エジプト)などにいた、もっとも有力な主教たちの対立です。
一概「キリスト教」といっても、今はたくさんの教会組織があってすべてを取りまとめるリーダーはいません。ローマ法王といえども、カトリックの世界でこそ彼は絶対的な権限と見なされているものの、正教会においてその権威はゼロに等しいです。また、正教会(オーソドックス)といわれている教会も実は複数いますが、どれも「私たちこそ正しいキリスト教を説いている」と主張します。ちなみに「カトリック」の意味は全体・普遍ですから、カトリック教会はキリスト教全体を代表している自負があり、決して「私たちはオーソドックスではない」と謙遜しているわけではありません。逆に、正教会の方も「オーソドックス・カトリック・チャーチ」と自称する場合があります。どの教会も、自分こそ本物だと主張しているわけです。しかし、その中でローマ法王のみが不可謬説【ふかびゅうせつ】をもとに、「教会全体の代表かつ聖霊の誤り得ない代弁者」と自負しているのです。

西ヨーロッパに広まった西方の教会がバチカンを中心としたカトリック教会と、プロテスタントの諸派に分かれた理由のひとつも、ルターやカルヴァンのローマ法王への抵抗でした。宗教改革の幕開けのきっかけとなった九五ヶ条の提題では、ルターは皮肉って問いかけています(そして結果的に、教会から破門されてしまいます)。
「億万長者よりもお金持ちの法王はどうして、貧しい信者に贖宥状【しょくゆうじょう】を売りつける必要があるのか。サン・ピエトロ大聖堂一つくらい、どうして自分の財産で建てないのか。お金と引き換えて煉獄【れんごく】で苦しむ魂を救うのに、どうして慈悲を理由にすべての魂をただで救わないのか」
私はドイツのルター派の教会の中で育ちましたが、ひょっとしてルターの反骨の精神はこの不良坊主の仲でも生き続けているかもしれません。

   
(左がルター、右がネルケ。もちろん、血のつながりはない)

それはともかくとして、教会分裂が起ってしまいそれぞれの「パパ」が対立し、教皇の権威を認めないグループも誕生したことには理由があります。その一番の理由はそれぞれの地域の文化背景の違いや地理的な条件ではありません。教会の中のカリスマ的な存在が権力を争って、その結果として別れた道を歩んだという単純な理由だけでもないようです。一番の理由はやはり「ドグマ」、つまりキリスト教の教義に対する見解の一致が得られなかったことです。細かいドグマに対する解釈の食い違いの場合でも、シスマと呼ばれるキリスト教の分裂の原因となったことは少なくありません。そのもっとも新しいケースの一つは、先のローマ法王の首位と不可謬のドグマをめぐっておきました。そのドグマが公式に取り入られたのは案外遅く、一九世紀に行われていた第一バチカン公会議のときでした。このドグマがカトリック以外のキリスト教から見ればは、はなはだしいうぬぼれにすぎないのはいうまでもないですが、カトリック教会の内部からも反発がありました。その後「復古カトリック教会」としてドイツ語圏を中心に、バチカンから独立したもう一つの「カトリック教会」ができてしまい、その教団は今も存続しています。

方や、既成のカトリック教会の中にも進歩的な考えを持つ神学者や神父がいます。例えば、ベネディクトがまだヨーセッフ・ラッチンガーと名乗っていた40年前に、彼といっしょに大学で神学を押していていたハンス・キュングもその一人です。実は、二人はもともと非常に仲がよかったようです。


(ハンス・キュング)

改革的だった第二バチカンの公会議にも、この二人はもっとも若い神学者として参加していました。つまり、将来の教会の改革を担うはずの二人でした。ところが、一人は組織の中で出世するに連れて、だんだん保守派に回ってしまい、やがて教会を第二バチカン公会議以前の戻そうとしていました。その一人がベネディクトです。しかし、ベネディクトは大学でこそこそと勉強しつづけ、教鞭をとっていたかつての仲間キュングを決して忘れていたわけではありませんでした。あろうことか、彼の教えを異端とし、彼に破門状をたたきつけていたのです。もちろん、大学の教職も首になってしまっています。キュングもまた、バチカンに遠慮しませんでした。キュングの目から見れば、ベネディクトも、ヨハネ・パウロも、第二バチカン公会議で果たしたせっかくの改革の精神を裏切った者です。彼らは反動的でしかなく、今、教会が面している諸問題を解決する力はとてももっていないと主張しています。先日のニュー・ヨーク・タイムズに寄せた記事では、「このままでいけば、カトリック教会は少数派のセクトで終わってしまう」と、キュングは吐き捨てていました。
一方、教会と分裂してしまった「復古カトリック教会」もあれば、教会内部にもキュングのような進歩派もありますが、両方の主張はさほど違っていません。単純すぎるたとえかもしれませんが、教会が十九世紀の第一バチカン公会議でハンドルをいっきに右に切ったというなら、二〇世紀の第二バチカン公会議では、方向は左に大逆転。つまり、第一公会議前と、第二公会議の後とでは、教会のマニフェストはそれほど変わっていません。独身制度の廃止、女性の叙階【じょかい】の公認(現時点で、女性は聖職者にはなりえない)、教皇の不可謬説の廃止、教会の民主化、などです。
「復古カトリック教会」が復古させたいのは、第一バチカン公会議以前のキリスト教信仰ですが、第二バチカン公会議の精神をさらに発展させたいという進歩派の理想も実は、初期のキリスト教教団のあり方なのです。組織という組織がまだなく、小さなコミュニティがあちらこちら、転々としてあるだけ、ドグマもまだ固定されていない時期のキリスト教です。このときはもちろん、宗教裁判も、破門も、そして「法王」も「教皇」もいなかったのです。

(ネルケ無方、2013年03月5日)